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合掌、鑑賞

1月半ばからさすがにあらゆる行動を控えていたのだが、『空也上人と六波羅蜜寺』展のポスターを街中で見る度に「これに行けなかったらわたしの中のわたしがグレるぞ」という焦燥感が積み重なっていった。泣くほど美術館に行きたかった。3月も半ば、平日のみで美術館を解禁することに。

「浮き足立つ」とはよく言ったもので、楽しみなことに向かう足取りは本当にいつもより浮いている。上野公園をいつもより足ばやに歩き、準備万端で会場に入る瞬間、ウッと目頭が熱くなってしまった。良かった、これでひとまずグレないで済む。

空也上人は平安時代中期の僧侶で、修行をしながら各地を遍歴し、途中困った人を助けたり橋や道路を整備したり、とにかく皆から慕われた方だそう。当時京都で流行り病が蔓延したが、疫病がおさまり世の中が穏やかになるよう、祈り、十一面観音菩薩立像を造像。そして西光寺(今の六波羅蜜寺)を創建した。その空也上人立像が、半世紀ぶりに東京へ。今、この時に会うべき方なわけだ。

去年はよく美術館に行き、特に下半期はほぼ週一で行っていたので、少々久しぶりに、改めてこの感覚の大切さを噛み締めた。
趣味は大事というが、その実、とにかく一心にその物事に集中できる時間と空間が、大事なのだろう。マインドフルネス、一種の瞑想行為。媒体はなんでもよくて、ごはんでもスポーツでも映画でもなんでも成立する。
『空也上人と六波羅蜜寺』展は、東京国立博物館の本館ワンフロアでの展示のため、これは隅から隅まで満喫しなくては、と気合いを入れて臨むこととなった。これが良かった。

空也上人立像は、運慶の四男、康勝の作。空也上人が念仏を称えて歩く姿を写実的に表した像とされ、実物を見ると、その繊細な表現に驚く。
痩身の僧が、首から鉦を吊るし、左手に鹿角杖を持っている。開いた口から現れ出る、六体の小さな阿弥陀立像。画像で何度も見てきた様子は、ここまで。
小柄な身体を支える脚は肩幅に開かれ、アキレス腱の筋がくっきりと見える。履いている草鞋は薄く、はみ出た足の指十本でぐっと地面と掴んでいる。鼻緒も細く、痛みや寒さに耐えながら、強かに歩む様子がそこからも思い浮かぶ。顔を少し上げているため首のうしろには皺ができ、浮き出した鎖骨、張り出した頬骨からは、鍛錬された骨と筋肉、そこに張り付く削ぎ落とされた皮膚の質感を想像させる。少し曲がった腰、ごく質素な着物の裾にできた皺は生活を思わせ、背中に食い込むたすき掛けには苦労と切なさを感じてしまう。そんな削ぎ落とされた身体の中で、左腕に浮き出た太い血管。これが、この人の生命力、血潮、鼓動を生々しく浮き上がらせ、この人は生きていたんだな、と思わせてくれた。薄く開かれた瞼の奥に光る玉眼の瞳が、ライトに照らされキラリと光る。世界を憂いたまま、時が止められてしまったようだ。瞳が世界を憂い続ける限り、身体で祈り続ける、そんな姿。

絵画、作品は、実物でなければ絶対にだめだと鑑賞を重ねる度に思うわけだが、
自分で確かめながら見ていかないと気づけない詳細な部分、そして何より直接見なければ分からない質感、それらを自分の意思で落とし込み、自分と対象との間に時を超えたものを(意識せずとも)感じることに、意義がある。非日常をその瞬間だけでも掴み取れれば、だいぶ、自分が大丈夫になる。その瞬間を掴み取る手段が、人それぞれの、趣味と呼ばれる好きなことなのだろう。

「没頭」というものはわりと訓練が必要で、集中するってこういうことだったっけ〜と思いながら、なんとか意識を集中させた。怠け者のわたしは、すぐ日々をのうのうと生き、様々なことを取りこぼしてしまう。
そんな日々の意識のスイッチを(少なくともそこにいる時間は)切り替えることができる美術館は、わたしにとっては駆け込み寺みたいなものだ。心の中で手を合わせ、ありがたく鑑賞させていただく。合掌。もう、街中でポスターを見ても、わたしの中の不良少女が暴れ出しそうには、ならない。助かった。

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