マニアでありつづけることの難しさ

マニアと呼ばれる人種がいる。アスリートと呼ばれる人種やアーティストと呼ばれる人種、ロマンチストと呼ばれる人種がいるのと同様に、彼らもいる。ビジネスパーソンという人種やパパ・ママといった人種もいるが、彼らはやがて卒業するのでここでは考えない。アスリートは死ぬまでアスリートだし、アーティストやロマンチストも同様に、そしてマニアも死ぬまでマニアだ。

私もマニアだ。具体的には国産車史マニアや合唱曲マニア、微妙なところだとQuizKnockマニアやシーフードカレーマニアや母校の歴史マニアなども兼任している。合唱曲マニアが高じて自らパソコンで作曲をすることはあるが、それでもアーティストを自称するよりマニアを自称した方が個人的にはしっくりくる。

マニアに似た言葉はたくさんある。例えばファン、フリーク、オタクなどがそうだが、特にオタクという言葉は人種に対しても使われる。マニアとオタクの違いについては誰かが詳しい論文を書いているだろうから置いておいて、基本的には似たようなものだと思う。時々あてもなくアニメイトやポポンデッタをふらつけば、おおむね自分と同類の人間がたくさんいることにほっとする。おそらくこれはマニア特有の心理で、もしもアーティストが自分と似たような人間に直面したらとても心中穏やかではいられないだろう。

ただ、そうした安堵をよそに、マニアであり続けることの難しさというのも日に日に頭をもたげている。なぜかといえば、ひとことでいえばマニアであり続けたところでマニアを超えた何者かになることは難しいというか、普通に人間の形をして生命を維持してゆく上で、マニアという価値観そのものが少なからず足かせになってくるからである。

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私が、今後日本で普通に人間の形をして数十年間生命を維持してゆく上で、気をつけたいと思っていることが2つある。ひとつは「戦略的である」ということだ。経済面のことや人間関係もそうだが(できているかどうかは別として)、ここでいう戦略とはもうちょっと茫漠に、自分の一生を費やした活動を通じてどのような影響を社会に与えたいか、という意図のことである。なぜそうでありたいかというと理由は簡単で、戦略がないと、戦略のある人になめられるからである。あとは戦略を公言している相手には、その戦略に関する話題で話しかけやすくて便利だし、逆に戦略を一向に公言しない相手につきまとわれるとだいぶ鬱陶しい。私自身、これまで「周囲にアーティストのたまごがたくさんいる環境」に身を置いた期間が長かったので、戦略的であることのメリットも彼らを通じて教わった部分があるし、逆に彼らが戦略的になれず、もがき苦しむ場面なども幾度となく目の当たりにしてきた。

もうひとつは「目の前のリアリティに固執しない」ことである。いま目の前にあるモノやコトが美しくて居心地が良くても、それをいたずらに信仰してはいけないということだ。たとえばiPhoneとかでも、5cのサイズとデザインに固執しているうちは、11Proのユーザーが体験している新しさに迫ることはできない。他人と比べて恥ずかしくない程度に先進的であり続けるためには、既存のものの旧来的なよさを一旦すべて捨てて掛かる必要がある。現にハンコ文化やブラック部活などはきちんと批判されているし、これらはなくなったほうが確実にみんなが生活しやすくなる。どんな文化や美的価値でも、これまで何十年何百年と守られてきたから今後も無条件に守られなければならないということはないのだ。

さて、上記のようなことをマニアの立場から考えると、ここでひとつの問題に直面する。「マニアであること」は、たいてい「戦略的であること」とも、「リアリティに固執しないこと」とも矛盾する、のである。というのも、まずマニアはふつう、打算的な動機でマニアにはならない。鉄道マニアなら鉄道に、換気扇マニアなら換気扇に、幼い頃から(あるいは人生のある時点から)興味を持ったまま、卒業しなかったのが現実のマニアである。カーマニアが高じてモータージャーナリストになったとか、特撮マニアが高じて造型士になったとかいう実例はあるにしても、基本的にマニアという生き様は、自分のマニア活動を通じて社会にこんな影響を与えたいといったある種の射程の長さとは無縁である。むしろ社会に迷惑をかけない範囲で最大限の充足感を得ようとする人が大半のはずだ。

