「よく分からない」を、たのしむ
美術館に行くことは前から好きだけれど、数年前まで、たのしめなかったものがたくさんある。キュビズムなんて本当にだめだった。ピカソより普通にラッセンが好き、じゃないけど、全然たのしめなかった。
なぜって、私にはよく分からなかったから。よく分からないものは、たのしめなかった。「感動には正しい答えがなくちゃいけない」と思っていたから。
美術館に行けば、作品の横にはほぼ必ず解説があって、そこには、「これは男女が寄り添う姿を表しており」とか「作者の苦悩や憤りが感じられる」みたいに書いてあったりするのだけれど、作品を見ても、てんで分からないことがある。そんなとき私は、分からないのは、自分に美術の見識がないせいだと思っていた。
小説もそう。センター試験の小説問題みたいに、正しい答えを理解しながら読めなければ、半人前だと思っていた。最後の解説文で「そういうことだったの?」なんてやっと理解できるのは恥ずかしいことだと思っていたし、そもそも全部が全部分からないときなんて、私が馬鹿だから分からないんだ、と劣等感を強くした。(20歳くらいのとき、友人がブローティガンの『芝生の逆襲』を誕生日プレゼントにくれて、全然分からなくて悔しかったなぁ。今思えば、誕生日プレゼントにブローティガンをくれるなんて、素敵すぎるなと思うけれど。)
無知な自分を恥じて、それが、無意識のうちに小さな拒絶に変わっていった。それを、「嫌い」だと勘違いしていった。
こんな考え方の根源には、そもそもこういう、作品の背景だったりを知り、もう一歩踏み込む作業が好きだから、というのがある。
大学で学んでいたのがまさにそういうことで、音楽を歴史や理論、美学、様々な方向から紐解き、かたちを持たない「感動」に言葉で輪郭を持たせることを学んでいた。その作業が本当に好きで面白くて、かつ、『言葉で輪郭を持たせることで「感動」がよりくっきりと見えるようになり、もっと輝きを増す』ことを実感として知っていたから、「全部そうしないと勿体ない」と思っていたのかもしれない。たしかにそのたのしみ方は、深ければ深いほど作品から得られるものが何倍にも膨れ上がる。
でもそのせいで、自分の感性がおざなりになっていた。と、今になって思う。
正直、今アートへの見識が前より深くなったかといえばそんなことないし、本の解説を読んでパラパラと本文を読み返すなんてしょっちゅう。でも、「よく分からないから」という理由で苦手だったものは、たのしめるようになった。むしろ大好きになったものもたくさんある。
「よく分からないものを、よく分からないままたのしむ」方法を知ったから。
分からなくても良いんだ、と思えるようになったのはここ数年で、特に大きなきっかけはなかったけれど、「自分は別に知識も豊富でなければアートの才能もない、分からないものは分からないで仕方ない。自分が良いと思うもの、面白いと思うものをひとつでも見つけられたら嬉しいな」という気持ちで臨むようになった。つまり、開き直れたから、だと思う。
まずはそれで良くて、自分が良いと思うものは良い、あんまり好きじゃないものも、それでいい。まずそこからはじめて、面白がってみる。絵を見て「このおじさんなんて言ってるのかな」とか、彫刻を見て「ざらざらして気持ちよさそうだな」とか、そんなんでいい。とにかく、最初の純粋な反応を殺してはいけない。
そして、そうやって「よく分からないもの」を「よく分からないまま」たのしんでみると、だんだん、言葉にできる以上のものを感じ取りはじめる。それは、匂いような、色のような、空気の質感、時間の流れ方、作品や物語が纏っている、そういったもの。
そういったものを感じ取れるようになったら、わたしは、今まで「よく分からなかった」ものが、すごく面白くなった。好きでたまらなくなった。
作品そのものだけでなく、その作品(たち)が纏う、そこでしか感じられない小さな世界。「分からないもの」を「分からないまま」たのしめなかった頃は、こういった感じ取り方を知らなかった。
そして、そういった「言葉にできる以上の何か」に直接感性を揺すぶられることこそ、アートがくれる最大の糧なのだと、やっと思えている。
この小さな世界をたのしめるようになったのは、わたしが、分からないながらも好きなもんは好きだと、芸術(と呼ばれるもの)にいろいろ触れてきたからだと思う。思ってもみないところで感動したり、やっぱり好きだなぁと心から思えるものを見つけたり、腹が立つほど嫌いなものと出会ったり、そういうことを積み重ねて、やっと、これまで知らなかった「たのしみ方」を習得した。気づいたというより、習得した、というほうがしっくりくる。
最近はなんでもすぐ手が届くようになって、楽に、簡単に、短く、「分かりやすい」ものがどんどん増えてきている。「よく分からないもの」は難しくて面倒だと思うかもしれない。でもそれは、決して「嫌い」とイコールではない。「分からない」の拒絶を「嫌い」と結びつけてしまうと、そこで全て終わってしまう。もしかしたら、たのしみ方を知らないだけかもしれないのに。
よく分からなくても、いろんなものに触れていきたい。結果、やっぱりよく分からなかったり、好きじゃなかったりしたって構わないから。
ひとつ間違いないのは、「よく分からない」まま放っておいたものと、いろんなたのしみ方があるのを知った上で自分には合わない、というのは、全く違う。作品への、それを好きな人への尊重の気持ちは、後者でないと生まれない。
自分で見て、聴いて、感じて、考えて、初めて気づける(または習得できる)ものが、きっとある。知らないをたのしみ、分からないを受け入れることが、わたしにとって、そのひとつだ。
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