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【ミクスレ】誓約の鎖を断ち切る時【二次創作小説】
スレイの復活
反射的に手を伸ばす。誰かが落ちそうになったから。その手を掴んで、スレイは相手の素性に驚いた。手間が省けた。真っ先に会いに行くと決めていた幼馴染。
一番最初に会えるなんて思わなかったとか、髪長いのも似合ってるなとか、そんな事を考えながらスレイはミクリオを引き上げた。
「お待たせ」
にかっと笑うとミクリオは目元を潤ませて抱きしめてきた。素直に抱きしめ返す。本当に待たせちゃった。待ってくれると信じていた。
「待ってた。ずっと待ってたんだ」
「うん」
「本当は寂しかったんだ。君がいないと食事も喉を通らないくらい」
「ええっ!?それって大丈夫……大丈夫か」
***
「何処に行こうか。ひとまずここから近いのはレディレイクだけど」
「そうだな。ライラにも久しぶりに会いたいし」
「会えると思うよ」
穏やかに変貌した世界はスレイにとっても新しさの連続だった。人間と天族が協力して作り上げた街並みには、活気と笑顔が溢れている。
「人間も天族も、普通に一緒にいるのが当たり前になったんだな」
「長い道のりだったよ」
ミクリオの誘いにより、ひとつの店に辿り着いた。
「僕の行きつけのカフェなんだ」
ミクリオはそう言いつつ、カウンターで何かを取り出して提示した。
「これで」
カップル割のクーポンだった。
「カップル割?」
スレイは思わず声を上げる。種族が違うとか、男同士だとか、そんなことはこの世界ではもう何の障害にもならないらしい。
「カップルじゃないのにいいのかな?」
「貰えるものは貰っておけばいい」
なんだか嬉しそうなミクリオに、スレイも自然と笑みを浮かべる。
「そんなに割引が嬉しいのか?」
「別に……」
ミクリオの頬が少し赤くなっている。
スレイはそんな様子を見ながら心の中でふと考える。
(ミクリオが嬉しそうだと、なんだかオレも嬉しくなるな)
今度、割引を受けられる店を色々探してみよう。
***
「きゃあ、ミクリオ様よ!」
「いつ見ても麗しい」
「でも告白しても毎回『好きな人がいるから』で断るとも有名なのよね」
「女性に興味がないのかしら」
「ありえる」
スレイは遠巻きに聞こえる噂話を耳にして、こっそりミクリオの顔を伺う。
「お前、結構モテるんだな」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
ミクリオはそっけなく言いながらも、耳がほんのり赤い。
「好きな奴がいるなんて知らなかった」
「まあ、君はそうだろうね」
スレイはわずかに戸惑う。
―いつから?オレが眠った後だよな、多分。オレが知らないくらいだし。背も伸びたし、カッコいいし。モテない方がおかしいか。
ミクリオの態度に、スレイはどこかもやもやしたものを抱えるのであった。
***
「やっぱりライラは忙しそうだな」
レディレイクの大聖堂近く、穏やかな光が差し込む広場で、スレイは懐かしい光景を目にしていた。人々が次々とライラに相談を持ちかけ、彼女は一人ひとりに笑顔で耳を傾けている。
「困っていることがあれば何でも言ってくださいね。それが些細なことでも、私ができる限りお手伝いしますわ」
ライラの声は柔らかく、それでいて力強い。相談に来た人々が安心して頷いている姿を見ると、スレイも思わず笑みを浮かべた。
「相変わらず、人を癒す力は健在だな」
「うん。ああやって人々の悩みを受け止めるのが、ライラの真骨頂だよ」
ミクリオも静かに頷きながら言葉を添える。
やがて人々が散り始めると、ライラはスレイたちに気づいて手を振った。
「スレイさん、ミクリオさん! お久しぶりですわ!」
スレイは駆け寄り、久しぶりの再会を喜んだ。
「ライラ!元気そうで良かった!」
「もちろんですわ。スレイさんもお元気そうで何よりです」
ライラは微笑みながらも、少しだけ疲れたような目をしていた。
***
「ライラ、何か悩んでる?」
数百年ぶりでもあっさり本質を突くスレイの言葉にライラは少し驚きながら答える。
「実はですね……最近、穢れが浄化しきれない不思議な場所があるという相談を受けまして」
ライラは広場に面したベンチに腰掛けると、静かに話を始めた。
「通常、穢れは人々の強い感情から生じますわね。でも、その場所は誰もいないのに穢れが自然発生しているようなのです。そして、その穢れが周囲にじわじわと影響を及ぼしているという報告も……」
「自然発生の穢れ……?」
ミクリオが眉をひそめ、考え込む。
「それって、天族や人間の感情とは無関係に生まれてるってことか?」
スレイが問うと、ライラは頷いた。
「ええ。今は導師の皆さんに定期的に浄化をしてもらっていますわ。ただ、その影響がどこから来ているのか、正体はまだ掴めていないのです」
「オレたちで見に行くよ」
「君は病み上がりだろう? 無茶は認められない」
ミクリオが鋭く言い放つが、その表情には明らかに甘さが混じっていた。
「単純に見てみたいんだ……ダメかな?」
スレイが少しだけ肩をすぼめて上目遣いで言うと、ミクリオは呆れたようにため息をついた。
「どうせ止めても聞かないんだろう? はいはい、仕方ないな」
「ありがとう! さすがミクリオ!」
スレイの無邪気な笑顔に、ミクリオもつられて苦笑した。
***
久しぶりの遺跡探検
スレイが目覚めてから初めての本格的な遺跡探検だった。
「ここが……噂の遺跡か。まだ手付かずの状態みたいだな」
スレイは目の前に広がる石造りの空間を見回し、胸の奥が高鳴るのを感じた。壁一面には古代文字が彫り込まれている。
「なんて書いてあるんだろう」
スレイが指で文字をなぞりながら興奮気味に言うと、ミクリオは小さく笑った。
「焦るなよ。解読は後でゆっくりやるとして、まずは安全を確保するのが先だろ?」
「サンキュ」
解読した結果、壁にはこのようなことが記されていた。
『感情を抑えよ。穢れを絶て』
スレイは戸惑う。
「……感情を抑える。それが本当に正しいことなのかな?」
「当時はそうだったんだろう」
ミクリオは冷静に答える。暗に今は違うとでも言いたげに。
