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忍たまにはまって、なぜか箱木家住宅 

突然ですが『劇場版 忍たま乱太郎ドクタケ忍者隊最強の軍師』を観たことにより、まんまと忍たま、もとい土井半助と山田利吉の虜になりました。
オタクの典型的な沼オチというやつです。

そうなると、物語の舞台である室町時代末期について、もっと知りたい!
今回はその一環として、目で手で触れられる室町時代を求め、箱木家住宅を訪れました。


はじめに

前提として、こちらのnoteは私の体感メモです。

今回は室町時代前後の建築と推測される「箱木家住宅」の雰囲気、質感を実感することを目的に赴き、その感覚を忘れないよう書き留めました。
リーフレット等を参考に記載しておりますが、誤った知識や認識の可能性が多分にございますので、その点をご留意ください。

ぶっちゃけますと、二次創作の漫画や小説での描写に、少しでも役立つことがあればという邪な気持ちで建物を眺めてきた次第。
そのために写真を多く掲載しています。

しかし忍たま的には公式の資料が手厚く、箱木家住宅自体もぴったりと作品内のものと合致する建築というわけでもないので、あくまで材質や温度感の一例になればという思いです。
万が一同好の志のお目に触れた際、お役に立つことがあれば幸い。とにかく写真が見たい方は「外観」の項目からご覧ください。

箱木家住宅について

来歴については、公式HPをご覧ください。
概略としましては、応永(1394-1429)頃に宮座の下頭役を勤めていたと言われる、そしてこの部族の中心的な家柄であったと思われる、箱木家の住宅です。
ダム建築にあたって移築され、現在の姿になりました。
下記がパンフレットに掲載されている移築後・移築前の平面図です。

リーフレットより

図でいうと右側。にわに沿う二室が極めて古く、他の部分は江戸時代の中頃改築されたものと推測されます。
移転再築にあたり、現在は図の上部のように、古い建物と新しい建物を離れとして分離して、中間部分は撤去されています。
また古い建物は数々の修理や変更が加えられており、最初の材が残されていたのは、おもての間の柱6本と、桁梁の類8本にとどまり、細かい点については不明なところも生じています。それ故、再考の余地も残すよう、古い仕事の痕跡を埋めないで、そのまま見られるようにされています。

箱木家住宅について、さらに参考。

インターネットで資料を捜していたところ、
小田桐 一良氏の作成されている舞子の浜というHPがとても参考になりました。リンク可能とございましたので、ご紹介させていただきます。
特にこれまで室町時代と推定されていた最初の建築時期が、鎌倉時代までさかのぼること。Wikipediaにも記載がございましたが、公式HPやリーフレットにない情報で助かりました。
これらの情報から、忍たまの舞台である室町時代末期とは多少の差異があります。しかし新しい技術が取り入れられる都や貴族の建築物に対し、民衆の村々では古い家をそのまま使用する例も少なからずあるのではないか。
(実際に、箱木家住宅も江戸時代まで増改築されている)
そういった個人的推測で、参考に選んでおります。
また、今回の趣旨は忍たまの舞台に存在しうる建築に触れることなので、主に古い建物である母屋の方にしか、言及いたしません。

外観

入り口から見た写真。右側手前にあるのは土蔵。
母屋の外観
入り口の高さ、参考。人物は身長158sm程度。

にわ(炊事場)

まず初めに、今回は平面図に則った名称で表記していきます。
平面図で「にわ」に当たるところに、竈門や、水場がございました。

建物のおもてから見て、右側面。間口と窓があります。窓の内側は、水場になっておりました。
窓の内側

横にある甕には水を入れておくのでしょうか。
おそらく水や物をそこから外に捨てられる仕様なのかと思われます。

台所の外側
台所の外側。この穴が受け皿的な役割になっている?
土間にある竈門
竈門 外観
竈門 上部
竈門上部 鍋が嵌っています。

土を練って藁などを加えた粘土を使用して成形、乾燥させた、土竈だと思われます。
アップにして見ていただけると分かりやすいかと思いますが、土壁のように所々に草木が混じっていて、毛羽立って見えます。
手触りもザラザラとしますが、しっかりと固くなっていて、崩れるような不安感はありません。
竈門の前にある四角い穴については、さらっとネットで探してみたのですが、防災のため、掃除のため……等、いくつかの話を目にしたものの、確証は得られませんでした。どういった意味のあるものか、ご存知の方がいたら、是非教えてください。

