反出生主義に対する反論へのコメント
このnoteは、他の方の投稿に対するコメントとして投稿しているので、興味がある方は、文末の記事を読んでください。(前記事も含めて拝見いたしました。論点が多岐にわたっているため、すべてにコメントはできませんが、めざめさんやそのページに訪れた人の助けになれば幸いです。)
各論に入る前に反出生主義の重要なポイントを提示したい。まず、親と子ども本人が努力したとしても、残念ながら子どもが「自分の人生は不幸だった」と思うことは十分起こりえるし、そんな不幸な可能性があることを我々人間は子どもを産む前に認識できる(認識A)。親としての責務さえ果たしていれば、法的および社会通念上の責任は免れるが、一方、不幸な人生を背負った子どもは存在しているのだから、哲学的にその責任の所在を明らかにする意義や必要性はある。
責任の所在候補としては、子ども本人、社会、親が考えられる。まず、子ども本人が一定の努力をしたなら、何の同意もなくこの世に連れてこられたのだから不幸の責任を負わされるのはあまりに理不尽だ。子ども本人がネガティブだから悪いといっても、その性格形成を親や本人がコントロールすることは難しいし、性格形成それ自体がある種のリスクといえる(認識B)。次に、社会は人々が幸せに暮らせるように努める義務はあるだろうが、残念ながらすべての人を幸せにすることは物理的に不可能だし、幸せが各人の主観に依存するという観点から考えてもやはり不可能であり、不可能なことについて責任は問えない(認識C)。最後に親について、認識Aのみをもってしても責任の所在が親にあるといえるが、認識BとCを加えることでその主張はより強固なものになるだろう。
ここにきて大きな問題となるのは、責任の所在が親にあるとわかったところで、親はその責任をとることができないという点だ。一定の手助けは可能だが、子ども本人を幸せにすることは難しい。「自由には責任が伴い、その責任をとれる範囲で自由は認められる」という命題に多くの読者は異存ないだろう。生殖の自由は法的には認められているが、以上の哲学的・倫理的な議論を踏まえると、子どもを産むべきではないというのが反出生主義の立場である。反出生主義を説明するアプローチは他にもあるし、上記では説明不足だが本題に移りたいのでここまでとしたい。
投稿「人は罪人」に対するコメント
”子どもを産むことは、罪やエゴである以前に、生物の本能だ。”
→ 自然主義的誤謬を犯している。「自然なものは善いものである」という間違いだ。我々人類はその知性や理性、社会制度によって多くの本能を制約している。代表的な本能に、食欲・睡眠欲・性欲があるが、いずれも人間社会におけるルールを守って欲を満たさないと正常な社会生活を営めない。「生殖は社会的に認められてるじゃん」という反論がありえるが、それは社会にとって都合が良いから歴史的に認められてきたのであり、まさにその状況に対して生殖の非倫理性を説いているのが反出生主義である。したがって、「生殖は社会的に認められてるから反出生主義は誤りである」という反論があったとしてもそれは何の反論にもなっていない。
”そこで私は思う。生きるとは、ただそれだけで罪深いことなのだと。この競争社会で生き残ること自体が、ある意味では罪で、エゴなのだ。”
→ この結論にまで至っているのに反出生主義支持の立場にならないことを不思議がる読者もいるだろう。しかし、これは恐らくめざめさんが、理性よりも本能に重きをおいているからだと思う。あくまで各人の価値判断のため本能と理性どちらが上も下もないのだが、反出生主義は倫理的な哲学の話なのでそこに本能優位の論調を持ってきてしまうと議論が成立しなくなってしまう。こうした問題はメタ倫理学の管轄になるのだろうが、ここでは名称の紹介にとどめる。
”つまり、法律の存在の前提にも、「種の生存」を目的とする思想があるのではないか。”
→ その通りだと思う。しかし、種の生存以上に幸福追求や被害回避の目的の方が強かったと私は思う。