二人は遺跡の奥へと進んだ。石造りの道が狭まり、天井が徐々に低くなっていく。長い年月の間に崩れかけた柱や瓦礫を慎重に乗り越えながら、最深部へと向かう。
少し前を行くミクリオの背を見て思う。ミクリオの頭が上にあるのはなんだか不思議な感じだった。
最深部に辿り着いたとき、二人は異様な光景を目の当たりにする。
「なんだ、これ……」
スレイの視線の先には、黒い靄が漂っていた。それは地面の亀裂から湧き出すように現れ、ゆっくりと宙に舞い上がっていく。壁に刻まれた古代文字が薄く光を放ち、その光が靄をかすかに照らしている。
「まるで……この空間そのものが穢れを生み出しているみたいだ」
ミクリオの声は驚きと困惑を隠せない。
「普通、穢れって感情から生まれるだろ? でもここには誰もいない……なのにこんな……」
スレイの言葉は次第に途切れ、その目は黒い靄の動きを追っていた。靄は空間に漂うように上昇し、やがて天井近くで散らばる。その動きにはどこか意思のようなものを感じさせた。
「これが……自然発生する穢れ……」
「見ているだけで、心の奥がざわつく感じがするな」
スレイはそう言いながらも、どこか悲しげな目をしていた。それを見て、ミクリオの胸には言いようのない痛みが広がる。
「スレイ、大丈夫か?」
「……ああ、なんとか。ありがとう、ミクリオ」
スレイの無意識の感謝の言葉が、ミクリオの心を少しだけ温めた。
「こういうの、ちゃんと解明できたら面白いだろうな。未知のことって、なんかワクワクするよな」
その言葉に、ミクリオは軽く苦笑する。
「君らしいな。でも……無茶はしないでくれよ。僕が君を助けられるとは限らないんだから」
「お前がいれば大丈夫だよ、ミクリオ。お前はいつだって、オレを助けてくれるから」
無邪気な笑顔に、ミクリオの胸が大きく跳ねた。
(……本当に、君は無自覚すぎる)
スレイが黒い靄に向けて手を伸ばそうとした瞬間、ミクリオがとっさにその腕を掴む。
「待て、スレイ!」
だが、その一瞬の接触がすべてを変えた。
触れ合った二人の手元から、黒い靄が生き物のように動き出し、周囲の空間を覆い尽くす。
「なんだ、これ……!」
スレイが後ずさろうとするが、靄は二人の足元に絡みつくように広がり始めた。
「スレイ、後ろに……!」
ミクリオがスレイを引き戻そうとするが、靄の力はますます強くなり、二人を引き込む。
「視界が……歪んで……」
スレイがそう言った直後、靄が弾けるように広がり、二人の体は光に包まれた。
次にスレイが目を開けたとき、そこには白く輝く世界が広がっていた。地面も空も、すべてが純白。並ぶ白い建物はどれも規則的で無個性だった。遠くに白い棒のようなものが見える。塔であるらしい。
「ここ……どこだ?」
スレイが息を呑みながら呟く。
「分からない。遺跡の最深部とは、明らかに違う……」
ミクリオは周囲を見回し、目に映るものすべてを観察しようとする。
「……とにかく、ここがどこなのか探ってみようぜ。元の場所に戻れるかもしれないし」
スレイが微笑みながらミクリオに声をかける。
「無理はするなよ」
ミクリオが溜息混じりに言いながらも、スレイの隣に並ぶ。その目には、警戒と探求心が同居していた。
天界に降り立つ
家らしき豆腐。道路と思われる灰色。それら全てが不自然なほど角ばっている。まるで箱庭の中に迷い込んだような光景だ。
「ミクリオ、この道凄いな!ずっとまっすぐだ!」
「人為的に作られたのは間違いなさそうだね」
どの建物も白く四角い。完全に均等な形で並べられており、緑や生命の気配はほとんどない。遠くの空には、一本の塔がそびえ立っているのが見えた。それもまた、直線的で無機質なデザインだ。
「なんか、妙に静かだよな。人の気配も全然しないし……」
スレイが呟くと、ミクリオも頷いた。
「確かに。まるで誰かがこの空間を意図的に整えたみたいだ」
その時、二人はふいに頭痛を感じた。
「……?」
「どうした、スレイ」
「なんか、ちょっと頭が痛くて」
「僕も同じだ。僅かだが穢れが空間全体に広がってる。これが原因なのか?」
「でも、この場所には穢れを感じる原因になりそうなものは何もない……人の感情から生まれるはずの穢れが、どうしてここに……?」
その時だった。
「誰ですか?」
冷静で感情の起伏を感じさせない声が、二人の背後から聞こえた。振り返ると、豆腐のような建物の陰から一人の女性が現れる。肩まで伸びた銀髪に、無表情で澄んだ瞳。
「オレはスレイ!君の名前は?」
「リル」
「いい名前だね。よろしく、リル!」
スレイが笑顔を向けても、リルの表情は変わらない。ただ、冷静に彼を観察しているように見える。
「……」
「ミクリオだ」
「スレイ、ミクリオ。覚えた。何故話しかける」
言葉に感情の起伏が感じられない。リルの無機質な態度に、スレイは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに気を取り直す。
「ここがどこなのか知りたいんだ」
「旧37番ゲート。書いてなかった?」
「うん。聞いたことない名前だな」
「閉鎖された。無理もない」
「オレ達、自然発生する穢れについて調べてたらここに来ちゃったんだ」
しばらく考え込んでからリルは答える。
「天界で穢れは生まれない。穢れは地上界から来る」
「天界!?ここ天界なのか!?」
スレイの目が輝く。興奮を隠しきれない彼に、リルはあっさりと答えた。
「そう」
「いつか行ってみたいと思ってたんだ!そういう場所があるってことだけは聞いてたんだけど……うっ!?」
スレイが突如頭を押さえ、うずくまる。
「スレイ!」
ミクリオが焦って治癒術をかける。
「っ……」
しかしその痛みは一向に治まらない。
「純白」
リルが不明瞭に呟いた。
「なんだって?」
「純白を思い浮かべて。痛みは穢れのせい。それを鎮める」
「わかった……」
「それは、大丈夫なのか」
ミクリオは不安に思いつつも、自分の力が通じない以上頼るしかなかった。
「純白、純白……」
スレイは素直に白を想像する。白いものはたくさんあるけれど、印象的だったのはやはりマオテラスだろうか。あの白さは共に過ごしているだけで楽しい気分になれた。なんてことを考えていると、そのうち痛みは不思議なほど綺麗に引いていった。
