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卒業式ができなくてかわいそう、ってホント?

「卒業式が普通に出来なくて可哀想だよね」

という声にずっと、どうしても同意する気になれなかった。


なんでかな?と、考えたところ、まあ、自分が当事者だったら、

「卒業式なんかなくてもいいじゃん!ラッキー!」

と思うだけなこと確実なのがまず大きな理由。


今どきそんなにみんな学校に愛着があるのか?という疑問もあり。
 

卒業を祝ったり、ねぎらったりする気持ちは

もちろんあるし、そこそこわかるつもり。


しかしそんなに残念がるほど

卒業式に意味を与え感動するものとして

位置付け、定義づけちゃっていいのか?とも思うんだよね。


明日も同じ日が続くと思っていたのに突然ゼロになる!

というショックがあるのは当然だと思う。


その反応は正しいし、

その気持ちを大事にしていいし

それはきちんとケアをすべき!されるべき!
 

でもそのケアが、

「かわいそう」で始まるのは

やっぱり違うくねーか?と思うのよ。


確かにね、

一番には、友達にもう会えないとか

お世話になった先生に挨拶できない残念さとかが

あるのだと思うんだけれど


でもさ、そこまで残念に思うなら

時間を作り、会いたい相手に

時間を作ってもらって

会ったらいいだけじゃん。


会うことができないなら

お手紙書いたり、それこそ

オンラインで地球の裏だって顔見て話せる時代よ?


もしも、そこまでするまでもないんだけど。。。と

思えるならばそれは、降参するところだね。


つまり、自分にとっては

ついでがないとわざわざ会おうと思わない

相手なのだということを認めなければいけない。


ついでや外付けの理由がないと

サヨナラやありがとうやまた会おうを伝えられない相手だとしたら

それはあえてする必要がない相手なのだということなんだと

(相手に価値がないと言う意味ではない!!!)


そして実は、これは

素晴らしいチャンスをもらったってことだと言ってあげたらいい。
 
誰かのオススメでなく、

こうしといたほうが今後のなにかに有利とかでもなくて


自分が会いたい、伝えたいという自分のものさしだけを信じて

価値を見出して、行動すればいい!

その許可が全ての人におおっぴらに出たのだと。


自分の大事な時間とお金をかけて

相手の大事な時間をいただいて

本当に会いたい人と

本当にしたいことだけとを見極められる時なのだと


そしてそれ以外のことは今までのように、

しがらみで責められることなくきれいさっぱり手放せる

そんなすっっっごい超断捨離のチャンスなんだと

教えてあげたらいいんじゃない?


逆に自分が相手である誰かにとって

必要のない相手であると断捨離されることも

OKを出す必要があるけど。

お互い自分に誠実にさ♪


今までの私たちは、溢れる情報の中で

大事なものを選ぶ時間も基準も

麻痺してわからなくなりながら

たくさんのいらないものを身体中に引っ掛けて

どこも目指せずにぷかぷか浮いてたわけさ


それら全部を洗い流して、身体一つで

始めることができるっていうね!


それを、強制的にリセットされたと

受け身を使って表してしまうと、それは

自分の力では何もできない

翻弄されるだけのただの被害者になってしまう。


自分の力が及ぶ余地がなくなってしまう。

それはもう過去の価値観だと思うんだなぁ。


もちろん、全部自分で選びつくすのが

素晴らしいという訳でもない。

そんなん疲れちゃうし不可能だからね。


だからこそ、偶然やたまたまの

巡り合わせというものも思う存分楽しむ
 
素敵じゃない?

私なら、ニヤニヤしちゃうけどな。


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