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会いたい文字

字にはその人の性格が表れる、とはよく言うものの、果たして本当にそうなのだろうか。そんなことないと思っているし、そうではないと思いたい。自分の文字遍歴に、後悔があるので。

中学生のとき、少しお姉さんの従姉妹と文通をはじめたことが、わたしの文字人生を狂わせた。
当時、平成も半ばごろ。プリクラが飛躍的進化を遂げ、プロフィール帳なるものがコミュニティ参加の必需品となり、「可愛い字が書ける」ことが女子の憧れ(またはカースト上位女子の必須スキル)となった。十代女子向けの雑誌には、人気モデルたちの手描き文字の特集が組まれ(みんなも真似してみよう!)、関東近郊でありながら流行がひと波遅れて訪れる片田舎に住んでいたわたしにとって、従姉妹のお姉さんの「綺麗な文字」ルールから完全に逸脱した時代の最先端をゆく字は刺激的だった。このスキルをわたしが誰よりも早く身につけ、今ドキ女子ステータスを獲得してやろう、というマウント意識がなかったといえば嘘になり、文通という入手できるサンプルの多さを利用して、わたしはそんな今ドキ文字スキルを身につけていった。数ヶ月で見違えるほどの変化があったので、今考えるとなかなかの吸収力である。その熱意があれば、けっこうなんでもできる類のものだったかもしれない。
こうして、「小学生の時はあんなに上手だったのに」と母が嘆く程度に劇的変化を遂げたわたしの字だが、自分の文字美意識にうっすら疑問を持ちはじめた頃、文通をやめて久しい従姉妹から届いた年賀状の字が、「普通に綺麗な字」になっていたのを見て、全てが打ち砕かれた。ああ、そうだよなと思った。こうして、数年の時を経て、わたしはまた文字人生をやり直すことにしたのである。なかなか完全には拭い去れない癖を残して。

上手とか下手とかいうより、「これが自分の字」という感覚が未だ曖昧なので、「それでわたし自身を判断してもらいたくない」と思ってしまうのだろう。コンプレックスとまではいかないが、魅力的な文字への憧れは強い。

「この人に会ってみたいな」と思わせる字とたまに出会う。わたしにとってのそれは、上手な字、というのではなくて、絵を描くように書かれた文字だったりする。(実際絵描きの文字は好きになることが多い)
綺麗な文字のルールとかそういうこと以上に、「その人が何を好んで生きてきたか」が字に滲み出ていると、どんな字でも好きになるし、この字を書いた人はどんな人だろうと、会いたくなる。
『和田誠展』は、膨大な作品と共にある和田さんの人生を、作品と共に辿れるよう展示されていた。本当に小さい頃から「絵を描くこと」と「字を書くこと」が人生の中に組み込まれていて、寝て起きて食事をしてお風呂に入って人と喋って、そういうことと同列に「絵」と「字」があったのだなと思った。そんな人の書く字は(数々のデザインの傑作としての字だけでなく、全ての字が)当然のように魅力的で、わたしの胸に、ああ、この人に会ってみたいなという思いが滲んだ。そうやって、たくさんの人が「この人に会ってみたい」と思ったからこそ、たくさんの人とかけがえのない仕事をしてきたのだなと思った。

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