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「大切な人」かどうか…

もしもいま、

5人の人から同時に

「あなたの腎臓の片方が要るんです」

と言われたら、どうしますか?


自分は腎臓が一個になるのなんか
いやだからあげたくないですか?

手術するのは怖いからいやですか?

腎臓は濾過装置です。

人工で濾過するのも大変ですが、
濾過すればいいものでなくて、
機能が落ちれば


抗がん剤のような強い薬を
“万一”使うときに
使えなくなる可能性もあります。

それでもあげますか?


でも、

無論、1つしかあげられません。
誰にあげますか?

1人だけ、選ぶことはできますか?



実は

5人の中の1人は、

あなたの大切な人


または

大切にしたい人です…


そしたら


どうしますか?


それでも、

1人にしかあげないのは不公平で、

罪悪感がわいてきます。


大切にしたい人を選ぶのは、

自己中で嫌悪感もわいてきます。


生かす人を選んだら、

自分が死神に思えてきます。

他の人の命を奪うような気がしてくるからです。


それで

「自分の腎臓なんてもう使い古しなのだから
使っても使わなくても変わりないさ、
要らないだろう」

と思うことにしますか?


「運は天にあり」

とか、

「他にも適合する人がいるに決まってるさ」

とか、


「自分は腎臓取るのなんてイヤだから
あげられない」

とか
思うことにして、


誰にもあげないことにしますか?
 
誰も選ばないことにしますか?


大切な人が

「自分は要らないから、

大切に使ってください」

と言ってきたら

どうしますか?


「要らないんだったら、よかった」

と、胸をなでおろして


安心して全員一律にあげない選択をしますか?

あるいはやっぱり


「考えてみれば、大切ではなかったな。

だって、

生まれたときには知らない人だったし」


そう思って、やっぱり一律にしますか?


相手が悲しむにしても、

相手が辞退するにしても、


あなたの体も、心も、

その方が

傷は浅く済みます。

〈どれくらい大切か〉

〈責任感や罪悪感、罵倒されたくない気持ち等〉

を天秤にかけるでしょう…

その天秤は特注品で、


なにかが「特別」で、

そこに付加価値が付くときには


必ず反作用するものも付いてきます。


それを受け入れるかどうかは、

特別なものを特別にするかどうかと

同義ですから、


重いです。


深刻な場面かそうでないか、ではなくて…


「大切かどうか、そうしたいかどうか」

がわかる、ということです。


大切にしたい想いは重いんです。

なにかを大切にするとき、

なにかを失うわけではなくて、

変容しているだけで、

自分で失うと感じているだけです。

どんな選択をして

どんな自分になっても、


自分はずっと自分です。

どのような選択をしようとも、

あなたは常にあなたです。


変わっていく自分が常に自分だから。


重さをどれだけ背負えるでしょう…



ただしそれを軽くするのも自分です。

相対峙させて量りにかけるものを
軽くすればいいだけなんです。

天秤の傾きは、

あなた自身を変える毒薬ではありません。


むしろ、本当の自分を知るでしょう。

そして、

新しい自分になっていくでしょう。


天秤を恐れることもありません。

天秤にかけようとするものがあるとき、

それは

新しい扉を開くための

あなたの大切なものです。


もし、通行手形として価値がないなら

あなたにとって大切になりうる

ものではなかっただけかもしれません。


さて、あなたはどうしますか?

宜しくお願い致します。 励みと生活の糧になります。