にわ から見た おもて、だいどこ

天井はかなり高いですが、間口は低め。
ニワとオモテの上り部分。柱の下には石。
オモテの下部、板敷の床の部分

腰掛けて靴を脱ぐのに丁度よいくらいの段差。
伏せれば人が入れる。
これは忍びが床下に潜むのも頷けます。

板敷の床に上がって、まず私が一番に感じたのは、その冷たさと、剥き出しの素材感です。

オモテ、台所に面した木戸

訪れたのは2025年2月23日。外気温は大体4度。
雪がちらつくような寒さではあったのですが、空色は晴れやかで日が差しておりました。
しかし日が届かないせいか、体感としては室内の方が寒く、床が冷たい。
また足に触れる床の感触が、滑らかではあるのですが、現代のような均一さではありませんでした。
うろ覚えの知識で恐縮ですが、鎌倉から室町時代に掛けて建築に関わる道具も多様化。室町時代に大鋸(おが)が登場し、それまでのやりがんなから、台鉋に移ったとか。この床もそういった作りなのかもしれません。

ちなみに鎌倉時代の板づくりについては、下記のとおりです。
①木材に、すみをつけた糸で直線を引く
②直線に沿って、のみを木槌で打ち込み、木材を割る。
③ちょうな(曲がった柄に手前向きの刃のついた道具)で荒削る
④やりがんな(長い柄の先に刃のついた道具)で表面を平らにする

なお、この時代では畳は高級品。
ごく一部の人しか利用できず、庶民に普及したのは江戸時代中期ということで、殆どの人はこの床に筵を敷いたり、着物を掛けて寝ていたのかと思うと、想像するだけで冷え冷えとします。

だいどこ

平面図でだいどこにあたる部屋

なんど

土壁

土壁。
①竹や木を組み渡し、下地となる木舞(こまい)をつくる。
②木舞の片面に土を塗り、終わったら反対側も塗る。

さらに漆喰の壁にするには砂摩、漆喰と塗っていくとのことですが、こちらの土壁は①~②の工程で作られたものでしょうか。
映画でしんべヱが芋がらを混ぜ込んだ土壁をガウガウ噛んでいく描写がありましたが……、大分固いな、というのが率直な感想です。

なんど と おもてのしきり

おもて

おもて
いろり

そういえば忍たまのアニメーション設定画集で、忍術学園内や生徒の住居の間取りが見られますが、その中では乱太郎の家に近いかもしれません。
乱太郎の家の方が部屋数が少なく全体的にこじんまりしていますが、茅葺屋根に、にわ、板の間という作りは一緒。
土井先生の家は長屋で、屋根も板葺き。囲炉裏ではなく炭櫃を使っているのが印象的です。そちらはいつか、中世の町を再現したテーマパークで見てみたいと思っています。

屋根

室内から

室内から見上げた天井は複雑で、なるべくアニメーションで描きたくないというのに頷きました。
そして間口と比べると、天井がすごく高い。
また外から見るとみっしりとした茅葺ですが、壁との合間、室内の仕切りには、やはりところどころ隙間が。
土壁は気密性も高く、冬は暖かく、夏は涼しいと聞いたのですが、そもそも窓も開いていますし、室内と縁側の仕切りは戸板とかでしょうか。
隙間風という意味でも、寒かったのではないかと思います。

この柱は、最初の材かも?
縁側

こうしてみると、忍術学園の設備は整っていて、あの時代の最先端の技術、贅沢なつくりだったんだろうなぁという気持ちになります。

資料的にたくさんの写真を載せましたが、体感の総括としてはとにかく二点。「寒い」「暗い」に尽きます。
晴れた日中っであっても室内は暗く、現代の灯りがあっても奥の方はカメラのシャッターが降りないほど。
灯明皿でちょっとした灯りを灯したところで、いかほどのものかと思うと、日が登ったら活動し、日が暮れたら帰る、月夜は明るい、そういった環境に応じた日々を送ること。またこれだけ自然に近いところに身を晒していると、四季の移ろいを肌で感じることが多かったろうな、と。
身をもって体感し、想像が深まりました。

おわりに

あまりに冷え切ったので、見学後は有馬温泉に立ち寄り。

土井先生の苦手な練り物を美味しくいただき、有馬ビールで一杯やってから帰りました。

結局、私にしか役に立たない覚書になってしましましたが。
ここまでお付き合いしてくださった方々、ありがとうございました。

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