
惣は物と心の惣
(以下は「新世紀エヴァンゲリオン」の二次創作小説です)
「惣流・アスカ・ラングレーです。惣は物と心の惣……お惣菜の惣です。流は流れ。アスカ・ラングレーは片仮名で。はい、午後七時から、二十人。よろしく」
五軒目でようやく席を押さえることができた。すっかり人口が減ってしまった地上で、大人数の飲み会ができる店は限られている。ネルフ本部の異動発令の時期になると、どこも送別会の予約でいっぱいになってしまう。
課のメンバーに送別会の時間と店の場所の情報を共有し、端末からログアウトした。
午後十一時を回っていた。自宅の冷蔵庫に材料まで準備していた自炊は、調達局の打ち合わせが七時過ぎにねじこまれた時点で諦めた。打ち合わせの前に、作戦局の購買で配布される当直者用の弁当で空腹を満たした。味は悪くない。でも一週間毎日同じメニューであることに気づいて、業者を変えた方がいいなと思った。
「火曜日」と声が漏れた。
パイロットの任務から離れた後、火、木と週末はどんなに退勤が遅くてもトレーニングを欠かさない。本部棟のジムは二四時間使えるとはいえ、明日も朝からびっしりスケジュールが埋まっていることを考えると、早めにトレーニングを済まさなければ明日がつらい。それでもジムの日をスキップするという発想はアスカにはなかった。おかげでいざとなれば現場の司令官として動ける体力は維持できている。
その「いざ」が来ないまま、どこからやってくるのか不思議なほどの事務仕事をこなす毎日だった。作戦局作戦一課課長、それがアスカの肩書きだ。ネルフ本部の課長職に三十代前半で就いているのはアスカだけだが、一八歳から作戦局でキャリアを積み、並行して二十歳すぎで博士号も取得したアスカにとっては特別早い昇進ではない。
二十代の半ばで病を得て休職したことが、遅い昇進の一因だった。
作戦一課の責任者といっても、かつての葛城ミサトのように有事の指揮官として立ち回った経験はアスカにはなかった。
使徒が来ないからだ。
十四歳だったあの年、同僚と何体もの使徒を迎撃した後、なんの前触れもなく使徒は出現を止めた。ひと月、ふた月が過ぎるころまでは、たんに使徒の襲撃の間隔が長くなっているだけだと皆思っていた。人びとの心の中に、小さな疑念が芽生え始めたのは、いつごろからだっただろうか。
もしかしたら、もう使徒は来ないのかもしれない。
半年経ち、一年経っても使徒は現れず、白なのか黒なのか、確信できない灰色のままの平穏が長く続くことを、多くの人が受け入れていった。
パイロットにとっては長い待機の日々だった。表面的にはふつうの学生生活を送りながら、放課後はネルフで訓練を受け、定期的にシンクロテストを受け続けた。連絡が入ればいつでも六〇分以内にエヴァに乗って戦闘ができるように行動範囲は制限され、携帯端末での通話はすべて記録され続けた。
高校を卒業する少し前に、シンクロ率が操縦可能水準を割り込み、パイロットを離任した。そのままネルフ職員に横滑りして、おもに作戦畑を点々としながらキャリアを積んだ。
通っていた中学校ではほとんど周知の事実であったことを考えると微笑ましくもあるが、エヴァのパイロットの個人情報はネルフの中では機密性の高い情報である。アスカがパイロットを退任してから入職している課員たちにとって、アスカは飛び級で大学を卒業して十代でネルフ本部に入職した生え抜きエリート、程度の認識でしかない。
理不尽なことがあれば上層部にも臆せず意見する、頼れる上司。一四歳から二十年かけて、そういう普通の人に着地した。アスカはそのことを心地よく感じていた。
もはや特別ではなく、特別である必要もない。
*
スリッパを脱いで、デスクの下に置いていた靴に履き替えて顔を上げると、廊下への出口に人影が見えた。
少年が、こちらを見ている。
少年が体の前で重ねている青白い両腕がまず目についた。目にかかるくらいに伸ばした髪の向こうから、不機嫌そうな眼がこちらに向けられていた。
「シンジ?」
自分でも意外な人物の名前が口をついて出た。彼のはずがない。しかし、それだけの理由はあった。
少年が学生服を着ていたからだ。第三新東京市立第壱中学校の男子用標準服。白の半袖カッターシャツが、黒いスラックスにたくし込まれている。壱中の男子は式典の時以外は一年中その格好だ。かつて自分の一番近くにいた少年が着ていた服。
そして目にかかる程度に伸びた髪に隠された少年の面立ちは、碇シンジのそれに少し似ていた。でも別人だ。
小さい。少年は中学生というにはあまりに幼く、小さく見えた。十歳にもなっていないのではないか。それなのに、壱中の制服を着ていることの不整合が奇異に感じられた。
「君、名前は?」
少年は何か言おうとして口を開いたが、その口から本当に言いたい言葉を吐き出すのを諦めるような素振りを見せてから、一度唇を結んだ。
「ここでは名前を言うことが許されていない」
