思えば遠くへ来たもんだ
祝! 還暦
本日、人生初の還暦を迎えることになった。自他ともに生き急いでいるイメージが強いのだが、やっぱり不器用なのか今日に至るまでに60年もの歳月を費やしてしまった。
振り返りとか、反省とかが苦手な性格もあって、今まであまり過去の話をしてこなかったが、折角の機会なので note にまとめてみることにした。
昭和39年8月27日
誕生日は木曜日だった。当時から引っ込み思案だった僕は、予定日を過ぎてもなかなかこの世に登場しなかったらしい。そのために 3,880g と大きく産まれてきた僕は、母に苦労をかけただけではなく、「小さく産んで大きく育てる」という理想形を生まれながらに否定してしまった。
完全なる余談だが、今年の4月に発売された僕の尊敬する斉藤徹さんの「小さくはじめよう」はまさにこの理想形をビジネスで実践する良書なので、機会があったらぜひ読んでみてほしい。
東京オリンピック
生後2ヶ月後に、東京オリンピックが開催された。僕は沿道に立つ母の腕の中で、必死に「あべべ、あべべ!」と手をたたきながら応援していた。
・・・つもりでいたのだが、後で両親に聞いたところ、応援になんか行ってないし、オリンピックも見ていなかったとのこと。考えてみれば、裕福な家庭でもない昭和の一般家庭で、しかも生後2ヶ月の子供を抱いて沿道で応援なんてありえないのだ。まったくもって人の記憶なんていい加減なものだ。
2021年には、人生二度目の東京オリンピックを見る機会があったわけだが、みなさんご承知の通りコロナで会場に行くことすらできず、またしても生で見ることはなかった。
学生時代
幼少期
「生まれはどこですか?」と聞かれたときに、日暮里と鶯谷のハーフですと答えるのが僕の定番ネタだが、幼少期は練馬区に住んでいた。共働き家族だったので、一つ違いの妹の手を引いて毎日保育園から帰ってくるのが日課だった。
この頃の記憶はほとんどないのだが、ある日両親の帰宅を待てず、自宅にあった味付け海苔を大量に食べて、黒色の嘔吐をしたときの母のびっくりした顔くらいは未だに覚えている。
中〜高校時代
小学生の途中で引っ越してきた荒川区は、The下町の風情の残る街だった。団塊の世代よりも少し下だったこともあって、子供の数に比べて学校の数が多く、中学時代は1クラス30名弱で1学年2クラス、全校生徒も200名いなかった。
校庭も小さく、50m走をするだけの直線距離を確保するのがやっとだった。しかもゴールの先はすぐに砂場だったので、全力でゴールするなと注意された。
それに比べて高校は大きかった。憧れだった野球部に入ったが、体も小さく(高校入学時は162cmだった)活躍することはほとんどなかったが、3年間辞めずに続けたのは良かったと思っている。そしてなぜか、高校時代に現在の180cmまで成長した。
専門学校時代
コンピュータに興味があった僕は、創立2年目のコンピュータの専門学校に入学した。COBOLやC言語などを学び、課題のプログラムをいち早く仕上げては友達に売っていた。情報処理試験も学生時代に取得していた。
当時、居酒屋の厨房でバイトをしていたので、大体1時限目は出られなかったが、そのときに培った包丁技術は今でも役に立っているし、料理が好きになったのもこの頃からだ。
また、居酒屋から銀座の黒服に転職?したのもこの時期で、銀座のクラブの世界を目の当たりにして大人の世界を知ったのは良い経験だった。ちなみに現在も6丁目のそのクラブはあるらしい。
そして社会へ
就職
当時、日本で一番宇宙に近い場所(浜松町の貿易センタービル)にオフィスを構える会社に就職した僕は、念願だった宇宙ロケットを打ち上げることはできず、戦闘機に搭載するコンピュータのエミュレーターを作ることになった。仕事的には面白いのかも知れないが、喜ぶ人の顔が想像できずに6ヶ月で退職した。僕の正社員生活は未だにこの6ヶ月しかない。
フリーターから独立
退職しても再就職する気はあまりなく、僕は当時やっていたバンド活動を続けながらフリーのプログラマとして生計を立てていた。1行10円とか100円とかでCOBOLのプログラムを作る仕事だ。実際にプログラムを使うのは築地の仲卸さんたちで、早く帰れるようになったと言ってもらえることが嬉しかった。
バンドの方はというと、当時流行っていたイカ天に出たり、ライブハウスにも毎月出たりしていたが、所詮アマチュアの域を出ることはなく、メンバーも仕事が忙しくなったり結婚したりで活動中止になった。
そんな中、パソコンブームが訪れる。もちろん僕も個人的にはパソコンを使って色々遊んでいたので、これを仕事にしたいと思っていた。
そこで一念発起して、父の会社にコンピュータ部門として入社したのが1993年頃だったと思う。当時は、パソコンの販売やセットアップ、操作指導などがメインだった。その後父は引退し、僕が社長になって今の会社名に変更した。
仲間と協業
