音を出すということ 2012-05-07

アレクサンダーテクニークの、シンキングボディ的な問いになるのかどうか、ちょっと迷っている質問があった。

それをいつかだれかに聞いてみたいと思っていたのを、今回の合宿でバジルさんの個人レッスンの時に投げかけてみた。



音というのは、誰かに聞かせたいと思わなくても人の耳に届いてしまう。そういうものを自分が発音するということに以前とまどいを感じていたことがあるのだけれども、どう考えるかと。



5年くらい前、その気持ちをどうしたらいいものかと思っていたことがあって、それでも弾きたいと思う気持ちだけで来てしまったけれど、以前思ったそのとまどいがそのまままだ残っていて、たま~にそこを根っことしたマイナス思考が発生して、なんだかやられちゃったりするのだ。



答えはこうだった。

こういう考えはどう?何かで読んだのだけど、大リーグの投手だったか、自分が球を投げるまでは本当に努力を惜しまず必要なことは何でもし、コントロールもする。だけど、球が手を離れてしまったらもうアウトでもストライクでも関係ないと思うそうなのだと。



あぁそういえば、「インナーゲーム」でも似たようなことが書かれていた気がする。過程を楽しむのだと

自分も、そういった発想はできる方だと思っていたんだけど、まだまだなんだなぁ。

というか、人生は好き勝手に生きてきたと言える自信があるのだが、こと音楽に関すると保守的に融通が利かなくなってしまう。自由にふるまえない何かがあるらしい。



エレキベースを習っていたときに、スケール練習をしながら先生が、人間の手はつかむのは自然にできるけれど、指板から指を放していくのは難しいんだよと言っていたっけ。



何でも、手放すのは難しいんだな。

たぶん、音を手放すまでに手を尽くしきれていないから、もやもやするのであろう。



手を尽くしきる、というのが現在の自分にとってどういう状態なのかというのもはっきり説明できないのではあるが。

これがアレクサンダーをやっていることで、間接的に解消されていくものなのかどうかは不明な点であるが、とりあえず気にしてはおくことにしよう。

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