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検索生活で無くしたもの

インターネットは検索の代名詞になり、検索といったらインターネットです。スマホとインターネットの組み合わせは、私たちの思考回路を変えて行きました。世の中はいつの間にか、検索で済まされるようになって来たのです。例えば、「明日、朝6:30までに羽田空港に行く」という場合は、私の家から羽田空港までの行き方は、横浜駅から京浜急行で行く、横浜駅から空港バスで行く。浜松町からモノレールで、最悪、川崎駅からタクシーなどと何通りかあります。もしものことを考えて、全てのルートの時刻を前日までに調べておきます。調べ方は、駅に行って時刻表をめくりながらメモします。これでもう一仕事です。今だったら、手のひらの上で、しかも歩きながら、検索画面に「横浜駅から羽田空港 時刻表」などとフレーズを入れると、出発時間と到着時間とそのルートが一瞬で表示されます。今まで一仕事だったことが、ついでに、ながらで出来るのです。昭和に生まれ、ネットの世界もそうでない世界も知っている私は、最近これって豊かなことなのだろうかと思うようになってきたのです。

レストランを見つけるのも検索で見つけます。今はそれが当たり前のようです。検索されて出て来たお店の、どこの誰かもわからない人たちがつけた点数を見てお店を選びます。先輩に連れて来てもらった店や、新しい店を開拓しようなんてまどろっこしいことはしません。自分の勘に頼るとか、勘を信じるというようなことを忘れてしまっているみたいです。検索で見つけたお店に行ってわくわくするのでしょうか。お店で食事をして豊かな気持ちになるのでしょうか。

本はスマホで検索して買うようになってしまったのではないでしょうか。検索は一瞬で探している本をスマホの画面に表示します。あとは「購入」のボタンを押すだけで、明日には手元に届きます。街の本屋に行って、本を探す楽しみを無くしてしまいました。スマホで本を買う楽しみは、少しでも安く早く買うこと変わって来てしまいました。本屋で探している本が見つかったときの達成感もさることながら、その本の周りにある面白そうな本が目に入ります。検索して目当てのモノを簡単に見つけるよりも、豊な気持ちになりると思います。

私の学生時代、知らない言葉が出てくると「辞書」で調べました。辞書に各メーカーもいろいろ特徴があり、勉強が出来る人と同じ辞書を買ったりしました。「辞書で調べる」という宿題もありました。今思えば知らないことを辞書で調べて知ることは、豊に生きる智恵の一つだったと思います。知らない言葉を辞書で調べるには、重くて、いったい何ページあるのだろう分厚い辞書を取り出し、薄い紙を何回もめくり、ページにぎっしり詰め込ままれた小さい字を追って、知らない言葉を探します。その言葉が見つかるまで、いろんな知らない言葉も一緒に見てしまいます。知らない言葉が見つかるまでに時間がかかります。辞書に慣れている人は調べるのが早いです。調べるスピードも人によって違います。見つけ方も違うでしょう。そして、一つの言葉を知るまでに、その他のいろんな言葉も知ることになります。このとき、今は必要でなかった言葉が、自分の余白に溜められて行くのだと思います。そして、「そういえばあのとき近くにあった言葉だ」と思うときがあります。意外と余計なとは覚えているものだと思います。人間の脳は面白いです。辞書で調べることは検索でなく「並べ替えの世界」なのです。街の本屋で本を探すのと同じです。辞書は決められたルールで言葉が並べられています。辞書を使うことは技術です。職人技と言ってもいいでしょう。わたしたちは人生を豊に生きる職人です。辞書で調べることは人生を豊にしました。

スマホとインターネットの最強コンビの前に「電子辞書」があります。高校生くらいになる買うようにすすめられます。電子辞書はポケットに入る軽さと大きさで、その一台に重たい分厚い国語辞典、漢字辞典、英語辞典、類語辞典など何冊も入っています。電子辞書を使う習慣がなかった世代は、重い辞典が何冊もポケットに入り持ち運べるのは画期的な道具だと思っていました。電子辞書で知らない言葉を調べるには「検索」をします。あいうえお順に並べられたページをめくって探すのではありません。電子なのでコンピュータです。コンピュータなので知らない言葉は一瞬で見つかります。アットいう間の出来事です。当然ですが、検索していない余計な言葉などは一切出て来ません。辞典世代から見ると、電子辞書は一見便利ですが、なんか物足りないなさを感じます。うがった見方かもしれませんが、知りたいことをスピーディに見つけることに得があるのでしょうか。こういう類のスピードは人生を豊にするのでしょうか。

検索には自分自身が面白くなくなってしまう副作用があるような気がします。余計なことや無駄な情報は入って来ません。検索で見つけたものはその場で終わりです。自分の中に残りません。私たちは検索生活を続けていくうちに、心の余白が無くなってしまったのではないでしょうか。人間の脳は、その時必要ないことは捨てるのではなく、自分の余白にどんどん溜まって行くと思うのです。その余白は人によって違うでしょうし、余白に何が書かれているかが、その人の人柄のような気がします。余白というのは言い換えると「ゆとり」です。検索生活は、私たちがスマホで検索するたびに、私たちの心のゆとりを減らして行っているような気がします。

検索生活で余白のないつまらない人間になっていくのではないかと思えてきました。そこで
、手書きの手帳を復活させることにしました。スケジューリングは自分の未来を自分の脳で考えることです。スケジューリングで私たちは「人と会うこと」を考えます。そして、誰かをよろこばすことを考えて、手帳に書きます。そのとき使う手帳は、自分の人生を豊かにする大切な道具だと思います。

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