空間と人
浩介と短い言葉を交わすと、私たち三人はまた息を合わせたみたいに自然と元の場所に戻り、しばらくはいまの喧嘩の原因が、あの一羽がテリトリーを侵したからなんじゃないかとか、空はこんなに広いのにテリトリーがあるなんて人間と同じだとか、しかし空はいくら広くてもやっぱり巣は木に作るしかないんだから空の広さはこの際関係ないとか、道路みたいに入り組んでいるところより何も障害物のない空の方がかえって逃げにくいのかもしれない、なんて話を綾子も入ってしていたのだけれど、私は私で、一人でこの部屋にいるときに外を見ていることが多いけれど、そのあいだももしかしたら私以外の誰かの視線を仮想しながら見ていて、その私と同じものを見ている視線に向かって話しかけているのかもしれないというようなことを考えはじめていた。
この部屋から見える外の様子は、風景と言えるほどの一般的な面白さはないけれど、それでもやっぱりここに住んで時間が経つにつれて、去年の秋ぐらいから何かしらの面白さが感じられるようになりはじめて、それから私はずうっとここからの眺めを退屈しないで楽しんでいる。
それはつまり同じ外の様子を毎日眺めつづけた時間か行為の蓄積が自分の中のもうひとつの視線になったということで、その蓄積と言葉を交わすようにして見ているということなのかもしれない。何しろこの家の中でも二階は一階ほどには一日のうちの長い時間を人がいたようなところではなくて、伯父や伯母が二階を普通に生活空間にしたことはなかったし、従姉兄たちにしてもここから私みたいに毎日外を見るなんてことはしていなかったはずだから、私が言葉を交わしている視線はかつてここに実際に住んでいた人たちの視線ではないのだが、こうして私に見えている外の眺めはこの家の二階のここにある眺めであって、それは動かしようがない。
人が空間の中に生きているかぎり、空間と何らかの折り合いのつけ方をしているわけで、「私」という特定の主語がここからの眺めを見ているのではなくて、私でなくても誰でもいい誰かがここからの眺めを見るという、そういう動作の主語の位置に暫定的にいるのがいまは私なのだという風に感じられることが、空間との折り合いのつけ方のひとつなのかもしれなくて、それなら自分の中に蓄積された時間や行為という考えは少し単純すぎると思った。
外の空き地の向こうに立ってこの部屋を見ていたときに、そうしている自分が部屋の中にいる自分から見られていると感じたのもそのバリエーションで、つまりはあのとき私は部屋の中にいる自分に見られていたのではなくてこの部屋そのものから見られていたということなのではないかというようなことを、ゆかりと綾子の二人がカラスの話をしている時に考えはじめていたのだが、込み入っていたし、浮かんできた考えも断片ばかりだったので、こういう形にまである程度整理がついたのは、三人が階下に降りてからだった。
(『カンバセイション・ピース』保坂和志、新潮文庫、p201-203)
啓司は立ってリビングと和室の境いまで行ってサッシのガラス越しにゆかりがバーベナを植えているのを見た。チューリップの隣りにマリーゴールド、その隣りがいま植えているバーベナで、ラベンダーはその三つを囲むようにL字に植えられていた。さっきと違ってこうして花が並ぶと、しゃがんで土を弄っているゆかりが土いじりをしている子どものようには見えなくて、ゆかりという特定の人間でもない、猫の額ほどの庭を丁寧に心をこめて手入れして園芸しているどこにでもいる女の一人でしかないように啓司には見えた。マンションのようにどこにでもある部屋割りの家と違い、こういう一つ一つ特徴のある一軒家というのは、その家と庭に合った暮らし方や楽しみ方を作り出す引力みたいなものがあるんじゃないかと啓司は漠然と考えた。
(『残響』保坂和志、中公文庫、p157)
カンバセイション・ピースを読んでいたら、残響の場面を思い出す文章に出会って、抜き出してみた。
それぞれ2003年、1997年の刊行。
どちらにもゆかりという名前が出てくることは比べてみて気づいた。