日常は日常のままであれ
もし今日、わたしが事故に遭って死んでしまったとして、残された部屋に誰かが訪れても恥ずかしくないだろうか、と、たまに考える。
母が前に、こんな話をした。
「夜中ものすごくお腹が痛くなって、これは救急車ものだと思ったんだけど、洗い物明日の朝やろうと思って置いてあったの思い出して、こんな汚いの他所の人に見せられない!と思ってね、冷や汗流しながらなんとか洗い物だけしたの。その後なんとか持ち直したから、結局救急車は呼ばなかったんだけど。」
娘からお願いだ。そういうときは、身体を最優先にしてくれ。せめて、冷や汗流しながら洗い物はしないでくれ。
これは極端な話だけれど、もしわたしが救急車で運ばれたとして、その時の部屋の状態が芳しくなかったら「ここで死んだら、あの悲惨な洗い物を、並んだペットボトルを、畳んでいない洗濯物の山を、他人に見られてしまう。ここで死ぬわけにはいかない」と、思いそうだし、そう思えたら死なないで済みそうだ。
ポンペイについては、その存在は勿論知っていたし興味もあったけれど、これだけ「実際にそこにあったもの」を通して触れたのははじめてだった。
東京国立博物館は、去年の鳥獣戯画展の動く歩道でも思ったけれど、設営に対する熱意と思い切りがすごい。このポンペイ展では、ポンペイ繁栄の歴史を示す3軒の邸宅「ファウヌスの家」「竪琴奏者の家」「悲劇詩人の家」を、出土品と共に一部再現しており、ちょっとしたテーマパークに来たような気分になった。
ポンペイの街に暮らした裕福な市民たちは、自分の財力や教養を示すためにも、豪華な装飾や細かい技法が駆使された様々な品を所有しており、その絢爛たる様子には驚いた。
それでも、ここに展示されている全てのものは、こうしてたくさんの人々に見てもらうために、歴史を超えて残されてほしいものとして、作られてはいないのだよな、と考えてしまった。そんなつもりは、なかったはずなのだ。
もちろん「文化」そのものが残されるべき、継承されるべきものではあるが、そういうことじゃなくって、これらの品は全て、ある時までは、ただ誰かの日常にあったものなんだよなと思うと、なんともちぐはぐな気持ちになった。安直な感想だが、人生何があるか分からないんだよな、と思わざるをえなかった。そしてまた安直な感想だが、いつまでもわたしの日常が続いていってくれないと困る、と思った。当然のようにそう考えていて、今そうでなくなっている人が、世界にたくさんいる。平和ボケなどしないために、安直でも、思い、願い、考え続ける。この日常が続いていってくれないと、困る。
今日も普通に家に帰ってきて、お風呂に入って、寝る。洗濯物は畳んだけれど、アイロンがけするシャツは、カーテンレールに引っ掛けたままだ。