当時、パソコン自体は流行っていたものの、セットアップしたり導入支援、教育をやるところはまだほとんどなかった。逆に言えば、みんなが手探りでビジネスにしようと考えていた時期でもあった。
そんな仲間たちが集まる協会があって、そこに所属する同世代のメンバー5人(みんな自分の会社がある)で新会社を作った。その会社は、当時一大ブームとなった Windows95 だけでなく、法人向けのビジネスを視野に入れて Windows NT をターゲットにしていた。
だがしかし、30歳そこそこの若いやつらがやってる会社にシステム構築の依頼なんて来るはずもなかった。
教える仕事
LAN、LAN、LAN
結局、システム構築の仕事はほとんど来なかったが、我々の持っている知識を欲しがる企業がいた。Windows NT のようなサーバー製品には必ずネットワークが必要で、LANの知識とかをサーバー製品と一緒に教える仕事が舞い込んできたのだ。
これが結構良いビジネスになった。とくにまだ分社化する前のNTTは大得意先で、全国の支社支店にLANを教えに行った。
講師として生きる
そうして始まった講師業だが、最初は大変だった。生徒は自分よりも遥かに上の世代で、若い教官(NTTでは先生を教官と呼ぶ)に教わるのは面白くないと思う人も中にはいた。
そんな人たちにも良い評価をもらわなければ次の仕事はない。外部の講師なんて、アンケート結果次第で次の仕事はすぐに来なくなる厳しい世界だ。
なので、どうしたらわかりやすく話ができるか、アンケートが良くなるのかを研究して、準備して、練習してきた。
僕が「□い芸人」と名乗っているのは、話が面白いというだけでなく、人気がなくなると呼ばれなくなる、まさに芸人として生活しているからなのだ。
LANから電話へ
この業界は流れが早い。LANやPCサーバーから携帯電話にビジネスがシフトするのにそれほど時間はかからなかった。1999年にiモードが始まり、ケータイビジネスに注目が集まると、我々の顧客もNTTからNTTドコモに変わっていった。
ドコモでは大きく、ショップを含む営業向けの研修と法人のシステム向け研修に分かれていて、僕は主に後者を担当していた。当時ドコモが販売していたFMC関連の商材や、セキュリティ、IoT(当時はマシンコムと呼んでいた)などが対象だ。自社の製品やサービスを他社の講師が教えるのはいささか変な話ではあるが、大企業になると大体3年で異動になるので、サービスのベテランが周りにいないから我々に仕事が来るのだ。
青天の霹靂
Boundioとの出会い
ドコモの仕事では、当然ながら携帯電話とシステムを連携したものが中心になる。たとえば、外出先のケータイから社内のグループウェアに電話をかけることで今日のスケジュールを読み上げるといったソリューションは、まさに夢のようなしくみで大いにウケた。
だがしかし、これはあまりにも高額だった。そこまで投資してこのソリューションを購入するのは、よっぽどの大企業くらい。まさに夢のシステムだった。
そんな折、BoundioというKDDIウェブコミュニケーションズが2012年に初めたサービスを知った。Boundioはシステムから電話を架けることができるサービスで、相手に対して自動音声を流すこともできた。しかも月数千円で運用ができる。これはイケるぞという予感が走った。
そしてTwilioへ
しかし、2012年にスタートしたBoundioは、わずか数ヶ月でサービスを閉じてしまった。その代わりに、Twilio の独占販売を開始するというのだ。
Boundio は発信しかできなかったが、Twilio は着信もできる。しかも API を通じていろいろなシステムと連携ができる。
Twilio のセミナーでは、音声認識サービスを連携した文字起こしなどが紹介されていて、その時に「これは世界を変えることができる発明だ」と直感したのだった。
TRANSRECリリース
早速自分でもシステムを作ってみた。Twilio を使った留守番電話「TRANSREC」である。通常の留守番電話のように、声でメッセージを残すと、それを音声認識して文字でメールしてくれるサービスだ。
サービスのプロトタイプを作ったのは2013年。翌年の4月に050番号が月額110円になったことを受けて、2014年7月にローンチした。今から10年前のことだが現在もサービスは継続していて、お陰様でユーザー数も順調に伸びている。価格も据え置きだ(そろそろ値上げしたい)。
エバンジェリスト
ビジネスコンテストの受賞
Twilio が日本でローンチしてから、毎年一回ビジネスコンテストが行われてきた。僕は2015年のコンテストで最優秀賞を頂き、本国のイベントに招待してもらった。そのとき作ったサービス「自動電話リレーサービス」は残念ながらローンチすることはなかったが、同じ年の優秀賞を受賞した「CallConnect」はとても立派なサービスに成長して、先日バイアウトされた。おめでとう!
