Precious Memory

最後の仕事を終え、みんなから花束とねぎらいの言葉を受け取った。
「短い間でしたが、お世話になりました。」
頭を下げ、先輩たちに肩を叩かれ囲まれる。
「これからも頑張れよ」
「むこうに着いたら連絡してね」
さすがに泣いてくれはしないけれど、こんなに温かく送り出してくれるなんて思ってもみなかった。
俺は、良い職場で働けたな。
先輩たちの輪の隙間から、遠巻きにこちらに微笑んでいる彼女と目があった。
反射的に微笑み返す。
学校で、この職場で、何度も交わしてきた秘密の微笑み。
もみくちゃにされながら、これが最後か、と頭をよぎった。

「じゃあ、私、今日は予定あるので帰ります。」
ひとしきり送別の言葉が終わったところで、彼女はそう口にして立ち去った。
ほんの4,5分の送別会で、最初に彼女が口にした言葉。
「あ、それじゃあ、俺も。もう飛行機の時間なので。」
慌ててそういって、先輩一人ひとりの顔を見渡す。
「本当に、いままでありがとうございました。」
頭を下げられるだけ下げた。
一人ひとりに、感謝を心の中で伝える。
頭をあげ、ずっしりと重い鞄を肩にかけ、振り返らずにオフィスのドアを閉めた。

エレベーターを降り、通りに出ると、向こうに歩く彼女の後姿が見えた。
なんだよ、待っていてくれてもいいじゃん。
いつもこうだ。俺がして欲しいことを決してしてくれない。
そして、俺も彼女がそうしてくれないことを知っていて、こうやって一人で自嘲気味にため息をつく。
最後まで、いつも通り。
それが、彼女らしいし、俺たちらしい。

歩き始めると、すぐに追いついた。
そりゃあ、彼女の倍は歩くのが早いからね。
彼女は、俺が後ろに近づいても気づかないふりをして歩き続ける。
ちょっと歩幅を広げ、足を速める、そのささやかな抵抗がたまらなく可愛い。
これも、もう何回も見てきた景色。
今日で最後の景色。
でも、やっぱり、最後はいつも通りに終われない。

彼女を追い抜き様に、あごに手を沿え唇にキスをした。
二歩、三歩。
歩きながら唇が重なる。
足が止まる。
彼女を引き寄せ、抱きしめる。
唇を吸い、啄ばみ、舌先を擦りあう。
鞄を手放し、捨てるように地面に下ろした。ドスンと低い音が聞こえる。
自由になった両手で彼女の背中を包み込む。
肩甲骨から首元に彼女の手が置かれ、引き寄せられる。
一気に舌を彼女の口に滑り込ませ、舌全体を絡め合わせる。
彼女の全てを感じるように、言葉にならない思いをぶつけるように。

静かに、ゆっくりと唇が離れていく。やわらかく遠ざかる彼女の顔。
湿った唇が街灯で輝き、もれ出る吐息が二人の世界に響く。
温かく澄んだ瞳。どれだけ言葉で言われても、この瞳がいつも真実を俺に感じさせてくれる。
この、優しく微笑むときに出る目じりの笑い皺が好きなんだ。

「遅れるよ」
赤い頬を下に向けて、小さく呟く彼女。
少し揺れる瞳。微笑んだ口元。
そう、この瞳と微笑みだ。
いつまでも見ていたかったけれど、ぐっと我慢して彼女の歩幅でゆっくりと歩き出した。

今日は、なぜか腕を組んできた。本当に俺をよく分かってる。
絡まった腕と寄り添った体から伝わる彼女のやわらかさ、ぬくもり、鼓動、いつもの香水と彼女の両親のタバコの匂い。
彼女の全てが俺を満たしてくれる。
お互い何も話し出さなかった。
ただ、黙ったまま歩いた。
心地よい鼓動の高鳴りと二人の空気。
もう、少ししかない。
話したいことは山のようにある。伝えたい言葉もまだまだある。
普段はくだらないことを延々話していられるのに。
でも、こうして腕を組んで歩く幸せな時間をどうしても壊したくなかった。

