夏は海でバカンスする人になりたいーエリック・ロメール〈喜劇と格言劇〉シリーズを観てー
はじめに
2021年はエリック・ロメール監督特集上映として〈六つの教訓話〉シリーズが全国各地で上映された。私も〈六つの教訓話〉シリーズは全部観て、自然美と物語の豊かさに感動した。そのレビューも書いてはいるのだが、『モード家の一夜』が手強い。なぜならパスカルの『パンセ』を読まなければ適切に書けないからだ。そのため完成に至っていないため、同時に公開された〈喜劇と格言劇〉シリーズのレビューを先に公開することにする。
なんだか消極的な理由と思われるかもしれないが、正直に言えば〈六つの教訓話〉シリーズより、〈喜劇と格言劇〉シリーズの方が好きだ。それは私の痛いところを突いてくるし、何より物語がより洗練されたものになっているからだ。そして作品ごとに登場する格言が、人生や恋愛の核心を突いており、〈教訓シリーズ〉よりも教訓を得られる。
以下、私が既にFilmarksで公開したレビューを基に、作品の公開順で述べていく。
飛行士の妻
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第1作。
傑作です。1ショット1ショットが美しく、個人的にとても好き。
あらすじを引用する。
フランソワがアンヌの浮気(未遂?)を目撃する理由が、アンヌの部屋の配管工事の日程を告げるためであり、そんなきっかけから物語を始めるエリック・ロメール凄すぎませんか…。
そして尾行の途中で出会うリュシーにあう展開といい、ストーリー展開が滑らかにそして思いがけない方向に進むので終始、魅入ってしまう。
格言は「人は必ず何かを考えてしまう」
フランソワは、アンヌが浮気をしたのではないかと、そして一夜を共にしたのかと考えてしまう。
またクリスチャンが別の女と行動していることについて、フランソワとリュシーは、その女を妻として弁護士のところへいったと考えてしまう。これらの考えは、探偵のように論理的に思考した結果によって導かれたものであるが、女はクリスチャンの妹であり、妻は別にいる。
鑑賞者もそうだ。クリスチャンと同行した女を妻と考えてしまうし、それより前に映画のタイトルを知った直後から、飛行士の妻は誰なのだろうと考えてしまう。
「考える」といってしまえば、主体的に選択した行動のように思える。しかしよくあるのは、出来事が突如到来することによって「考えてしまう」といった中動態のありようではないだろうか。そしてその「考えてしまう」は論理的で合理的ではなく、個人の主観的で感情的な仮定や推論、結論を導いてしまうのではないか。
だからこそ「人は必ず何かを考えてしまう」なのである。
真理をついているし、私自身の訓戒になりそう。そんな格言を美しく映画によって表現するエリック・ロメールすごい。
蛇足1
終始魅入ってしまうのは、アンヌとリュシーが美しいからでもあると思う。
アンヌの部屋にいる姿、嗚呼。
蛇足2
アンヌが愛することと住むことは違うといったけど、なんか分かる。
LoveとLiveは似ているけど、少し違う。なぜ違うか、また違うながらにどのように共存できるかまだ言葉にはできない。
またこのテーマは、「喜劇と格言劇」シリーズ第4作の『満月の夜』でも描かれているので、興味深い。
蛇足3
飛行士の妻が結局写真の中でしか登場しないの面白い。あとリュシーにはボーイフレンドがいたことをどのように考えればいいのだろう。
とにかく終わり方も最高に好き。
美しき結婚
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第2作。
傑作です。最高です。
あらすじを引用する。
格言は、
「夢想にふけらない人がいようか
空想を描かない者があろうか」ラ・フォンテーヌ
まさしくサビーヌの夢想であるがために、純粋で美しき結婚なのである。
そして空想はどんどん膨らむのに、物語でサビーヌとエドモンは赤の他人から友人に発展するだけなんだから面白い。
あとは最初のシーンと最後のシーンが最高ですね。
最初のシーンで、鑑賞者を見事に欺くが、最後のシーンにちゃんと回収される。結局、あれこれ空想を抱くより、一目惚れなんだと、教訓を得ました。「教訓」シリーズではないけど。
他にもサビーヌが、嬉しそうに電話する姿にきゅんきゅんするし、大満足です。
蛇足
オープニングクレジットの時に、クラブミュージックが挿入されていて、新鮮だった。またそれが、物語にとって大きな転換となるサビーヌの誕生日パーティーのシークエンスと繋がっていることにも脱帽です。
海辺のポーリーヌ
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第3作。
傑作です。「喜劇と格言劇」シリーズはどれも本当におもしろい。
あらすじを引用する。