「ありがとう。なんか心が静かになった気がする」
「それを覚えて。穢れに立ち向かう手段」
スレイが笑うと、また頭が微かに傷んだ。
「……あれ?」
「穢れは感情から生まれる。それを忘れないで」
リルはすたすたと去っていく。二人は呆然と残されるだけだった。
「誓約」の記録
二人が探索をしていると無数の石碑が立ち並ぶ空間を見つけた。
文字を読み解いていけば、それは地上で「誓約」と呼ばれている技術であった。
自らの行動を縛る代わりに強大な力を得る術式群。禁を破れば命さえ危ぶまれるそれは、全てここに刻まれているように思えた。
スレイは目の前の石碑に刻まれた文字を読み上げた。
「『家庭を持たない代わりに穢れに耐性を得る』」
ミクリオは隣の石碑を指差す。
「こっちは『誰も殺さない』だって。……でも、この石碑、壊れちゃってるな」
スレイがその石碑に興味を惹かれ、軽く指先で触れた瞬間だった。
「えっ……あ、やべっ!」
音もなく、石碑が崩れ落ちていく。砕けた石の欠片が地面に散らばり、静かな空間に響く音だけが残った。
「……触らないほうがいいみたいだな」
ミクリオが苦笑しながら呟いた。
崩れ落ちた石碑を見つめながら、スレイは考え込む。
「今の壊れ方、なんか変だったよな」
「ああ。経年劣化にしては静かすぎた」
スレイはもう一度、壊れた石碑の欠片に視線を落とした。
「ここに記録されてる誓約って、どれも必死で守ろうとした天族たちの思いだよな。でも……」
スレイの声が微かに震えた。
「それが壊れるってことは……失敗したってことなんだろうか?」
***
二人は石碑の考察に夢中になっていった。
古代文字が刻まれた石碑のひとつひとつが、未知の歴史を語りかけてくる。
「この文字……『感情を抑えよ』って書いてある。『穢れを絶つために』、か」
スレイが指で文字をなぞりながら呟く。
「感情を抑える……理屈は分かるけど、それが正しいのかどうかは分からないな」
ミクリオは淡々と答えるが、その声にはどこか迷いが滲んでいるようだった。
だが、完全に考察に没頭することはできなかった。
時折襲い来る鋭い頭痛が、二人を現実に引き戻す。
「っ……またか……」
スレイが額を押さえ、痛みに耐えながら息を整える。
ミクリオも同じように頭を押さえ、「純白」の教えを思い浮かべる。
「心を……静かに……」
「純白、純白……」
痛みは引いていく。だが、それと引き換えに心の奥に何かが欠けていくような感覚が残る。
「確かに痛みは引くけど……なんか、ちょっと変な感じがしないか?」
スレイが微かに眉をひそめながらミクリオに問いかける。
「そうだな……落ち着くと言えば落ち着くが、どこか不自然だ」
ミクリオもまた、心の中に生まれた違和感を拭えない様子だった。しかし、それ以上を言語化することはできなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがてスレイが顔を上げ、いつものように無邪気な笑顔を見せる。
「ところでさ、あの塔、気になるよな」
スレイの視線の先には、遠くにそびえる白い塔があった。
ミクリオも自然とそちらを見つめ、少しだけ微笑む。
「よくわかってるじゃないか。君が興味を持つだろうとは思ってたよ」
***
塔に向かうほどに、頭痛は鋭さを増していく。
一歩進むごとに空気が重くなり、痛みが全身に広がるようだった。
並ぶ石碑の記述を読む。
『塔は地上との契約を守るために建てられた』『契約は守られるべきだ。破られたとき、我々の存在そのものが穢れに飲まれる』『塔が崩れるとき、契約もまた崩れるだろう』
スレイとミクリオはその文面に目を奪われた。
「これ、地上とは全然違う歴史だよな……」
スレイが目を輝かせて石碑に手を触れる。ミクリオもまた、険しい顔つきで文字を追っている。
「契約を守るために塔を建てた……一体、どんな契約だったんだろう」
「グリンウッドとはまるで違うよな。天界って、こんなに独特なんだ……」
興奮と冷静さが交互に押し寄せる。スレイは知らず知らずのうちに額に汗を浮かべていた。
さらに下に刻まれた文字が目に入る。
『近づけるのは穢れなき者だけ。まずは泉で身を清めよ』
スレイはその場に腰を下ろし、額の汗を拭った。
「泉……か。なんだか儀式みたいだな。でも、こういうのってワクワクするよな!」
その無邪気な言葉とは裏腹に、スレイの顔には明らかに疲労の色が見えた。
ミクリオはスレイをじっと見つめ、ため息をついた。
「スレイ、少し休もう」
「まだいけるって」
無理に笑顔を作るスレイに、ミクリオは眉をひそめる。
「君が『まだ』という時は、大抵すでに無茶をしてる時だ。知ってるだろ?」
ミクリオの厳しい視線に、スレイは少し気まずそうに目をそらした。
「……わかったよ」
二人は石碑の指示に従い、泉を目指した。
石碑に記されていた泉は、神聖な雰囲気に満ちていた。
透明な水が湧き出るその場所は、静謐そのもので、空気が肌に心地よく触れるような感覚を与えた。周囲の光景が不思議なほど清らかで、まるで時間が止まっているかのようだった。
スレイは一歩踏み出し、手を泉に差し入れた。冷たい水が指先から流れ込む感覚に驚きながら、掬い上げて喉を潤す。
「すごい……一瞬で楽になった」
スレイは息を吐き、肩の力を抜いた。頭痛が嘘のように消え、全身が軽くなっていく感覚に包まれる。
ミクリオも静かに泉に近づき、スレイと同じように水を掬って口に運ぶと、その瞬間、驚きの表情を浮かべた。
「これは……なんだ?」
「どうした?」
スレイが不思議そうに問いかけると、ミクリオはもう一口飲み、さらにもう一口と、泉の水を喉に流し込んでいく。
「いくらでも飲める……不思議な感じだ」
ミクリオは水を飲むたびに心が静まり、頭の中が澄み渡っていくような感覚を覚えた。
「こんなに飲みやすい水、初めてだよ。喉が渇いているわけでもないのに、もっと飲みたいって思ってしまう……」
「本当か?」
スレイも試すようにもう一口飲んでみたが、そこまで強い衝動は感じなかった。ただ、穏やかな感覚が続くだけだった。
「オレは普通に美味しいくらいかな。でも、ミクリオが言うほどの感じはしないな」
