無題88

「生きる事」と「幸せな事」は別

物事を、何でもくっつけたがる人が多いと思っています。
これをすると、とても窮屈になります。
もうちょっと解放していきましょう。

*《因-果》

 「ほら、お母さん、だから言ったじゃないの」

 「ちゃんとやらないと、あとで失敗するぞ!」

ってどなたもどこかで言われたことがあると思います。

だから、気づきもしないうちに、物事が「ただそこにある」だけでなく、そこに「因果」という関係性をくっつけて見てしまうことが身に付いてしまっているのだと思います。


でも本当は、出来事と結果・・・この結果自体も更に出来事となり、
連綿とつながっていくものだとも言えるし、

結果だと思っていることの方が原因だ
ということもあります。

思っているのとは全く別のところに
原因が転がっていることもあります。


*物事を「大ざっぱにまとめすぎる」

1万種類あったら10個にまとめてしまう。
凝縮、短縮、簡素化。

・・・これは荒削りなやり方です。
内容を細密に吟味せず、ザクザク掘削しています。
中身よりも、「慣れたもの」に寄せていく方法なのです。


この「因果」と「大ざっぱなまとめ方」で
物事をなんでもくっつけてしまってから、
思考したり、感じたり、理解しようとしてしまうと、

タイトルのような

「生きる事」と

「幸せな事」や、「価値がある事」や、

「人と関わる事」や、「生き方」など

といった事をみんなくっつけてしまうんですね。


そうすると

「幸せじゃなければ生きている価値がない」とか

「人とうまく関わらないと幸せになれない」とか

「価値がある生き方が幸せな生き方なんだ」とか

っていうふうに、


「たったひとつの命」

に対して、大変重い荷物を背負わせてしまうんです。


「幸せ」を認識することは「不幸」という影も作ること。

「生きる事」を認識することは「死」を知ること。


なのですが、

一般的にはこういうことを、知っている言葉に置き換えがちです。

「光あれば影あり」と。

そうすると、「よくわかった気がする」からです。

これが「慣れたものに寄せてしまうこと」なのです。本質を見失いがちになります。

大切な事は、言葉の意味自体を「わかった」かどうかではないのです。


*「幸せ」を認識することは「不幸」という影も作ること。

・・・「幸せ」を考えている時は、
必ず心の中に「不幸」というものを「影」として
携えているんだ、とわかっていることが大切なんです。

「幸せがあれば」というより、そもそも
「幸せ」という概念がなければ「不幸」という概念も存在しません。

相対峙させて、バランスを作っているんです。
私たちの心身は、この命というものは、
非常に絶妙で巧緻なバランスで保たれているのですから。

バランスが崩れた時に、様々な問題が起きるし、
バランスは崩れやすいです。
そこに「バランスを取るべき天秤」が生まれれば。


「私が幸福なら、他の人で不幸な人もいる」とか
「幸せな時もあれば不幸な時もある」とかではなく、
「表裏一体」でもなく、

≪ 常に双方が内在する ≫ ということなのです。

(陰陽の対極図はまさにそうだと思います)


*「生きる事」を認識することは「死」を知ること。

「生」を感じる時、考える時は、
必ず「死」も同時に在るわけです。

「表裏一体」ではなくて「同じ事」なんですね。

「善悪」も「正誤」も同じ事なのです。


「逆説」というものは
同時に在り、同じ事です。
だからこそ本来は「止揚する」ことが大切なのです。


(※止揚=より高次元で捉える。
  本質や概念の捉え方なので、


 こういう使い方は聞きませんが、、、

 犬と猫→「動物」ですね。
 じゃあ分けておかずに、ハイブリッドな動物に作り直そう、とか、
 全ての犬と猫を仲良くさせよう、とか思いませんね)


おおざっぱに、
わかりやすい所へ減殺することは、

この止揚からの「同じだ」という大切なことを疎かにすることなのです。


例えば「幸福でなければね」とか

「不幸な時があるから幸せがわかる」とか

「不幸な時があってもまた幸せになれる」とか

「幸/不幸」を分断してしまうんですね。


犬と猫でも、(繰り返しますが)
犬と猫をくっつけた新種の生き物にする、
どっちかだけにする、
無理にでも仲良くさせるために同じ場所で飼う、

とかしませんし、

「犬は幸福だけど、猫は不幸な生き物だ」とかはほとんどの人は言わないでしょう。

「猫を飼育する不幸な人がいるから、
犬を飼うことが幸福だとわかる」とかも、中々思わないでしょう。


犬・猫
に今、こう置き換えているのは、
「よりわかりやすいところ」に落としこんでいるだけなんです。


目に見えないことは、目に見える身近な現象で考えるのです。

そうすれば、全ては自分の身の回りに、
自分の中に、転がっていることがわかります。

私たちはみんな、同じ宇宙の産物だからです。



さぁ、では高次元のほうに戻しましょう。

「生きている事」(生き死に)と「幸せな事」(幸不幸)を

全く別のものとしたまま、同時に持っているんだ、
と識ることが、どう大切なのか、どうぞお考えください。


これをもっと高次にしていくと、それは「命」ですね。

もっと…は、「全てが在るし、同時に無い」ことですね。

生まれて形を成して命となっているだけで、
物理的にはただの分子、原子の集合体ですから。


そうやって見ていくと、

私たちがいかように生きていようとも
変わりないことなんだ、ということがわかっていくはずです。


私たちが各々で「自分」と認識している「私」が、
幸福だと感じようとも、不幸だと感じようとも、

「生きている」こと自体とは別のことなのです。


矛盾や、対立する物事それぞれが分離、独立しながらも、
同時に存在するということであり、
何かと何かをぴったりくっつけてしまったり、
くっつくところまで裁断しようとしないことが大切です。
(※犬と猫の話)


「幸せかどうか」

「生きている」

犬と猫(の種)をハイブリッドさせるかの如く、
これらをくっつけようとするのはやめましょう。

しっかり分離して捉えましょう。


そうすると、「不幸」や「死」といったものを、

もう「なにか、うしろめたい影」「恐れるもの」

というふうに見ることなしに、

あなたは「幸せ」を感受して生きていけるようになるでしょう。



〔使用画像〕

ぱくたそ:ハリネズミ。森。

アイビスペイント:枠。以上の加筆修正。





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