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くよくよすぎる孤独のグルメ
猪五郎は気が気じゃない、緊張のせいか少し息苦しいような気がする。
注文したビールはもちろん最初に来た。ポテトフライも揚げたてが来た。
…が、鯵の南蛮漬けが来ない。
ひょっとして忘れられているのではないだろうか?
もちろん店員に尋ねればいい話だが、できればギリギリまでこの店を信じたい。
鯵の南蛮漬けなんて漬けてあるだけじゃないのか?それともなにかイチから作るような工程があるのだろうか。
猪五郎はカウンターに座っているが、厨房は奥にあってその様子は見えない。しかし、なにか調理は続いているという気配は感じる。
ひとりで切り盛りしている店だし、ほかに客もおらず厨房にこもってフロアには誰も出てこない。
きっと相当な手間をかけて作ってくれてるのだと信じたい。包丁を入れる前に鯵さんに優しく話しかけるタイプの調理人なんだろうか。
もうすぐビールもポテトフライもなくなってしまう。
猪五郎の不安と焦りは募っていく。
手にしたスマホもまったく頭に入ってこない。
もし「あの性加害問題に新たな超大物の実名が!」みたいなビッグニュースが出てもいまの猪五郎はそれどころではないだろう。
猪五郎のくよくよが強くなっていく。
意を決して大きな声を出して厨房を呼んだところで、
・お店のひとに強い口調で言い返されたら?
・料理が来るのも待てないクレーマーだと思われたら?
・せっかちで心が狭くて分別も協調性もない、感情の抑制をつかさどる前頭葉の働きの衰えたゴミ人間だと思われたら?
・とてもここでは書けないひどいあだ名をつけられて、厨房のみんなで笑いものにされて商店街全体に広まってしまったら?
・そのウワサが回りまわって親や上司に伝わってしまったらどうしよう。
いや…厨房のみんなで笑いものにされるなんてことはないのは分かっている。店員は一人しかいないと知っているからだ。
それにしてもさっきからこの店には誰もいない。
ひょっとして誰もいなくなってしまったのだろうか?
知らないうちに店の外では世界が滅亡しているのではないか?
ここに最後の人類がいますよ、と誰か気づいてくれるだろうか。
そもそも「あじノなんばんヅケ」なんて料理本当にあるんだろうか。
注文をとった店員も、内心「なに言ってるんだコイツ」とか思ってたんじゃないだろうか。
厨房でついたひどいあだ名に「あじノなんばんヅケ」が加えられるんじゃないだろうか。
人とひとは最後まで分かりえないんだろうか。
猪五郎のくよくよはウクライナや中東の紛争にまで考えが広がる。
プーチンにはプーチンなりの正義があるのだろうか。
神よ、神よ。
みんなが持っているはずの平和への想いがどうして実らないのですか。
「お待たせしましたー」と言って鯵の南蛮漬けを持ってきてくれたのはその直後。なるほど時間がかかるであろう手の込んだ料理。
飲み物とつまみの追加も店員のほうから聞いてくれました。
店員を疑ってしまった自分を恥じる猪五郎。
セリヌンティウス、私を殴れ。
強く願えばきっと想いは届く。
2025年はウクライナに平和が戻ってくる、ぼんやりとだがそう確信した猪五郎であった。