描くということ
私が絵を描き始めたのは、幼稚園のクレヨンで絵を描くことから始まった。
実はその前に、コラージュから始まった。コラージュとは折り紙をビリビリ破いて画用紙にそれを貼って行くものである。
特に印象深いのは紅葉のコラージュである。
私は、自分の手で紅葉の木を描いたことに感動を覚えた。
しかし、クレヨンで描く絵は当時の私にとってとても難しく、絵としては駄作と言えたものであった。
その時に、私の絵描きに対する興味は無くなった。
その後、好きだったのは塗り絵だった。
線に沿って、塗りつぶすことで均一な絵ができる。配色などを考えるのも大好きで、同じ塗り絵を元に何枚も違う配色でグラデーションを楽しんだ。
その楽しみを知った私は怖かったのだ。
何が怖かったというと
自分で新しく何かを生み出すことに対して自信が持てなかったように思う。
これは幼少期から小学校低学年までの記憶だ。
そう経たないうちに、私はアニメーションや本などの読み物、
すなわち、「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というものに没入した。
そこで私は自分の手で、キャラクターを真似て描くという模写をしだした。
それは、その世界やキャラクターへの憧れや愛着が生まれたために、少なくともそのキャラクターになりたいや、その世界を自分で創りたいという想いがあったからだろう。
自己満に自己満を重ねる。そんな工程が私にとっての娯楽だった。
どんなに模写をして、該当の作品の出典物と似ているような物がかけても一向に、1から何かを描く画力というものは身につかなかった。
私には何かを真似ることしか出来ない。
そんな、自分の自信のなさや、周りの友達が上手な絵を書いて漫画家やデザイナーになりたいと言っていることが羨ましく見えたが、次第に自分とはかけ離れた存在だと想い割り切ることができた。
努力などは関係なく、才能の世界なんだと。
そんなことを考えながら、作品に対する愛は次第にお金をかけるということで代換えを得たと同時に
私は才能があるものや独自性を表現できる
一般的には
変わった人、変な人、
そんな人たちを尊敬し、自分が到底及ばない人間を知ることに満足を得た。
こうも違う個性や才能がある人たちと対話できるというのが、今日の私の人格形成において、私の趣向性を表しているのかと考えながら眠ることにしよう。
そして、私には出来なかった描くという行為は絵ではなく、誰かの人生を描くことに私の興味は写り変わっていく。
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