少年は抑揚のない声で答えた。
シンクロテストの被験者だろうか。ネルフ本部施設に用がある子どもといえば、他に心当たりがなかった。テストの被験者だとしても、こんな深夜に子どもが一人で行動しているのはありえないことだ。
「そう。でも私はここの組織の幹部だから、守秘義務は気にしなくてもいいよ」
「そういう問題ではない。これはこの場での絶対的な制約だから」
「そう、なんだ」
小さな体から発せられる大人びた言葉づかいに、アスカは苦笑した。ネルフに呼び集められる子どもは、どこかそういう所がある。大人の思惑に服従することが自尊心とつながっていることを隠したくて、あえて大人への不信感と敵意を身にまとっている。まさに自分がそういう子どもだった。
「わかった。でもこんな時間に子どもだけ歩かせられないから、一緒に管理室に行こうか。当直の職員がいるから、そこで確認してもらうね」
きっと赤城局長あたりがテストチームに負荷をかけて、こんな時間までテストをさせているのだ。完全な研究開発倫理指針違反。抗議しなければ。
作戦一課の部屋に施錠をしてから、アスカは「こっちよ」と少年に声をかけ、管理室に行くためのエレベーターの方向に歩き始めた。
少年は不満げな表情を崩さないまま動こうとしない。
「どうしたの」
「私は、あなたを連れ戻しに来た」
話が通じない。カウンセリングが必要な状態なのかもしれない。シンクロテストの影響という可能性が頭をよぎった。
二十年も戦闘の機会がない現在にあっても、ネルフはいつでもエヴァを戦闘配備できる体制を維持している。エヴァの操縦はすべてダミープラグによる自動制御に移行しており、現在のネルフにエヴァのパイロットは一人も所属していない。しかし、ダミープラグの操縦精度はいまだ十分とは言い難く、性能向上のための基礎研究として、エヴァ実機を使ったシンクロテストは継続されている。もう来ないかもしれない使徒の襲来に備えて、多くの子どもたちを被験者とするシンクロテストが行われている。このことへの批判は組織の内外から上がっていた。
アスカは廊下のベンチに腰かけ、自らの隣のシートをトントンと指で叩いた。
「少しお話しよっか」
少年は少しためらった後、おずおずとアスカの隣に座った。
「ちょっと待ってね」
アスカは携帯端末を開き、管理室宛てに手早くメッセージを送った。「作戦一課前にて少年を保護しました。シンクロテストの被験者と思われます。不安定な状態と見受けられるため、しばらく現地で休憩させます。お手数ですが監視カメラの映像から少年の身元を照会してください。以上」
「さて、何から話そうか」端末を閉じ、アスカはなるべく柔和な表情を作って少年の顔の方を向いた。
「私を連れ戻しに来たっていうけど、君、私のこと知ってるの」
「惣流・アスカ・ラングレー」
先ほどの電話予約の声を聞いていたか。
「正解。それで、どこに一緒に行こうっての」
「外」
少年はまっすぐアスカを見て言った。
いつかどこかで同じ眼を見たことがあるような気がした。
「碇シンジさんっていう人がいるんだけど、君、彼の親戚か何かだったりはしない?」
「私と碇シンジは法律的な親族関係にはない」
この子はこういうしゃべり方をする子なんだとアスカはひとまず思うことにした。
「あはは、そうか、じゃあ他人の空似かな。君と彼が似てるなって思ったんだけど」
少年が少し驚いたような表情をしたことに、アスカの心は少しだけ軽くなった。
「あなたと碇シンジはどういう関係なの」
少年の質問に、何と答えればよいかすぐに言葉が出てこなかった。
まず、嫌いだった。それだけではないけれど、嫌いだった。
「友達、かな。もうずいぶん会ってないけどね」
「そう」
少年は声を抑えて短くそう言った。
沈黙。
「外ね。いいね、行こうよ。一緒に出よう? 家まで車で送って行ってあげる。君の家に連絡しなきゃね。だから君の名前と連絡先を」
「そうじゃない」
少年はごく希薄な怒気をはらんだ声を震わせた。
「あなたはここにいるべき人間ではない。気づいて」
「君、何を言っているの」
少年の唐突な激情をどう受け止めればよいかわからないアスカの端末に着信があった。少年の視線から逃げるようにして、アスカは端末に眼を落とした。
管理室からの返信だった。
「問い合わせ内容を確認させてください。現在ネルフ本部内には職員以外のID保持者は存在しません。シンクロ実験の被験者を含め、ビジター全員の退館記録がついています。現在、作戦一課前の監視カメラには惣流課長しか映っていません。以上」
*
「わかったよ。じゃあ君の行きたいところに私を連れて行って?」
端末をしまい、アスカはそう言って少年に手を差し出した。
この少年が何者なのかわからない。でも不思議と不安はなかった。
「エスコートしてよ」
少年はアスカの手をとり、立ち上がって「エレベーターはどこ」と聞いた。
「あっち」
