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ネットワーク・レガシー

遺産というものは普遍的である。

と、考える。
不必要になった書類を当然のように処分した結果、ある歴史が平然と失われた、と言っても過言ではないように。
歴史的価値の高いメモとか雑記とか、必要に迫られて処分した恐ろしい価値を持つ。
書類や資料は多いだろう。復刻なんてできもしないし存在すらわからないものもあるし。
ただそれは未来の学者からの観点であり、我々は平然とその道を選ぶ。
時には災害や意図せぬこともあるだろう。


今の時代になると、それはデジタル化されて
管理もしやすいし処分もしやすいが、取り戻すこともある程度可能になった。
でも、維持し続けるのが難しいのは、今も昔も同じなんだろうなあ。
なんて思ったのは、いろんなネット上のサービスが大量に始まる一方、サ終(提供終了)もまた星の数だけあるということから。


思えば、平成生まれの私たちの世代はネットの発展とともに育ってきた。
ダイヤルアップの音を聞きながら、やたら長いダウンロードと戦い
電話が通じないからと親に怒られたり
学校のパソコンルームやお金持ちの友達の家でフラッシュを見たり
そうして、中学時代になると自分のフリーメールアドレスを取得し
今はもうない「ぱどタウン」とかいうコミュニティサイトに登録したり
ハムスター島サイト(だったっけ?)を作るためにHTMLを独学で学び。
今では数クリックでサイトを持てるけども、HTML面倒だったよなぁ・・・

自分は中学時代にはじめてブログを持っていた。「フルーツブログ」というやつで
クラスの女子はだいたいそこを使って、あれこれ書いていたけど
今はもうそのブログのサービスは終了していて、あの時に書いた日記は
遺跡にもならず、跡形もなく消えてしまったようである。
今にして思えば、かなり価値のある電子データだったんだけど、入手するすべはない。


遺産(流行りの言葉でレガシー)は膨大な数あるだろう。
インターネット創世記から今日までの、MIDIが鳴り響きアイコンが揺れやたらキラッキラした
黒歴史みたいな遺産がそこには大量に埋まっているからだ。
ネットワークがさも空気同然になる時代はきっと遠くなくて
その時に、歴史の資料としての価値があるサイトは、サルベージしても救いきれないほど
深く深く、消滅と存在の境界に浮かぶのだろう。浮かぶどころか沈んでしまうだろう。

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