それからマニアは、えてして旧いものに固執する。先述の通り、マニアとは何かを卒業しなかった人種なので、その分野の「過去のある時点での」モノやコトに対してひじょうに強い愛着をもっている。要するに懐古厨なのである。2020年現在のマツダ株式会社のビジョンやリソースとは無関係に、彼らはREの開発再開を望む。以前とある美大の卒展で「国産車の歴史を形態から紐解き、将来の国産車像を展望する」というような論文(筆者は明らかにマニアであった)の展示を読んだことがあったが、論旨から当然の帰結として導かれる将来の国産車像と、筆者自身が望んでいると思われるクルマ像とには、やはり相当の違いがあるように見受けられた。

音楽分野でも、ごく限られた知見からの判断だが、固執と愛着の問題は無視できない。たとえばインターネットで自作曲の楽譜を公開している人を時々見かけるが、彼らが各自の作品のことをマニア目線で話題にしようとすると、えてして曲中のごく一部の和音や進行といったディテールの話題に落ち着くのだ。おそらく、一曲全体の感想を述べて「すごい」の言い換えになったりするのを避けると、必然的にそうなってしまうのだろう。愛着ということに関していうと、もはやマニアのみの問題ではない。音楽療法の世界では、音楽が人に癒やしをもたらす最大の条件がひとつあるという。上記の作曲マニアの興味に倣えば、それは和音か?音色か?という発想になるが、正解は「以前から聴いていて、個人的に好きな曲であること」だそうだ。断っておくが、作曲マニアが悪い訳ではない。既存の美的価値に固執しないという発想が、あまり音楽一般と相容れないだろうということである。

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ところで先ほど、マニアが好きなものの例として「マツダ製のRE(ロータリーエンジン)」をちらっと挙げたが、世界ではもはや、自動車向けの内燃機関にあまり未来がない。あるいは個人所有の自家用車という概念にも(内燃機関のそれほど差し迫ってはいないと思われるが)、やはりあまり未来はない。恐らく世界中の少なからぬカーマニアが、数十年先のスパンで自動車の未来を展望して、すでに絶望しているはずだ。マニアが過去の一時点でのモノやコトに愛着をもつ人種である以上、数十年先のスパンで見たときに、世界はマニアが望まない(それでいて全体としては善い)方向に進化していく。音楽も同様で、たとえば合唱特有の人間的な温もりが好きだという人は多いが、おそらく数十年もすれば人間の身体性そのものが変容する。パートリーダーがアンドロイドになるかもしれないし、あるいは自分もアンドロイドになって半永久の身体を獲得するかもしれない。従来の人間的な温もりの延長線上では説明しきれないような状況をテクノロジーが用意してくるルートはこれからたくさんあるだろうし、現に、(今回はウイルスが無理矢理テクノロジーを連れ出した形だが……)あるのだ。

戦略的であることもできず、リアリティへの固執を免れることもできず、しかも実際の世界の進化には置いてけぼりにされる。そんなマニア像を少し修正して、そして今後もマニアとして人間の形をして生きていくとしたら。マニアであるという属性と、その証左となる知識、そしてその対象をエモいと感じる原始的な恋心のみを保持し、このカテゴリがこの先こんなふうになるといいなとか、こういうディテールのかっこよさがわかるから自分にはセンスがあるんだとか、そういった複雑な思索を伴うことはぜんぶ放棄するというのが妥当なアプローチになりそうだ。これで、なまめかしいリアリティとは片想い程度の距離を取れるし、実際の世界の進化については冷静に論じることができるし、戦略的でないことは割とどうでもよくなる。

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ところで、自分でやっている作曲のことだが、私は作曲マニアではないので、作曲行為についてはマニア趣味とは切り離されている。合唱曲マニアが高じて、とはいってもそれとこれとは別である。なので今後の方針としては作曲行為をどのように個人的な戦略の中に位置づけられるか、ということになるが、ここでそれを発表するのは戦略的でないということに気づいたので発表しない。

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