『ぼくのメジャースプーン』感想
辻村深月著『ぼくのメジャースプーン』を読みました。
友人からの推薦図書です。
本作の発売年が2009年ということで、今だったらこの犯人はSNSで私刑に遭っているかもしれないということも考えさせられました。市川雄太のような存在のリアリティが恐ろしくて、心臓がドクドク鳴りました。
そして現実には、市川以上に恐ろしい犯罪者が存在します。
そのことに、自分はどう向き合うべきなのか……。考えると、虚空に投げ出されたような気持ちになってしまいました。
「いますぐここで、ぼくの首を絞めろ。さもなくば、おまえはもう二度と医学部にはもどれない。」
「ぼく」の使った呪文は、市川を罰するとともに己を罰するものでした。どんな不幸な巡り合わせの結果だとしても、ふみちゃんを傷つけることになった自分自身を、「ぼく」は罰したかったんですね。
メジャースプーンで、「ぼく」が量っていたのは、市川の罪の重さではない。己の罪の重さだったのでしょう。それはもう、死ぬほど傷つかなければならないほどの罪だと感じるほど、「ぼく」自身が傷ついていた。
「人間って、絶対に他人のために泣いたりできないんだって。誰かが死んで、それで悲しくなって泣いてても、それは結局、その人がいなくなっちゃった自分のことがかわいそうで泣いてるんだって。自分のためにしか涙が出ないんだって、そう書いてあった」
「ぼく」が市川に殺されてしまえば、お母さんも、ふみちゃんもうさぎの事件以上に傷つくでしょう。それがわかっていても、自分自身を罰して、それをもって市川を社会的に抹殺しようとした「ぼく」の行動は身勝手なものかもしれません。でも、そうせずにいられないくらいの気持ちのことを、たとえそれがエゴだとしても、「愛」というのだと秋山は語ります。それがいいものか、悪いものかはともかくとして。
「ぼく」は能力を使ってでもふみちゃんに元気になってほしいと願っていましたが、結局秋山はそうしませんでした。私も、それでいいと思います。
ふみちゃんは事件によって精神的なショックを受け、心を閉ざしてしまいましたが、それは彼女の心が健全である証だとも思うのです。耐えがたい負荷がかかったからこそ、ふみちゃんの心は自己防衛の手段として、己を退避させたのでしょう。
それを、無理に元に戻そうとするのは、今はまだ社会的な傷がふさがらず恐がっている人に、すぐにでも社会復帰しろと言っているようなものだと思います。
私の大切な人がかつて病に苦しみ、「早く元気になってね、と言われることがつらい。本当に早く元気になりたいんだよ。でも、なれないんだよ」と言っていたことを思い出しました。
「ぼく」がふみちゃんを好きだからこそ、彼女に早く元気になってほしい気持ちはわかります。でも、時が彼女の傷を癒やし、ふみちゃんが自分から声を取り戻すのを待つことが一番でしょう。その間、何もしてあげることができずにずっとそばにいるのは耐えがたい苦痛かもしれません。
でも、私はそういうこともまた「愛」じゃないかな、と思うのです。
最後に、「ぼく」がはじめて能力を使ったシーンだと思われていた、ふみちゃんのピアノの発表会のときの出来事。あのとき、じつはふみちゃんはもうピアノを弾きに戻る気持ちになっていて、「ぼく」の能力はふみちゃんには作用していなかったことが、エピローグにて判明します。
ふみちゃんの心を動かしたのは、「ぼく」の呪文ではなく、「ぼくはふみちゃんと仲がいいことが自慢なんだ」という言葉のほうでした。そのぼくの信頼に、尊敬に、応えなければならない。それに恥ずかしくない自分でありたいという気持ちが、彼女を突き動かしたのです。だからでしょう。ふみちゃんは、そのときの記憶をなくしませんでした。
「ぼく」はふみちゃんに、「●●しろ。さもなくば▲▲になる」という呪いではなく、「ふみちゃんなら●●できる。なぜならぼくはふみちゃんのことを信じているから」という祝福を贈ってあげたのだと思います。
そういうこともまた、ひとつの「愛」かもしれない、と思います。