緩やかな曲がり道の先に、駅が見えてきた。
ここまでくると、ぽつぽつ人が歩いている。
俺は、この道をこんなにゆっくり歩いたことがあっただろうか。
いつも一人でさっさと歩いていた。
大股で、足早に。
歩道を歩く人たちの合間を縫うように次々追い抜きながら通り抜けてきた。
毎日歩いてきたこの道のことを、俺は、地図のように認識していた。何も見ていなかったんだなぁ。
こうして、この道が緩やかなカーブを描いていることも改めて気づいた。
街路樹が白いことも、広い道路の割に車の通りが少ないことも。
小さい歩幅でゆっくり歩いて、追い抜かれる側になるのも悪くない。
もし、隣に彼女がいるのなら。

駅への下り階段が見えた。
ここを下りれば駅に着く。
普段はエスカレーターに乗るのに、自然と二人で階段を選んだ。
突然、俺は話しかけた。
「なんで俺じゃだめなの?」
階段に足をかけながらいたずらっぽく聞く。
「また?」
彼女は、呆れたような表情を作ってみせる。
目を合わせ、微笑みあう。

階段を下りながら、聞く。
「一緒に来ない?」
間髪いれずに帰ってくる答え。
「いかなーい。」

踊り場。
彼女は、止まってくれずに、そのまま次の階段を下りていく。
俺は、立ち止まり、彼女の背中を見つめる。
今日は、その階段を一緒に下りない。ここで曲がり、別のホームに行く。
いつものように軽く手を振って下りていく彼女。
彼女らしいって言えば彼女らしいか。
そう、これが、俺と彼女の距離。
誰よりも仲の良い友達である自信はあるけれど、決してそれ以上にはなれない。
まるで間に見えない壁があるように、ここより先には進めない。
お互いに、一緒にいられない相手であることを理解している。
いや、そもそも俺が作った壁だから、仕方ないのか。

これでもう、しばらく会えない。二度と会うことはないかもしれない。
背中を見つめ、遠ざかる彼女を目に焼き付けた。

立ち去ろうとする意思に反して、俺は、階段を下りる彼女の背中にもう一度呼びかけていた。
「一緒に行こうよ!」
自分でもびっくりするほど大きな声だった。
階段中に響く声。
あーあ、かっこよくさよならするつもりだったのに。
階段の途中で驚いて振り返る彼女。
彼女は、見上げたときにエスカレーターを降りる人たちと目が合い、恥ずかしさから思わず俺を睨みつけた。
二人でふっと笑い、いつもの眼差しで見つめあい、彼女は答える。
「いかないー!」
彼女のよく通る声が階段に響く。
その一言だけで、再び階段を下りだす。
「行こうよ。」
もう一度だけ、食い下がる。
「くどい」
彼女は、今度は怒った表情を作って振り返る。

階段ももう少し。

「風邪引くなよ!」
彼女の背中に投げかけた。気の利いた台詞でも言えたらよかったのに。
でも、もう一度、彼女の顔が見たかった。
「はーい」
彼女は、振り返らずに手を上げた。

階段が終わる。
ホームに向かい、曲がっていく。
俺は、再び大声で叫んだ。
「着いたら連絡するから!」
彼女は、いつものように階段の裏に回り込んでいく。
見慣れた去り際。
何もかも、いつも通り。

視界から壁の中に消えていく間際、彼女の視線がチラリとこちらを向いた。
いつもの優しい目。
全ての気持ちが穏やかになれる瞳。
温かく、包み込まれる視線。

そう、この感覚だ。
切なくて、張り詰めた心が休まる感覚。
君を誰よりも深く傷つけたのは俺なのに、その君が与えてくれる、何よりも穏やかな感覚。
辛い人生の中でずっと求め続けていた、満たされていく感覚。
幸せ。
君が教えてくれたもの。
そして、君だけが与えてくれたもの。

壁の奥に消えていく彼女の視線。
靡いた髪。
ゆれた鞄。

そして、彼女の姿は見えなくなった。

遅れて、「はーい」とぶっきらぼうに答える声が階段の壁の向こうから聞こえた。

なぜか微笑んでいる俺。
すべてに納得し、満足してしまっていた。
ゆっくり目を閉じて、そっと呟いた。誰にも聞こえない声で、「ありがとう」と。

雑踏が聞こえてくる。
周りを忙しなく帰路につく人たち。
内容の聞き取れない篭った声の構内放送。

俺は、力を入れて鞄を引き上げ肩にかけなおした。
鞄がずっしりと肉に食い込む重さを感じながら、自分のホームに歩き出す。
いつものように、大股で、早足に。
いつものように、人ごみを縫うように。

いつものように。

一人で。

<END>(2011)

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