ミクリオは眉をひそめ、手を止めた。
「なんだろう。これ、僕だけなのか……?」
その言葉には微かな不安が滲んでいたが、スレイは深く考えず、笑顔を見せた。
「気にするなよ!オレたちを癒してくれる場所ってことだろ?それだけでありがたいじゃん!」
ミクリオは小さく頷いたが、泉から離れるとき、ほんの少しだけ未練を感じた。
天界の塔
塔に辿り着くと、住人が出迎えてくれた。最上階に天界の長がいる。
塔の最上階、壮大な空間に二人は立っていた。高い天井には幾何学的な模様が描かれ、中央には巨大な石碑が鎮座している。その前に立つのは、天界の長と呼ばれる人物だった。彼の声にはどこか説得力を帯びた冷たさがあった。
「感情が穢れを生む。これは、我々が学んだ厳然たる事実だ」
天界の長は低い声で語り始めた。
「穢れが発生するのは、感情という制御不能な力を我々が持っているからだ。その力は時に破壊をもたらす。だからこそ、感情を抑えることで穢れを最小限に抑え、秩序を保つのだ」
スレイは思わず口を挟む。
「でも、それって……ただ問題を先送りにしているだけじゃないのか?感情を抑え込んでるだけで、穢れが完全に消えるわけじゃないだろ?」
天界の長はスレイに冷静な目を向けた。
「感情を抑えない人間や天族がどれほど穢れを生み出し、破壊を招いてきたか知らないのか。我々の選択は、未来を守るための犠牲だ」
ミクリオが静かに口を開いた。
「感情を抑えることで穢れを抑制する。それは合理的な判断だと思います」
その言葉に、スレイは驚きの目を向けた。
「ミクリオ、お前……」
「スレイ、感情を制御するのが難しいからこそ、抑えることで秩序を維持するという考え方も一理ある。天界の長が言っていることには、理屈として納得できる部分があるんだ」
スレイは言葉を失い、天界の長の冷たい笑みを感じた。
「見ろ、彼は理解している。我々の選択がいかに正しいかを。感情という危険な力を封じ込めることが、穢れなき世界を作る唯一の方法だ」
しかし、スレイは拳を握りしめた。
「でも、感情を抑えてばかりじゃ、本当に大切なものを守れないんじゃないか?誰かを守りたいって思う感情だって、穢れを生むのか?」
「そうだ」
「論理的だな」
「えっ?」
ミクリオの言葉にスレイは戸惑いを見せる。二人の間には、微かに距離が空き始めていた。
ドラゴンの襲来
天界の空に裂けるような轟音が響いた。
スレイとミクリオが空を見上げると、黒い影が徐々にその姿を現していく。それは巨大なドラゴンだった。
漆黒の鱗に覆われた体は空を覆い尽くすほどの大きさで、その翼が風を巻き起こし、咆哮が空間を震わせる。
「ドラゴン!?でも、こんなところに……」
スレイが言葉を途切れさせると、ミクリオが苦い顔で補った。
「穢れの影響だ。この空間全体に漂っている穢れが、ドラゴンを引き寄せたんだろう」
ドラゴンは穢れの濃い空間を旋回し、時折鋭い鳴き声を上げて威嚇している。
天界の長は、スレイに冷ややかな視線を向けた。
「地上から来た者よ。お前が感情を持ち込み、この穢れを引き寄せたのだ」
スレイは驚き、反論しようとする。
「ちょっと待てよ!オレが来たせいでこんなことになったなんて、勝手な決めつけだろ!」
「決めつけではない。感情は穢れを生み、穢れは秩序を乱す。お前の存在がこの災厄を招いたのだ」
天界の長の言葉は冷たく鋭く、まるでその場の空気を凍らせるかのようだった。
「導師スレイをここに留めておくことは危険だ。速やかに処刑する必要がある」
「処刑……?」
スレイの声が震える。ミクリオが一歩前に出て、天界の長に訴えかけた。
「スレイが穢れを引き寄せた証拠なんてどこにもないだろ!」
しかし、天界の長は微動だにせず、冷静に応じた。
「感情を持ち込んだこと、それ自体が証拠だ」
スレイはその言葉に反論しようとするが、次第に締め付けられるような感覚に襲われた。
「ぐっ……頭が……!」
「スレイ!」
ミクリオがスレイを支えようと駆け寄るが、住人たちに制止される。
天界の長が冷酷に宣言した。
「人間は我々の秩序を乱す存在だ。彼を放置することはできない」
住人たちはスレイを取り囲み、力ずくで彼を捕らえようとする。
「おい!話を聞けよ!オレは……オレは何もしてないだろ!」
必死に抵抗するスレイの声が空に響いたが、冷徹な天界の住人たちはその声に耳を貸そうとしなかった。
「感情を抑えられないお前が、この地に災厄をもたらすのだ」
スレイの投獄、冷静すぎるミクリオ
「いくら穢れを防ぐためとはいえ、殺す必要はないだろう」
ミクリオの言葉は驚くほど静かだった。その冷静さに、スレイは逆に胸を刺されるような痛みを覚える。
「どうしてそんなに冷たいんだよ!」
スレイの声には怒りと悲しみが滲んでいた。しかし、ミクリオは眉一つ動かさずに答える。
「僕が感情的になっても意味がないからだ」
その言葉がさらにスレイの心を締め付けた。
「……最近、ちょっとおかしいぞ、お前」
スレイの問いかけにも、ミクリオは首を傾げただけだった。
「そうか?」
スレイの胸の中で怒りと悲しみが渦巻く。その感情が具現化したように、周囲の空間に黒い靄が漂い始めた。スレイの感情の波動を感じた天界の住人たちは、静かに一歩ずつ後ずさるようにして距離を取った。その瞳には恐怖ではなく、ただの合理的な危機回避の意志が浮かんでいる。やがて彼らはスレイを包囲するかのように動き始めた。
「やはり地上の者は感情を抑えられない……これ以上、放置しておくわけにはいかない」
天界の長は冷たい声で告げる。
「導師スレイは我々の秩序を乱す存在だ。彼を排除することで、この地の平和は保たれる」
天界の長は視線をミクリオに向けた。
「ミクリオ、お前は我々の理念を理解している。我々と共に新たな秩序を築くべきだ」
その提案に、ミクリオは少しの間目を伏せた。冷静を装う表情の奥で、彼の心には微かな動揺が走っていた。
(彼らが言うことは理にかなっている。感情を抑えることで秩序を保つ……確かにそれは正しいのかもしれない)
だが、その合理的な判断の裏で、スレイを置き去りにするという考えが、胸の奥で鈍い痛みを生んでいた。
(だが……スレイを見捨ててまで……?)