”当然、種の生存に直接的につながる行為である「子どもを産むこと」の罪深さは、法律では裁かれない。それを有罪としてしまっては、法律の前提となる思想と相反するからだ。”
→ まず、前段で挙げたように法律には種の生存以外にも目的があるため、前提となる複数の目的(この場合は「種の生存」と「被害回避」)が競合してしまった場合にどの目的を優先すべきかについては議論があって然るべきだ。しかしながら、もとより私を含め多くの反出生主義者は法律で子どもを産むことを禁止することには反対の立場だろう。法律で出生を禁止することは望まないが、出生は倫理的に問題があるから自発的に出生しないべきという主張なのだから、そもそも法律は関係ない。
”人々がもう二度と罪深い行為は繰り返さないと決心して、子どもを産むことを止め、自殺を図るとすれば、どうだろう。
その結果として起こるのは、人類の滅亡だ。”
→ 自殺、この文脈では安楽死と言われることが多いが、反出生主義者の中でも安楽死を主張するのは少数派だ。また、人類が滅亡することは反出生主義の目標であり、前段の通り自発的な取り組みなのだから悲劇的な最期を迎えないように備えることは実現できる。
”けれども、そんな未来は想定されにくい。
なぜなら、人間は人間である以前に動物なので、生存本能には逆らえないと思うからだ。それに、人間はそこまで「お人好し」ではない。”
→ 残念ながらこれはその通りで、反出生主義の理念が実現する可能性はほとんどない。しかし、理念の実現可能性が低いことと、理念の論理的正当性は別けて考えるべきである。また、人類のうち100万人程度しか反出生主義によって救えなかったとしても思想の価値はあったといえる。
”そして何より、人類が滅亡してしまえば、人々が長い歴史のなかで築いてきた様々な仕組み、科学、文化、芸術……それらが無に帰すことになる。そんな残酷な結末が、何をもたらすんだろうか。そこまでして、「善」を遂行することの目的は、どこにあるのだろうか?
この世の不幸を消すことだろうか?”
→ ”様々な仕組み、科学、文化、芸術”など文明の存在目的は人間が快適に過ごすためで、不快を避けるための手段として反出生主義を完遂した後にはそれらは無用の長物だ。人類のために文明があるのであって、文明の維持のために人類を産み出し続けるのは本末転倒である。”残酷な結末”とあるが人類の自主的絶滅時おいて残酷性はない。自主的、すなわち計画的に絶滅するなら資源備蓄や科学技術維持を行うことで人類最後の世代も快適に過ごせるだろう。
後半についてはややオウム返し調になるが、善であるならそれは遂行すべきだし、その遂行目的が不幸を消すことというのはとても道徳的だ。
”それはひとりの人間の一生についても同じことだ。子どもを産むことは、その子どもが「不幸」になる可能性を孕んでいると同時に、「幸福」になる可能性も孕んでいる。不幸を産む可能性を消すためには、幸福を産む可能性も消さなければならない。”
→ この点については反出生主義者のベネターが「生殖に関する義務の非対称性」によって説明している。内容は「悲惨な人生を送るだろう人々を生み出すことを避ける義務はあっても、幸福な人生を送るだろう人々を生み出さなければならない義務はない」というものである。この非対称性は我々の倫理的な直感に一致している。
別の角度で説明すると、15世紀には私もめざめさんもこの世にはいなかったため当時我々は不幸になる可能性はなかったが、一方、幸福になる可能性もなかった。しかし、幸福になる可能性が当時なかったにもかかわらず、我々は何ら不自由や不利益を受けたとは思っていない。16世紀でも、17世紀でも同じだ。ならば20世紀や21世紀に我々がいなかったとしてもそこには一切の不自由も不利益もなかったはずだと考えられる。
「人は罪人」における以後の部分については、本投稿の冒頭で説明した認識A~Cの話を読めばご理解頂けると思う。
https://note.com/riponemu/n/nb2d60da41303 子どもを産むことは悪なのか
https://note.com/riponemu/n/n9a1d5dcbb1c7 人は罪人