まず物語が展開するノルマンディーの美しい風景が素晴らしい。海のスケールの広さ。ポーリーヌらが海で会話劇をやっている後景には、美しい海そして海水浴を楽しむ人、色鮮やかなヨットの帆がはためいており、画の深さに感嘆とする。もうこの映像美を観れただけで、かなり満足。
けれど物語もまたとても面白い。
格言は、
「言葉多きものは災いの元」クレチアン・ド・トロワ
ピエールは元恋人のマリオンが、プレイボーイのアンリに弄ばれることを懸念する。そしてマリオンに忠告するのだが、それによってマリオンのアンリへの想いは強くなるし、ピエールはどんどん嫌われる。実際ピエールの言っていることは、正しいしピエールは常識人である。
しかしその懸念や忠告は、マリオンに見向きもされないピエールの嫉妬心の表れだから、滑稽だし喜劇化される。
そして恋愛は、〈正しさ〉ではないんだよな。法や社会の規範に則り、公正で合理的な恋愛は、〈正しい〉のだろうけど、それはもう恋愛とは言えないのかもしれない。〈正しさ〉ではなく、己の感情の起伏に身を任せること。未来を思考/志向せず、今、ここに目を向けること。それによって「まったく予期できない何か」であり、燃える恋愛が実現される気がする。まさしくマリオンが言っているように。また燃えないと恋愛と言えないのでは、とも思う。
正しいピエールと逸脱するアンリ。この両者の人物造形が本当に最高。そして現実世界でもアンリのほうがきっとモテるし、恋愛が成就されるだろう。この的を得ている恋愛観を物語で、さらにおもしろく示しているのだから素晴らしい。
あと物語の転換点であるアンリがキャルロットと浮気する〈出来事〉と映し方が面白い。
鑑賞者は映像という視覚イメージによって、アンリがキャルロットと浮気をしていたのが分かるが、ポーリーヌらはアンリの言葉によって〈出来事〉を理解しなくてはいけない。しかしアンリの言葉で語られる〈出来事〉は、アンリに有利にそして主観的なものだから、ポーリーヌやマリオン、ピエールで想起される〈出来事〉にズレが生じる。そのズレゆえに恋愛模様に亀裂が生じたり、新たな物語が展開されるのである。
この視覚イメージと言葉のズレもまた、映画ならではの表現だと思うし、とても面白い。
ポーリーヌとマリオンは美しいし、海辺の自然美も堪能できる。そして物語も映像表現も卓逸なのだから、紛れもない傑作です。
蛇足1
傑作とは言ってもアンリが、ポーリーヌに手を出すのは論外。
恋愛に年齢は関係ないと言いたいところだし、ある程度は妥当だと思うけど、未成年に手を出すのはダメ。このダメには近代的な主体の問題点と限界が含まれている。その問題点は、主体概念において合理的で自立/自律的な成年男性を暗に前提としている点である。未成年にもその前提を駆動させてしまうからよくない。
蛇足2
ポーリーヌ演じるアマンダ・ラングレ、マリオン演じるアリエル・ドンバールが美しい。特にマリオンの水着姿で分かるアリエル・ドンバールのスタイルの良さ。
ロベール・ブレッソンが、俳優らをモデルといったのもなんとなく分かる。映画美の模型としての人物。
確かに美しいと思ってしまうのだが、ジェンダーバイアスが生じているし、ボディー・ポジティブといった運動も現代では進んでいる。
その美しさや意義を理解しながら、刷新しなくてはとも思う。
蛇足3
アンリは恋愛について、言葉で記述することはないだろう。それをやる私。アンリの恋愛が私の手をすり抜ける。
満月の夜
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第4作。
生真面目なレミと遊びたがりなルイーズは同棲している。しかしルイーズが生活に息苦しさを覚えたため、パリで一人暮らしを始める。そこから物語が展開する。
「二人の妻を持つ者は心をなくし、二つの家を持つ者は分別をなくす」
この格言の通り、ルイーズは分別をなくし、レミは心をなくす。
ルイーズはレミに女をつくってもいいみたいなことをいう。レミはその通りルイーズの知人に恋をし、付き合い、ルイーズに別れを切り出す。
なんかこの展開が悲しいなと。ルイーズがこういうこというのって、レミが絶対そういうことできないひとって分かってるからで、また自分の優位性を自覚しているんだよな。それにも関わらずレミに裏切られるのつらい。
ラストシーンではルイーズがレミに別れを切り出され、涙ながらに出ていくのだが、出ていく前に男友達に会う約束するのが笑っちゃう。人間のどうしようもなさが見事に描かれている。
蛇足
レミが自宅に飾っている絵は、ピート・モンドリアンの「赤・青・黄のコンポジション」。レミの性格を体現しているようで素晴らしい。
緑の光線
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第5作。
またまた名作。最高!