スレイはミクリオを見つめ、必死に訴えた。
「お前、本当にそれでいいのか?オレが処刑されるんだぞ!? なんとかしようって思わないのかよ!」
ミクリオは深く息を吐いた。
「思っている。だから冷静でいないといけない」
ミクリオが言葉を発した瞬間、心の奥にかすかな違和感が広がる。それでも、その違和感を振り払うかのように表情を引き締めた。
「冷静でいる……?お前にとって、オレってその程度の存在だったのか……?」
スレイの声が震える。それに対して、ミクリオは何も答えなかった。
スレイの絶望
スレイは地下室に投げ捨てるように放り出された。無慈悲な施錠の音と遠ざかる足音だけが響く。
「ミクリオならもっと怒ってくれると思ったのに……」
想像と違う結果にスレイが得たのは失望だった。
思えば、昔からミクリオはスレイの為に動き続けてくれた。風邪をこじらせた時は黙って傍にいてくれた。『本を読みたかっただけだよ』なんて言いながら。生まれた時から愛されていた。だから同じだけ、いや、それ以上に愛したかった。ミクリオには負けたくなかった。
ふと辺りを見回すと、部屋の奥に巨大な柱が鎮座していた。近づいてみると、表面には古代の文字がびっしりと刻まれていた。どうやら契約の石碑であるらしい。この大きさのものは初めて見る。
それは、天界天族と地上天族の間で交わされた契約だった。
古代文字が光を放っているわけでもないのに、スレイにはそれが確かに生きているように見えた。文字ひとつひとつが歴史の重みを宿し、見る者に無言の圧力をかけてくる。
契約の議題は『我々は人間と共存ができるか』。——石碑に刻まれたその問いは、ただの過去の議題ではなく。それは、今もなお天族と人間の未来を支配する呪いのようなものだった。
天族たちはかつて人間との共存が果たされるかどうかの賭けを行った。誓約として『地上で天族が人間と共存し続ける』、そしてそれを破れば『穢れが姿を変えて地上を襲う』と。石碑はあまりにも巨大で上にも続いており、スレイは契約の全貌を読み切ることはできなかったが。
そこに確かに書いてあった。『ドラゴンを浄化する事は不可能である。その時点で死んだとみなされるため』と。
石碑には後で書き足されたような跡があった。『共存”し続ける”という状態は共存が果たされるまでは成立しない。誓約が果たされていない状態であれば穢れが怪物を産み続ける。共存は決して始まらないだろう。我ながら天才の発想である』
『ゼンライとかいう愚か者もいずれ思い知るだろう。人間との共存など所詮夢物語に過ぎないことを』
スレイの瞳から涙がこぼれ落ちる。ジイジを侮辱されたことが悔しかった。
「全部、この契約のせいだっていうのか……?」
スレイは震える声で呟いた。自分たちが信じてきた理想が、契約という冷たい文字に否定される。その理不尽さに、ただ立ち尽くすしかなかった。
夢見てきたものが全部無意味だった。
一緒に追いかけてきた親友さえ、もはや戻ってくることはない。
愛したかった。ずっと傍にいたかった。ずっと愛してくれると信じていた。視界が涙で歪む。
「……すき」
今さら気づいたところで何になるだろう。
「ごめん」
自分のいない間に恋を見つけたミクリオには邪魔にしかならない気持ちを。
スレイは抑えることができなかった。
それが、穢れを生む原因だとしても。
救出作戦
感覚が鈍い。目の前の光景も音も、どこか現実感が薄れている。周囲の声が、まるで遠い洞窟の奥から響いてくるように耳に届く。天界の長から渡された地図を眺めても、指先に何の感覚も湧いてこなかった。
「導師スレイは感情を抑えることができない。その存在は我々の世界にとって脅威である」
天界の長の言葉が、冷たい刃となってミクリオの胸を切り裂いた。しかし、不思議なことに、その痛みすらもどこか鈍く感じる。一理あると思えてしまうのだ。確かに原因がなければ穢れが生まれることもない。
「処刑を急ぐべきです。穢れが広がる前に」
静かに響くその声に、ミクリオの中で何かが叫んでいる気がした。それが何なのかを掴み取ることはできない。ただ一つ分かるのは、スレイを見捨てるわけにはいかない、ということだけだった。
「……急がないと」
ミクリオの中には、自分の一部が欠けたような違和感がずっと続いていた。全てが他人事。このままではいけないと理解しているが身体が追い付かない。例えるなら、頭に石でも置かれているような。抑えつけられた状態を戻さなければならない。取り返しのつかない状態に陥る前に。
天界の長から与えられた称号の名前は、もう忘れてしまった。覚えるほど重要なものではなかったからだ。
辺りが静かになってからひっそりと部屋を抜け出したミクリオは、静かに術を紡いだ。スレイを守るために何度も練習した隠密の術を、今は自分を覆い隠すために使う。冷たい光が彼の身体を包むたびに、自分がまるで薄い膜の中に閉じ込められているような感覚に襲われた。
天界の長が配置した見張りの気配を感じるたびに、ミクリオは呼吸を殺して影に潜んだ。隠密術で完全に気配を消しているはずなのに、なぜか自分の足音が響いているような錯覚に囚われる。
「……スレイ、今助けに行くから」
思わず独り言が漏れる。口にしないとその決意すら忘れてしまう気がした。
「お前今何か言ったか?」
「いや、何も」
見張りの声に気を引き締める。
自分が今、何をしているのか分からなくなる瞬間がある。冷静すぎる。大切な人が危険に晒されているというのに、焦りも怒りも湧いてこない。そんな自分が、恐ろしく思える。
(でも、この冷たさの奥に、まだ君を思う熱が残っていると信じたい。)
脱獄
涙が石の床に落ちるたび、その周囲に黒い靄が濃く広がっていった。それはまるで、スレイの心が直接、空間に滲み出しているかのようだった。
スレイはひとしきり泣いた。共存の夢が人為的に阻まれていると知った事が、思っていた以上に重荷だった。スレイの周囲が黒く染まり始める。それは「自分が穢れないように」と改める余裕すらない事を示していた。
「こんな誓約があったから……。分かった。分かったよ。これを終わらせるのはオレの役目だ」
「昔、心を抑える事で穢れを抑えた導師がいたんだって。でもそれって、生きる喜びを奪われることだよな」
