適材適所という方便
自分がされて嫌なことはしないようにしましょう。
今はどうか知らないが、僕が小学生の時はこの言葉をよく聞いた気がする。
大人になった今の僕はこれを実践できているだろうか。
人にはなるべく優しく、親切に。自分に余裕が無くても怒りの感情を向けないよう。ずっとずっと意識はしていても実践できてない時が多すぎる。
幾千の悲しみを越えてもなお、人の痛みは完全に理解することはできない。
今まで食べたことのなかった食べ物の味は分からないように。
心の世界は広大すぎる。
だから僕はいつまでも痛みのわかる人にはなれない。
寛容さと寛大さと。
雑な扱いを受けることも、心無い言葉を浴びせられることもたくさんある。今は慣れたし、恨んだりはしていないが許しているわけではない。
言い返さないことも、恨まないことも、怒らないことも。優しさからくるものではない。これは純粋に芯の強さであり、寛大さだと思う。
自分自身がこの程度では揺らがないという確信を持っているからこそ、受け流す強さ、折れないしなやかさが発揮される。
僕だけに限らず、寛容さと寛大さを使い分ける事はほぼ無意識に実践していることだと思う。例えば仕事をする上では寛大さを優先すると思うが、恋人や親しい友人と会うときは寛容さが主軸になると思う。
人は、寛容さと寛大さを混同することがある。
新社会人が自分の指導係たる先輩に好意を持ってしまうのも、自分に向けられているのが寛大さであることに気づけないからだと感じる。
今、自らに向けられているその態度、言葉、表情の根底にあるのはどちらなのか見極める能力が必要に思える。
これができなければその人とは自分の望む関係性になることはできないのだろう。だが悲しいかな、僕もまた、よく間違ってしまう。
独楽
心とは独楽のようなものに感じる。
回転が落ちて転んだ時には再び回しなおすところも、
地面の起伏に沿ってゆらゆらと動いていくところも、
回転が速ければ突っついても転びにくいところも。
折れにくい心を持つ人は独楽を回すのがうまい人なのかもしれない。
心の元気がない時はきっと、独楽をうまく回せない時。
筋肉痛なのか関節を痛めたのか、はたまた骨を折ってしまったのか、それとも眠気に負けそうになっているのか。
その時その時によって治療方法はきっと違う。
だって切り傷に湿布は効かないのだから。
隠さないこと。秘める事。
寛大さは隠さない。だけど寛容さは内に秘めるものでありたい。
そして寛容さを発揮する相手はひとりかふたりくらいで充分なんだろう。