『美しき結婚』よりもさらに男女の関係性の発展はなく、独りでヴァカンスを過ごすことになりそうなデルフィーヌが、ないものねだりをしてああだこうだするだけの物語。だけど、物語にただただ魅了される素晴らしい作品。
格言は、「心という心の燃える時よ 来い」ランボー
デルフィーヌは、恋人もおらず、独りぼっちで寂しいと友人には言う。そして寂しさと自分の惨めさから情緒不安定になり、泣き出してしまうほどである。なのに、シェルブールで出会ったいい感じの男には言いがかりをつけて接近はせず、パリで気を持たれた男もあしらう。この恋愛関係が起こりそうで起こらない有り様が本作の面白いところではある。
そしてとにかくデルフィーヌは孤独であることを嘆くが、自分から特段行動もせず、到来する出来事も拒否する何とも痛々しい人なのである。
しかしデルフィーヌの心情もすごい分かる。自分は受け身でありながら、理想の相手が、自分の理想通りに気持ちよく尽くしてくれる、愛してくれること。それは楽だし、好機が自動的に訪れて、「心という心の燃える時よ 来い」と願ってしまうことも分かる。けれど、それは他者の他者性を奪い、消費をすることなんだよな。他者はモノではないし、どうにも挫折する願望である。
それならば、到来する出来事を好機と捉え、それを掴むこと。他者に他者として出会い、関係を創造していくこと。それが心を燃やし、恋愛することを可能にするはずである。
蛇足1
シェルブールでも海のシーンがある。水着姿で海水浴を楽しむ人たちの少し外れで、服を着たまま一人遊ぶデルフィーヌ。その後ろ姿が、とても物悲しい。
蛇足2
ビアリッツのロケーションが最高過ぎる。
青く澄んだ海。大勢の海水浴の観光者を撮ることも、画に深さをもたらすし素晴らしい。
蛇足3
ラストの緑の光線は合成過ぎませんか…
デルフィーヌらが水平線を眺め、緑の光線がみえたというだけで十分だし、緑の光線は鑑賞者の想像に委ねてもよかったのでは…。場所の真正性とは…となってしまった。
友だちの恋人
エリック・ロメール監督による「喜劇と格言劇」シリーズ第6作。
傑作です。オールタイム・ベスト作品の一つにしたいと思います。
4人の男女の恋愛模様を映す作品であるが、不倫といった悲劇ではなく、ちゃんと笑えて示唆深い物語になっている。しかも物語が面白いだけでなく、画もワンショットごとに美しいし、主人公のブランシュをはじめ登場人物は人間味のある愛おしい存在である。また80年代のファッションや空気感も堪能でき、どの観点から観ても素晴らしいそんな作品です。
格言は、「友だちの友だちは友だち」
役所で働いている内気なブランシュは、偶然知り合った女子学生のレアと友達になる。レアには、ファビアンという彼氏がいるが、二人は上手くいってない。またファビアンには、プレイボーイの友だちであるアレクサンドルがいる。ブランシュは、アレクサンドルに恋心を抱くが、内気な性格ゆえに親しくなれない。しどろもどろしている内にレアとファビアンは別れる。するとファビアンがブランシュに急接近する。「友だちの友だちは友だち」が裏返る。友だちの友だちは恋人になる。
ファビアンはレアとの親友関係が破綻しないように、ブランシュとのことを隠す。しかし実はレアは、アレクサンドルと急接近しており恋人関係になっていた。最後のシーンでは、隠しているゆえにファビアンとレアですれ違いが起こる。ファビアンはレアの恋人との話をブランシュとよりを戻した話と誤解するからだ。しかしその誤解もとけ、二人は笑いあう。そしてファビアンとブランシュ、レアとアレクサンドルは別々の方向へ歩き出すのだ。
4人の恋愛感情が交錯する様が本当に軽やかで素晴らしい。そして友だちから恋人になってしまう瞬間、それは意図的なものではなく偶発的なものなんだよな。あと友だちを気にして隠したり、それが悪い方向に向かってしまうこともよくあることですよね。それは人間関係の中で、必然的に、だが偶発的に到来する出来事である。それをリアリズムに徹して映画にすること。この普遍性をもつ物語に魅了される。
また服装で、関係性を表しているのも面白い。特に最後のシーンは、ファビアンとアレクサンドルが緑色の服を着て、レアとブランシュが青色の服を着る。同じ色の服を着ていた同士が物語のはじめの関係であるが、最後には交錯する。この表現と結末の綺麗さに脱帽です。
今みても全く色褪せない物語と映像美。時代性を超えた普遍性が真髄にあるから、〈私〉の核心を突くのである。
蛇足
屋外プールで、ファビアンが這いつくばってプールからあがるシーンが素晴らしいし、笑ってしまう。カットされそうなシーンではあるが、それでも残すこと。それが物語に含みを持たせるし、ファビアンを愛おしい存在にしているんだなと。エリック・ロメール監督は天才。
おわりに
改めて〈喜劇と格言劇〉シリーズには、傑作しかないことがよくわかる。
そして「住むこと」と「愛すること」を分けたい考えにとても共感する。
心を燃やす恋愛をするために、夏は海でバカンスをする人になりたい。