知るのって楽しい|知らなくていいこともある
好きなこと・もの・人にのめりこむタイプ故、
無意識に情報をくまなく回収しようとしてしまう。
頭がそのことばかりになる。熱中しやすい。
どんどん知るのって楽しいよね。
でも、疲れる。
知れば知るほど知らないことが少なくなり、見たくもない嫌な部分を見ることになることを幾度もの経験から知っている。どこにだって嫌な情報はある。同じように嫌な人もいる。文句を言うのも否定するのも検索するのもなんでも知るのも簡単なことだ。
また、知りすぎるともうその先がなくなり、どうでもよくなることもある。好きだったのに、無関心で、どうでもよくなることはさみしいことだ。
だから実は、知らなくていいことは知らなくていいのかもしれない。
でも人間の欲は留まることを知らない。知識欲も同様だと思う。
好きだから知ろうとする。知りたくなる。
そういえば私が小中学生だった2000年代は、まだ、情報を得るのが大変だった。
友達のことも、趣味のことも、推しのことも、世界のことも、なんでもを簡単に知るのはまだ、難しいことだったように思う。
いまの時代は、人の身には過ぎた情報量が簡単にすぐに手に入る。
2020年代に生きていると、兎角そう思う。
ものごとを知らないふりをしたり、情報の洪水をあえて留めて抑制したりと、
そういう相反する努力もまた、「好き」を継続させると思っている。
だから、「脳みそお花畑」などと世間では揶揄される、
「好き」に対する「全肯定に見える振る舞い」を、私はそういう風にわざと起こしている。
自分からどうしても肯定の言葉が出なくなったら、そこでお終い。
知りたい気持ちは消えてしまったってことで、あたらしいものを探しに行く。
好きだから、なんでも知りたいけれど、
好きだから、なんでもは知らなくていい。
好きだから、いろんな言葉がでてくるけれど、
好きだからって、なんでも言っていいわけではない。
花畑は理想だ。理想だからそうしてるんじゃないか!
時間は有限で私たちの精神力も有限だから、知らなくていいことを知らないでいる努力をしているだけである。
知らないから、きれいなんだって。
好きだから、犯罪のような悪さをしたんじゃないなら、「いいね」って言いたいじゃん。
否定ばかりの世の中で、「いいね」って言われたいじゃん。
だから、なぜか自分が「いいね」ってうまく言えないんだったら黙るだけでいい。
いつかまた、言いたくなる日がくるはずだ。
「脳みそお花畑」だからって、なんでも全肯定で、本当にお花畑なわけないでしょ!って話でした。