穢れとは容器に水を貯めるような仕組みである。流れ込む穢れも、それを受け止められる器の大きさも、出て行く穢れも、千差万別である。
遥か昔の導師は入ってくる量を減らすことで穢れに立ち向かった。しかしそれは、穢れが感情の揺れ動きから生まれるものである以上、世界から感情を奪う結果になった。
マオテラスは浄化という概念を編み出した。穢れが出て行けるように道筋を整える方法だ。
そしてスレイは、個々人の器を広げる方法を考えた。支えてくれる仲間がいれば同じ量の怒りや悲しみでも結果は異なる。
ふとスレイは気づいた。スレイの周囲に漂う黒い靄が壁に触れるたびに、微かにヒビが広がる音がしたのだ。
「穢れが……壁を壊してる?」
スレイは自身の想いを口にする。
「悔しいよ。苦しい。でも、そう思える自分で良かったと思う」
「この誓約に縛られる世界を終わらせる。そうして初めて、誰もが自分の気持ちに素直になれる世界になるはずだから」
「怒ってほしかったな、ミクリオに。……なんであんなに冷たかったんだろう?」
ああ、でも。きっと理由があるんだろうなと思った。それは何かスレイが悪いわけではないことも。
感情の暴露
空間に漂う穢れが、ミクリオの感覚に鋭く突き刺さった。それはただの穢れではなく、スレイのものだと確信できた。
「間違いない、スレイだ。感情が強く溢れ出している……」
ミクリオの冷静な声には、わずかな焦燥が滲んでいた。近くで警備天族の足音が聞こえるたびに、彼は咄嗟に影へと身を潜める。その仕草は洗練されており、一切の隙がなかった。しかし、その内面は嵐のように揺れていた。
「スレイ……待ってろ。今すぐ助けるから」
自らに言い聞かせるように呟いたその言葉は、薄闇に吸い込まれるように消えた。冷静さを装っていた心情が、スレイのことを考えるたびに少しずつ曇りを払っていく。自分を覆っていた霧のような感覚が薄れ、胸に新たな熱が灯るのを感じていた。
冷静に曇っていた心情が、少しずつ晴れていく。
ミクリオの頭に浮かんでいるのは、別れる直前にスレイが見せた悲痛な表情だった。自分に訴えかけるあの目。言葉にはしなかったが、全てを理解してほしいと願っているような切ない視線――。
「なぜ、あの時……僕はあんなに冷たかったんだ?」
冷静さこそが正しいと思い込んでいた自分。しかし、あの瞬間、スレイを救うために必要だったのは冷静さではなく、むしろ感情そのものだったのではないか。
(……自分は間違っていたんだ)
徐々に確信へと変わっていく内なる声。スレイが待つ場所へ向かうミクリオの足取りは、次第に重さを失い、迷いが消えていった。スレイの感情が空間を震わせるほどに強く存在していることが、彼の心を揺さぶり続けていた。
***
目の前の壁が崩れ落ちた。
薄暗い地下室。スレイの周囲には黒い靄が漂い、彼の感情が空間そのものを支配しているようだった。
「スレイ!」
ミクリオの声が響く。スレイはゆっくりと顔を上げ、その目にミクリオの姿を捉えた。
「……ミクリオ?」
スレイの声は震えていた。喜びと安堵、そしてまだ残る不安が入り混じった複雑な響きだった。
ミクリオは駆け寄りスレイを抱きしめた。その体が震えていることにスレイはすぐ気付いた。
「どうして……どうして僕はあんなに冷静でいられたんだ……スレイを失うなんて考えられないのに!」
ミクリオの声は、これまで聞いたことのないほど震えていた。彼の目から溢れる涙がスレイの肩を濡らした。
その瞬間、不思議なことが起きた。周囲に漂っていた黒い靄が少しずつ薄れていき、消えていく。二人の感情が、まるで穢れを押し戻していくようだった。
「ミクリオ……お前があんな冷たいことを言うから、オレ……もうダメかと思った」
スレイの言葉に、ミクリオは一層強く抱きしめた。
「ごめん……本当に、ごめん……!」
「二度と離さないようにと誓ったのに」
「そっか。一緒にいてくれるんだ」
スレイは少し笑みを浮かべながら、ミクリオの背中を軽く叩いた。
「でも、こうして来てくれたんだな……ありがとう……!」
しばらくして、ミクリオはスレイの目を見つめた。その目には強い決意が宿っていた。
どちらともなく顔が引き寄せられる。そして静かに重なった。
「スレイ、ここから出よう。絶対に二人で乗り越えよう」
スレイは頷き、静かに口を開いた。
「……ミクリオ、聞いてほしいんだ。天界と地上の契約について」
***
スレイの真剣な表情に、ミクリオも顔を引き締めた。
「僕達が苦しんできたのは……全部、その契約のせいだったのか」
「うん。でも感情を抑えろなんて無理だった。こんなにミクリオのこと好きなのに。だからさ。抑えないといけない世界を変えたいんだ」
スレイの声には、強い覚悟が滲んでいた。
ミクリオは一瞬黙り込んだが、次の瞬間には小さく頷いた。
「そうだな……僕も、そう思うよ」
感情のあり方
塔の最上部に戻ってきた二人。白い光に満たされた広間の中心には、荘厳な椅子に座る天界の長がいた。冷ややかな目で二人を見つめ、その表情には微塵の揺るぎもなかった。
「お前たちがここまで来たことは評価しよう。しかし、それ以上は認められない」
天界の長の声は、静かでありながら鋭かった。まるでその場の空気さえ切り裂くような威圧感を纏っている。
「感情は穢れを生む。制御できない以上、抑え続けるしかない。それがこの世界の秩序を保つ唯一の方法だ」
スレイは一歩前に出て、その言葉に真っ向から反論した。
「違う!感情があるからこそ、人は誰かを守りたいと思うし、未来を作ろうとするんだ!」
その瞳には、揺るぎない信念が宿っていた。
「感情を抑えたら、守りたいものも守れなくなる。おかげさまで理解できたよ」
皮肉を込めてミクリオは答える。
「守りたいという感情が穢れに変わることもある」
天界の長は冷静に言い放つ。
「私自身、かつては感情に流され、この世界を滅ぼしかけた。それを経験して初めて、感情を抑えることが唯一の正解だと悟ったのだ」
スレイは一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに意を決して口を開いた。