アスカは顔を振って方向を示した。
少年は立ち上がってアスカの手を引き、小さな、しかし毅然とした歩幅で歩き始めた。
エレベーターホールでボタンを押した後、少年はふと思い出したように「惣は物と心の惣」とつぶやいた。
「聞いてた? あれ、いつも伝わらないんだよねえ」
「ならなぜそう言うの」
少年に聞かれて、それが癖になっていることに気づいた。
「私のお母さんが教えてくれたの。惣流って珍しい名字でしょ」
「あなた以外で聞いたことない」
「だよね。お母さんから受け継いだ名前。私、日本に来るまで漢字はほとんど勉強したことなかったから、唯一知ってる漢字が自分の名前だけだった。物と心で惣。知ってる? 惣って、ぜんぶって意味なんだよ」
「いま知った」
少年は少し笑っているように見えた。
「それがかっこいいなあと思って、ね」
エレベーターが到着し、少年はアスカの手を引いてその中に乗り込んだ。
少年は作戦一課のあるフロアから一番遠い、最深部のフロアのボタンを押した。
「ちょっと、ちょっと。外に出るんじゃないの。それじゃ下に行っちゃうよ」
少年はしばらく何も言わなかった。長い沈黙が、エレベーターの内部に重苦しくつり下がっていた。
「私はあなたと、このエレベーターに乗ったことがある」
「そうなんだ。いつ?」
少年の言葉の意図がつかめないことに、アスカは慣れ始めていた。
「つい何日か前のこと。ここではずっと昔のこと」
「難解だなあ」
「私はそのとき、あなたに冷たいことを言った、と思う。あなたはすごく孤独で、なのに、いえ、だから、周りに助けを求めることができなかった」
今日初めて会ったこの少年が、何を知っているのだろう。しかし、そんな日々は、たしかにあった。
「そっか。そのとき私は君に何て言った?」
「みんな、みんな、大っ嫌い」
その言葉。シンクロの数値がボロボロになって、シンジに抜かれて、リツコに数値が低いのを指摘されて、私なんかエヴァで一番になれなかったら何にもないのに、何にもなくなりそうなのが怖くて、苦しくて、恥ずかしくて、いなくなってしまいたくて、押しとどめることができずに他者にぶつけた世界ぜんぶへの否定の言葉を、アスカが忘れたことはなかった。
「それって、アンタ!」
優等生か。
*
使徒の黒い皮膚を内側から突き破ったのは弐号機の拳だった。
使徒の壮絶な咆哮が芦ノ湖の水面を揺らした。
使徒は四足歩行型の、巨大な牛のような形状をしている。その背中に弐号機の拳がつくった傷口から、紫色の漿液が滝のように流れ落ち、その奔流をかき分けるようにして、弐号機の二本の腕が使徒の背中からめきめきと伸びていった。
肘までが露出したところで、弐号機の両肘が使徒の体を押さえつけ、穴にはまった子どもがもがきながら這い出るようにして、漿液に汚れた弐号機の上半身が姿を現した。
「不覚をとった。ミサト! 私はどのくらい離脱していた?」
「九十二秒。レイがまだ中にいる。取り出して」
「了解」
九十二秒で、二十年生きた。
すでにアスカの頭の中にはここからの戦闘の手順が組み上がっている。弐号機もそれに応えてくれることを、今のアスカは確信することができた。
「レイ、ありがとね」
アスカは弐号機の下半身がまだ埋まっている使徒を見下ろした。
「なんつー精神攻撃をやってくれたもんだわ」
ぎたぎたにしてやるわ。
*
戦闘報告書(概略)案
二〇一五年X月X日
〇三四〇頃に芦ノ湖畔に出現した四足歩行型巨大未確認生物(以下、対象とする)について、各種情報の分析を経て〇四一五に使徒と判断し、同時刻をもって第一種戦闘配置を発令した。
〇六三〇、修理中の初号機を除く二機のエヴァンゲリオン(弐号機、零号機)を対象付近に戦闘配備した。
(当初、戦闘指揮担当者は零号機を前衛、弐号機を後衛とする布陣を指示したが、弐号機操縦者がこれに抗議し、その結果、戦闘指揮担当者は弐号機を前衛、零号機を後衛とする作戦に変更した。)
〇七〇〇に開始した弐号機の近接攻撃に対し、使徒が弐号機を「捕食」する形で反撃し、弐号機の機体は操縦者ごと使徒の体内に吸収され、この時点で弐号機操縦者との通信が一時的に途絶した。
対象の体内に捕獲された操縦者は、その間、対象による精神攻撃を受けた。
〇七〇一、零号機操縦者が弐号機のサルベージを志願。戦闘指揮担当者の却下・制止にもかかわらず零号機が対象に接近し、弐号機同様に「捕食」された。
〇七〇二、零号機による形而上的アプローチでの弐号機のサルベージが奏功した結果、使徒を内側から突き破る形で弐号機が戦線に復帰。弐号機は自身の脱出によって生じた対象の創部からすみやかに零号機を回収した。
〇七〇六、弐号機を前衛、零号機を後衛とする布陣にて再度対象を攻撃し、殲滅した。
弐号機操縦者、零号機操縦者への損傷は、心身両面とも観察されていない。
以上。
引用:「新世紀エヴァンゲリオン」第弐拾弐話「せめて、人間らしく」