エバンジェリスト誕生
最優秀賞を頂いたその年、僕にとって大きな出来事があった。それは2013年から Twilio のエバンジェリストをやられていた前任の宋さんが退職されてしまったことだ。
Twilio の魅力はすごく感じていたし、宋さんにもとても助けられてきたので、このままエバンジェリストが不在になることはまずい。
そこで当時の事業統括責任者に直談判して、エバンジェリストに立候補したのが2016年。ここから僕の CPaaS エバンジェリストが始まった。
エバンジェリストのお仕事
エバンジェリストになってわかったことは、Twilio はまだまだ知名度が低いってことだった。僕はローンチから知っているので当たり前だが、エンジニアの多くはまだ Twilio の存在や何ができるかをまったく知らなかった。
なので、一人でも多くの人に Twilio を知ってもらうべく、年に100回以上イベントに登壇したり、ハッカソンの API パートナーになったりと、とにかく認知活動に力を入れた。
もちろん、1回で Twilio を知ってもらうことはできないので、とにかく目立つ、そして記憶に残るためにどうすればいいかを考えた。サービス名やできることより、あんな人が居たなという記憶に残るようにした。
イベントでは常に赤い Twilio ジャケットを着て、面白いデモを披露する。これを続けることによって、赤い芸人という称号をもらうことができた。
現在は Twilio ではなく、同じ CPaaS の Vonage のエバンジェリストをやっているが、赤のイメージはなかなか抜けないらしく、未だに「今日は赤くないんですね」と言われるのが最近の悩みでもある。
このあとはどうする
ゴールはどこに設定してあるのか
今年の春にCLS高知で登壇させてもらったときにも話をしたが、僕にとって CPaaS は発明だ。この発明が世の中に広く使われることで、文化になることが僕のゴール。
そのためにはまだまだやらなくてはならないことがたくさんある。いろいろな場所に行き、いろいろな人と会う必要がある。そして、一人でも多くの人が CPaaS を使って便利な世の中を生きてほしい。
そんなことを最近は考えている。
いつまで働くつもりなの
うちは代々商売人の家系なので、定年という概念はそもそもない。むしろ、仕事を辞めてしまったら、その後すぐに亡くなってしまう家系だ。
なので、鮪と同じく働いていないとくたばってしまうと信じている。
しかし、気持ちはともかく体はなかなかそうはいかない。老眼もひどいし、物忘れも激しい。でも毎日楽しく過ごしている。
たとえば食事。江戸っ子なので、好物はもちろん鮨である。お気に入りの鮨屋に行って、小肌や赤貝を食べているときが本当に幸せだと思う。そんなネタはすべてインスタに載っているので、もし気になる人がいたらフォローよろしく。
直近の予定
最後に直近のイベント告知もしておこう。
こういう仕事もエバンジェリストとしては大切だ。そして、これらのイベントの資料はまだゼロバイトである。これもまたエバンジェリストらしい(エバ仲間はみんなそう思っているはず)。
まずは9月6日、Qiitaさん主催のオンラインウェビナー。「リアルタイムコミュニケーションのシステムを設計・運用する際のベストプラクティス」というテーマでLTをする予定だ。
翌日7日は高知。四国クラウドお遍路2024 in 高知で、こちらでは「Amazon ChimeとVonage Videoの徹底比較」というLTをする予定。高知に行くといつも太るのが難点だ。
その翌週、9月14日は徳島の kintone Café 。徳島は2回目の参加。今回は何を話そうかな。
そしてその翌週、9月21日は岡山。ここは前回東京で開催した Postman さんとのハンズオン。実際に Vonage に触って、CPaaS の世界を体感することができるので、お近くの方はぜひ。
そしてついに来ました!Vonage ハッカソン。Day1が9月29日(オンライン)、Day2が10月12日(ハイブリッド)。オンラインもあるので、地方の方でも参加できる。
最優秀賞は、星野リゾートギフト券20万円分!チームでも個人でも、皆さんの応募を待ってるよ。
それと最後に、今日から技術評論社さんのブログで僕のCPaaSの連載が始まったのだ。パチパチ。
3回に分けて CPaaS の魅力をお伝えするので、よかったら読んでくだせー。
まとめ
長々と読んでいただいてありがとうございました。
還暦を迎えたからといって特に変わることなく、今まで通り頑張るしかないってことです。皆さんが還暦を迎えたときは、たぶん僕はさらに年をとっていることでしょう。そのとき、あの人まだやっているよって半ばあきれ顔で笑われるのが次の目標ですかね。
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