とある彫金師に指輪のサイズ直しをしてもらった話。
ひょんなことから、サイズが合わなくなっていた指輪を直してもらえることになった。
直してくれたのは人の紹介で出会った”あきはまさん”という彫金師。
私は彼の自宅兼工房にお邪魔して、図々しくもワインを飲みながら美味しいサラダをご馳走になっていた。
ふと作業場にあるリングゲージ(指のサイズを測る道具)が目に入り、何気なくいくつかの輪に指を差し込む。
「今つけてる指輪、ぶかぶかなんですよ。おかげで何回もなくしちゃってるんですけど、不思議なことに毎回ちゃんと戻ってきてくれるんです」
今年の2月からつけている指輪は、この半年ちょっとという短い間でなぜかするすると抜けるようになってしまったのだ。
買った時にはしっかり店員さんにも確認してもらったし、自分でも違和感はなかったように記憶している。
実際に少し痩せたのとむくみ体質だからとわざと余裕を作っていたのはあるが…
見た人には十中八九「それにしても大きすぎるだろう」と言われてしまうほど、私の指には合っていなかった。
(後に聞いた話だと、せいぜい1号程度だろうと思っていたサイズ差は実際にはほぼ3号分も違っていたらしい)
「ほんとだ、全然合ってないね。ちょっと外して見せてみて」
言われるままに指輪を渡すと、彼は数秒それを観察して言った。
「これならすぐつめられるね。これも何かの縁だし、せっかくだから直してあげるよ。」
「え?そんなことできるんですか?」
今思えば彫金師なのだからそれくらいお茶の子さいさいだと気づいても良かったようなものだが、何も考えていなかった私にとっては想定外の提案で、目から鱗だった。
「嬉しい!ありがとうございます!」
もちろん断る理由なんてなく、とびきり贅沢なご厚意に喜んで甘えることに。
しかし正直、心は複雑だった。
サイズ直しの具体的なやり方は知らない。ただ『一時的に指輪を傷つけることになる』ということだけは理解していて、今からそれをやるのかと思うと妙な緊張感に包まれた。
しかもそれを目の前で見届けるのだ。
つらいなら見なければいいだけの話なのだが、純粋に興味をそそられたし、何よりもなぜか見届けないといけないように感じた。
この想いは最後まで口に出すことはなくずっと明るく話せていたつもりだが、笑顔の裏では決して大げさではなく吐きそうな感覚すら覚えていた。
あきはまさんが糸鋸を手に取り、慣れた手つきで指輪の一部を切断し始める。
実際に目の当たりにした時の衝撃は大きく、みぞおちのあたりが圧迫されているような重苦しさを感じた。
次の工程に移る度に、あきはまさんは丁寧に説明してくれた。
切断して隙間ができた部分をぐっと寄せ、小さくカットされたシルバーを溶かして再度くっつける。
火に当てられる指輪は赤く染まり、私はそのあまりにも妖艶で美しい光景から目が離せなかった。
指輪の熱が消えるのを待ってから、繊細に磨いていく。
溶けたシルバーが凸凹に貼りついて醜くなった表面は、あきはまさんの手によってみるみる綺麗になっていった。
仕上げに重曹をつけた手で指輪をこすり、水で洗い流して終了。
指輪の完成と共に気持ちが落ち着いた私は、お皿に盛られた重曹が当然のごとく置かれている彫金師のキッチンが妙におかしく感じて、思わず笑ってしまった。
「はい、完成。つけてごらん。」
受け取ったその指輪ははかったように、いや測っているから当然なのだが、驚くほど気持ちよく私の指にはまる。
当たり前なことのはずなのに、なぜかひどく不思議に感じた。
まるで初めて目にするものであるかのように指輪を眺める私に、あきはまさんが言った。
「こんな風に直した金属はね。
ついているモノが火で浄化されて、生まれ変わるんだよ。」
*
今年の2月に買った指輪。
買ったと言っても、実は自分で買ったわけじゃない。
その時付き合っていた彼からの誕生日プレゼントだった。
私のリクエストに応えて買ってくれたもので、婚約指輪なわけでもサプライズでもらったわけでもない。
カップルにとっての指輪といえば特別な贈り物のように感じられるかもしれないが、私は別に『彼からの指輪』にこだわっていたわけではなく、その時たまたま一番欲しかったものがバッグでも時計でもなく指輪だっただけのこと。
だから別れた時も「元彼からのもらい物だから」という理由で捨てようだなんて考えは、微塵も頭をよぎらなかった。
その人は長く続かない私が唯一1年以上付き合った相手で、別れた理由もお互い嫌いになったからではない。
一緒にいて居心地は良かったのだが、いつからか傷のなめ合いをしているような関係になってしまっていた。
…もしかしたら最初からだったのかもしれない。
このままでは自分も相手も成長することから逃げてしまうと感じ、私から別れを告げた。
未練はない。
今では恋愛感情だったのかどうかすらわからない。
弱い私だから、自分を肯定してくれる存在として縋っていただけなのかもしれない。
ただ、指輪が外れそうになった時には、ほんの少し、その人のことを思い出していた。
ただ、それだけ。
*
燻されて細工の溝が黒かった指輪は、再び火に包まれたことにより真っ白に生まれ変わって私のもとへ返ってきた。
「燻して同じようにすることもできるけど、今はその状態が合ってるんだと思うよ。」
そう言ったあきはまさんには、この話をしていない。
別に言うつもりも文字にするつもりもなかったのだが、キラキラと眩しく光る指輪を見る度に心が揺さぶられて、言語化したいという欲が自然と溢れ出してきた。
毎日金属と対話しているこの彫金師は、指輪から何を汲み取ったのだろう。
彼に真意を聞くつもりはない。
私はただ、いま私の指にぴったりと巻き付いているこの真っ白な指輪が、これからどんな風に染まっていくのか。それが楽しみで仕方ないのだ。
(photo by kanki)