「確かに感情が穢れを生むこともある。でも、それは感情が悪いからじゃない。感情をどう受け止めて、どう行動するかが大事なんだ!」
天界の長は嘲笑を浮かべるように頭を振る。
「理想論だ。感情は美しい言葉で飾られているだけの危険物だ。理性でさえ凌駕するその力が、どれほどの破壊をもたらしてきたか……お前たちは知らないのだろう」
その瞬間、ミクリオが口を開いた。
「スレイは、地上でそれを証明してきた!感情を力に変えて、穢れに立ち向かってきた。感情を捨てることなく、多くの人々を守り抜いてきた!」
その言葉には、スレイと共に戦ってきた時間の全てが込められていた。
「スレイは僕にとって……ただの友じゃない。彼と共に過ごした全ての時間が、僕の生きる意味を作っているんだ」
天界の長の表情がわずかに揺らいだ。周囲の天族たちは互いに顔を見合わせ小さな声でささやき始めた。その中の一人がつぶやく。
「感情が穢れだけを生むというのなら、どうして彼らはここまで来られたのだろう……」
スレイは天界の長を真っ直ぐに見据えた。
「他人のために感情を抑えるのも優しさかもしれない。でも、それだけじゃ限界がある。感情があるからこそ、人は強くなれるし、未来を変えられるんだと思う」
広間の光が一瞬だけ揺らいだように見えた。
天界の長は唇を引き締め、わずかにため息をついた。
「……お前たちが言うことが真実であるならば、それを証明してみせるがいい。この穢れに満ちた世界で……」
そして、長は指を一つ動かし、塔全体が震え始めた。空には黒い影が集まり始め、激しい轟音が響き渡る。黒い影は渦を巻きながら空に広がり、一瞬後には巨大な翼の影が広間を覆った。ドラゴンの咆哮が響き渡り、空間そのものが軋むようだった。その姿を見上げた天族たちは恐れの色を隠せない。
「ドラゴンたちを止めることができるのなら……感情の力が正しいことを認めよう」
スレイは強く頷き、ミクリオと共にその場を駆け出した。彼らの決意が、塔を包む穢れを突き抜けるように輝いていた。
ドラゴンの群れ
空が急激に暗くなった。黒い影が広がり、天界全体を覆うように、数十体ものドラゴンが姿を現した。その巨大な翼が風を巻き起こし、広間の窓を震わせる。低い咆哮が重なり合い、大地の奥底まで響くような衝撃を伴って空間全体を震わせた。
「空が……黒い影で埋め尽くされている……」
スレイは目を見開いたまま、その圧倒的な光景に息を呑んだ。
その時、天界の長が立ち上がり、冷たい視線を二人に向けた。
「これが地上の感情の果てだ。お前たちが天界に穢れを持ち込んだからこそ、ドラゴンがここに現れたのだ」
その言葉には微塵の迷いもなく、断罪の響きがあった。
スレイは拳を握りしめ、食い下がるように叫んだ。
「そんなの、違う!感情を否定することが問題なんだ!感情がなければ、人は未来を作れない!」
だが天界の長は静かに首を振る。
「導師スレイ、お前が原因で、この秩序が崩れかけているのだ。この世界に感情を持ち込むことは、穢れそのものを生むことに等しい」
その頃、天界の住人たちはこれまでの冷静さを失いつつあった。冷たい視線で感情を抑えることを誇りにしてきた彼らの間にも、ドラゴンの咆哮は恐怖を生み出していた。
「……このままでは天界が滅びてしまう?」
それまで無表情だった住人たちの顔が、不安と恐れに歪む。
スレイはその様子を目にし、深く息を吸った。そして、天界の長をまっすぐに見つめる。
「これが感情を抑え込んだ結果じゃないのか?感情を抑えても、恐れが消えるわけじゃない。むしろ、穢れが溢れた時にもっと酷いことになる!」
ミクリオが一冊の古文書を取り出し、その中の一節を指差す。
「ここに書いてある。『ドラゴンは浄化できない』と。穢れを受け入れた天族が変化した存在であり、浄化の対象外だと定義されている」
スレイは一瞬言葉を失う。しかし、顔を上げるとその瞳に新たな決意が宿っていた。
「でも、それでもオレたちは何かしなくちゃならない。誰も傷つけずに、この状況を止める方法を探すんだ」
ミクリオは一瞬スレイを見つめ、深く頷いた。
「そうだな。僕たちならできるはずだ」
天界の長が再び口を開く。
「ならば証明してみせるがいい。感情の力が穢れを生まないのだと。だが警告しておく。ドラゴンを浄化することは不可能だ。それが真実なのだ」
スレイは剣を握り直し、振り返ってミクリオを見つめる。
「やってみよう、ミクリオ。感情を抑えない世界を、オレたちが作るんだ!」
石碑との戦い
スレイは決意を込めて言葉を放った。
「あのさ、一つ思ったんだけど。……石碑そのものを壊せば、この誓約は無効化できるんじゃないか?」
ミクリオは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷静に頷いた。
「やってみる価値はある。だが、長が黙って見ているとは思えないな」
二人は迷うことなく地下へと向かう道を選んだ。
地下へ続く階段の入り口に到着した瞬間、天界の長が二人の前に立ちはだかった。その表情には激しい怒りと、わずかな恐れが混ざっていた。
「愚か者どもが……石碑を壊せば、この世界そのものがどうなるか分からないというのに!」
スレイは一歩も引かず、長を見据えた。
「分からないなら確かめてみる!感情を抑えるだけの平和は本当の平和じゃないんだ!」
長が手を挙げ、天界全体が振動するような轟音が響き渡った。上空からドラゴンたちが急降下し、地下への入り口を覆うように立ちはだかった。
「止まれ!それ以上先へ進むな!」
だが、その時だった。ドラゴンたちの瞳が一瞬だけ輝き、巨大な体をスレイとミクリオをかばうかのように動かした。
「……ドラゴンが、僕たちを守っている……?」
ミクリオの声には驚きが滲んでいた。
「……どうして?」
スレイもまた、ドラゴンたちの行動に困惑を隠せない。
天界の長はその様子に怒りを露わにした。
「くだらない!感情を持つ者はいつもこうだ……身を滅ぼすと知りながら、未練に縛られる……!」
二人は隙を見つけ、地下への扉を潜り抜けた。
地下の奥深く、暗闇の中に鎮座する巨大な石碑が現れた。それは不気味な輝きを放ち、その周囲には漂う穢れが渦を巻いていた。
