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デミロマンティック?再考

いまとても興味がある友人と朝から笑って過ごしながら、
「この人のことをもっと知りたい(かもしれない)」という薄らとした欲求に駆られる。

そういえば何も知らない、私以外と歩んでいる人間関係も。興味があるものも、好きなものも。いやなことも、何も知らない。でも、穏やかにどうでもいいことを延々と話せる。変に強い気を使うこともなく、難しい配慮もない。

あなたは、誰と過ごしているときもこういう人なのかな。それとも、違うのかな?でも、聞いてる話、当然怒ったり苛立ったりしやすい相手もいるらしい、私の前では見たことのないそれは想像がつかない。

ただ、「みなかみといると刺々しい状態がふっとなくなるんだよね」と言ってくれる。私もそう思っている。
今の私にとって唯一のちょうどいい温度でほっとできる相手だ。その事実だけは間違いない。別に私に苛立つことがこれからあったってかまわないけれど、刺々しさをみせることだってたまにはあっていいと思うけれど、ただ今の事実がそれだけで。だからそれだけでいいんじゃないかと思う。

だから、ただ日常の一部をともに過ごしてる時間が、うれしい。
だから、この人とどうなりたい?と聞かれても絶妙に思い当たらない。今の関係を無理に崩したいとも思えない。

ちょうど良い位置でありたい。お互いにとってちょうど良い位置にありたい。ちょうど良い位置は名前のつけられない距離感かもしれない。名前のつくことがあるかもしれないし、ないかもしれない。
いまのままでともに過ごせて、少しずつ知って、できるだけうれしいと思える時間が長くなっていったらいい。私も相手もそう思えるのだったらいい。今のところ、お互いにそう思えているらしいから。

ちなみに私はもともと、あまり人に深い興味を持たない傾向もあって、この欲求はほとんど起きえない。
(推しは私が勝手に興味を抱けるし勝手に離れられるから良いよね。)

でも近しい人間は、知り尽くしてしまったあとに、相手が過剰に寄りかかるようになってきたり、常に刺々しい面を見せてきたり、もしくは知らないままでいたりすることで、「なんか違うな、しんどいな」となって話す頻度が減った相手も多い。それはさみしいことだ。でも仕方のないことでもある。

そしてこの欲求は物凄く薄い。意識しなければ消えそう。
こんな変な距離感をちょうどいいと思う私に、「なんか好き」って思ってくれるのがうれしい。
だから、今の私はあなたといて毎日うれしいって、そういうことを伝えていきたい。
今までの人間関係でも、こういう気持ちはいつの間に消えてた説はあるよなー。外界のはやすぎる関係構築の速度に追いつけないまま、消えてった私の気持ちのすべてを、今きっと取り戻しているのだと思う。

なにせ、ここ最近はずっと「アロマンティック=ない」可能性を探していたから、「ある」可能性に思い当っていなかったんですよね。探してみます。「ある」中で、私の大事にしたいものを。

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