「私をわかって」という願望が叶うなら、あなたは消える。
私が考えることは、
すでにこの世の誰かが考えている。
私が得意なピアノはAさんがよりうまいし、
写生は、Bさんがうまい。
Cさんは私と似た顔をしている。
Dさんは、私と声が似ている。
…そんなふうに、「私」の「要素」は、他の誰かが必ず持っている。
遺伝子はたがえど、そもそも私たちの細胞の組成や、原子なら、私たちはみんな同じだからだ。
「私」
が、たったひとり、特別なのは、
「組み合わせ」がこの世でひとつだからだ。
組み合わせを分解すれば、私は私でなくなる。
けれどそれは、《私が死んでも、私の要素は、この世の誰かが持っていて、その意味では私はこの世のどこかで生きている》ということでもある。
あなたも、あなたの大切な人も、同じ。
私や、あなたが生まれて、生きてきた時間、そっくり同じ体験をする人は誰一人ほかに存在しない。
軌跡をなぞることもできない。
「私」は、つまり、この世にたったひとりなんだ。
だから、
「私を理解してくれる人」
というものが、もしもこの世に存在したなら、
「たったひとりの自分という組み合わせ」は、
不要なものとなってしまう。
「(たったひとりの)あなた」が、
誰にも理解されないことは、
それが尊い価値があるという証明なんだ。
誰にも100%理解されないからこそ、
あなたが生きている価値がある。
もう完全にわかる、神様みたいなものがこの世にあるなら、私たちひとりひとりは、そんなにいなくてもいいものになるかもしれない。
「私をもっと完璧に理解してほしい!」
と願うこと、欲することは、
「自分」がこの世に存在しなくていいと言うのと同じことになる。
「わかんない自分」を、
自分が自分で認めること。
「他人もわかんないものなんだ」
と認めること。
それは、存在の尊重。
「わからない」を大切にしよう。
今日の画像はこちら。
いつも利用している『ぱくたそ』様の
「野球の女神様」と「ハート」をコラージュ