「これが……誓約の石碑か」
スレイは石碑を見上げながら、ゆっくりと剣を抜いた。
「行こう、ミクリオ。これで本当に変わるかもしれない」
スレイが石碑に剣を振り下ろそうとしたその瞬間、石碑が激しく光を放った。石碑に刻まれた文字が空中に浮かび上がり、黒い影となって形を取り始めた。
「誓約は絶対だ。破る者には罰が与えられる……お前たちが未来を語る資格などない!」
具現化した影が人型を成し、スレイとミクリオの前に立ちはだかった。
「行くぞ、ミクリオ!」
「分かってる!」
「これで……全部終わらせる!」
「「ルズローシヴ=レレイ!」」
天界と地上の融合
戦いが終わり、石碑が崩壊した瞬間、天界全体がまばゆい光に包まれた。それは塔を中心に渦を巻きながら広がり、地上と天界を繋ぐ光の柱となって空高く昇っていった。
「すごい……これが、誓約の力が解放される瞬間なのか」
ミクリオが息を呑む。
スレイは眩い光を見つめながら、胸の奥から湧き上がる新たな希望を感じ取っていた。
「これで……全てが終わった。いや、全てが始まるんだ」
その光は天界と地上を隔てていた境界を次第に溶かしていった。白い塔が地上の風景と一体化し、空と大地の境界が消えていく。
穢れは光の中で形を変え始めた。黒く渦巻いていたそれが、無害な輝きの粒子となり、空気中に溶け込んでいく。天界の天族たちはその光景に驚きを隠せなかった。
「猛毒だった穢れが、これほどまで純粋な力に変わることがあるのか……」
「すまない……そして、ありがとう……」
彼らの目には、これまでとは違う世界の可能性が映り始めていた。
空を埋め尽くしていたドラゴンたちも、その光の影響を受けて変化を始めた。巨大な体が輝きに包まれ、やがてかつての天族の姿へと戻っていく。
一人の天族が地上に降り立ち、かつての仲間たちの元に歩み寄った。その目には穏やかな光が宿っていた。
「帰りたい……私の大切な場所に……」
スレイとミクリオは、その言葉に優しく頷いた。
「どこにでも帰れるよ。これからは」
広がる光が収束し始めたとき、天界の白い建物が静かに地上の風景に溶け込んでいった。人々が空を見上げ、天族と人間が共に歩む未来を感じ取っている。
「穢れを浄化する力がなくなった……いや、それすらもう必要ない世界になったんだ」
スレイが静かに言うと、ミクリオも同意するように頷いた。
彼らの目の前には、天界と地上が融合し、希望に満ちた新しい世界が広がっていた。
融合した世界で
穢れの浄化が進み、天界と地上の融合が完全に果たされた後、人間と天族たちはそれぞれ新たな道を歩み始めた。
天界の広場には、再生のために集まった天界の天族たちが議論を交わしていた。誰もが穏やかな表情を浮かべており、それぞれが未来への希望を抱いているようだった。
「天界を再建しようとする者、地上で新たな生活を始める者……」
ミクリオはその様子を静かに見守りながら呟いた。
「みんなが自分の道を選べるようになったんだな」
スレイが頷きながら隣に立つ。
「そうだな。これからは、みんなが自分の気持ちに素直に生きられる時代になる」
そんな中、天界の長がミクリオに歩み寄った。
「ミクリオよ。こんな事を言う資格はないと分かっているのだが……ひとつ聞いてはもらえないだろうか」
「何があったんだ」
「お前には天界の新しい指導者になってほしい。理性と冷静さを持つお前こそ、この新しい時代を導くにふさわしい存在だ」
突然の申し出に、ミクリオは一瞬だけ戸惑った。しかし、すぐに微笑みを浮かべて答える。
「僕には、やることがあるから」
「だが、天界を復興するためには――」
ミクリオは静かに首を振る。
「地上にも天界にも、新しい時代を作るための人たちがいる。僕がいなくても、皆はきっと正しい未来を見つけられるはずだ」
スレイが近づき、肩を軽く叩く。
「ミクリオ、いいのか?お前がここに残れば、天界の未来をもっと支えられるかもしれないのに」
ミクリオは少し照れくさそうに笑った。
「僕には、もっと大切なものがあるからな」
スレイも微笑んだ。
二人は天界と地上が溶け合った広い空を見上げ、希望に満ちた未来を胸に、新たな旅への一歩を踏み出した。彼らの背中に、まるで新しい世界を祝福するかのように、柔らかな光が降り注いでいた。
エンディング
暖かな陽光が差し込むカフェのテラス席。穏やかな風に乗って聞こえる街のざわめきと笑い声が、平和な時代を象徴していた。
スレイとミクリオは、再びあのカフェに足を運んでいた。
「じゃあ、これで」
ミクリオが慣れた手つきでカウンターにクーポンを差し出す。カップル割を適用してもらうためだ。
「本当にオレたち、正真正銘のカップルになっちゃったんだな」
ミクリオは軽く肩をすくめると、少しだけ頬を赤らめて答えた。
「貰えるものは貰っておくに限る、だろ?」
その言葉にスレイはさらに笑顔を広げた。
「ミクリオが嬉しそうだと、なんかオレも嬉しくなるよ。あ、そうだ。割引券貰って来たんだけどどう?」
「僕は割引マニアじゃないけどね」
スレイはお構いなしに笑い続ける。
二人が席に座り、ケーキと紅茶を楽しんでいると、ふとスレイの視線がカフェの隅に向けられた。
「ミクリオ、あの人……」
そこには、かつて天界で純白の教えを伝え、警告を与えた女性が座っていた。今は天界を離れ、地上での新しい生活を楽しんでいるようだ。ケーキに夢中になっている。
スレイは感慨深げに言う。
「あの人、すっかり馴染んでるな」
ミクリオも微笑んで頷く。
「地上の世界の楽しさに気づいたんだろう。いいことだよ」
女性がこちらに気づき、軽く会釈をする。二人もそれに応え、目の前の平和と新しい未来を噛み締めるように再びケーキに向き合った。
ミクリオがふとスレイを見つめる。
「スレイ、これからどうする?まだ行きたい遺跡はたくさんあるんだろ?」
スレイは満面の笑みを浮かべながら、真剣な瞳でミクリオを見つめ返した。
「もちろん!」
二人の笑い声が響く中、カフェの外では、天族と人間が共に行き交い、未来への期待を胸に新たな時代を築いていた。
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