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欧米文学放浪記5(番外編2)
クララ・イマーヴァール(Clara Immerwahr、1870年ー1915年)は、ユダヤ系のドイツ人化学者であり、同じ化学者であるフリッツ・ハーバーの最初の妻。
ドイツのブレスラウ(現在のポーランド領ヴロツワフ)に生まれた。父親は砂糖工場の経営者であるが、かつてはロベルト・ブンゼンのもとで化学を学んでいた。また、弟と従兄弟も後に化学を専攻するようになる。
クララは教員学校で学んだ。その時に行ったダンスパーティーで、同じブレスラウ出身のフリッツ・ハーバーと出会った。この時ハーバーとは、結婚の約束までしたとの説と、そこまで深い関係ではなかったという説の両方がある。
1897年からはブレスラウ大学で学び、化学を専攻した。そしてリヒャルト・アベッグの指導を受け、1900年に博士号をとった。ブレスラウ大学では女性で初の博士号であった。
1901年、フライブルクで開かれた学会にアベッグと共に参加した。そしてその会場でハーバーと再会を果たした。ハーバーはすぐに結婚の意思を告げた。クララは迷ったが、今までの研究と結婚生活を両立できるならと、了承した。ハーバーはクララの両親宛に出した手紙に、「まるで夢のなかの童話の王子と王女のようです」とつづった。
クララとハーバーは、当時ハーバーの研究室があったカールスルーエ大学の近くの別荘を借りて、新婚生活に入った。
結婚生活は初めのうちは順調であった。クララは結婚後も旧姓を保持し、結婚後の2年間は家事のかたわら研究会やセミナーに参加した。時には「化学と料理法と家庭」と題した連続講演も行った。結婚1年後には長男のヘルマンを産んだ。
しかし当時の社会では、女性が科学者として活動することは難しかった。クララは夫の仕事を助け、ハーバーは著書で妻の行為に感謝の意を示した。しかし逆にハーバーがクララの研究を手助けすることはなかった。クララは妻としての役割を強いられたため、それが自らの科学研究のさまたげになった。こういった事情により、クララの化学者としての活動はほとんど失われた。クララは自分に新たに与えられたこのような主婦としての補助的な役割を不満に思っており、恩師のアベックにも、現在の自分の状況を嘆く手紙を送った。
さらに、夫との関係も悪化していった。クララは「自分がもつ能力をできるだけ伸ばし、人間が到達しうる最高の高みを経験できなければ、人生に意味はない」という信念を持っており、家事についても完璧主義を貫こうとした。しかしハーバーは自分の研究を優先させ、家庭を顧みることはあまりなかった。ハーバーは突然夜遅くに同僚を自宅に呼び寄せたりしたため、それが神経質なクララにとってストレスとなった。
ハーバーはこの時期、大気からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で名をあげたが、それもクララにとっての心の慰めにはならなかった。手紙では、「この8年間でフリッツが得たものより私が失ったものの方が大きい」と記している。もともとクララは社交的ではなく、ふさぎこみがちになる性格であったこともあって、鬱になっていった。この時期のクララについて、知人は「目立たなくておとなしい、灰色のねずみに変わってしまった」と証言している。
第一次世界大戦の間、ハーバーはドイツ軍の忠実な働き手となり、化学兵器(特に毒ガス)の開発において重要な役割を担った。クララは毒ガスの使用に反対で、そのことで夫と口論することもあった。クララは毒ガス実験中に研究室内で爆発がおきたときにも立ち会っていたし、実験動物が苦しみながら死んでゆくのも見ていたため、そのことも彼女の気持ちを毒ガス使用反対へと傾かせたのではないかと言われている。しかしハーバーは毒ガスの開発を止めることはなかった。
ハーバーの努力は、自身の監督のもとで1915年4月22日に実行された、ベルギーのフランドルにおける最初のガス戦という結果を生んだ。この戦闘の後、ハーバーはベルリンの自宅に戻った。ハーバーが自宅に戻った少し後の5月2日、クララはハーバーの軍用ピストルを手に取り、庭に出て、空に向けて1発目を撃ち、そして2発目は自分の胸を撃ち自殺した。ハーバーは睡眠薬を飲んでいたため銃声に気付かず、遺体は息子のヘルマンによって発見された。
死の翌朝、ハーバーはすぐに家を出て、ロシア軍への最初の毒ガス攻撃を行うため東部戦線へと向かった。このハーバーの行動に対しては、冷酷だという意見がある一方で、ハーバーは目の前の仕事に取り組むことでしか、クララの死によって受けた悲しみからのがれることはできなかったと擁護する意見もある。またハーバーは1917年にシャルロッテ・ナータンと再婚した。
クララの遺灰はダーレムに埋葬された。その後、ハーバーが遺書に、クララと一緒に埋めてほしいと記したため、1937年、ヘルマンによって遺灰はスイスのバーゼルに移され、ハーバーと一緒の墓に埋葬されている。
1990年代、女性のための聴聞会において、クララは第一次大戦での毒ガスの使用に抗議して自殺した化学者として取り上げられた。そしてこのことがきっかけでクララの名は広く知られるようになり、ハーバーをはじめとする科学者の倫理問題も問われるようになった。
他方では、自殺の数ヶ月前にハーバーの弟子である田丸節郎と会話した際にはドイツへの愛国心を表明していたほか、夫が開発した毒ガスの成果を誇らしく語っていたとの証言もある。
しかし遺書が残っていないため、彼女の死についての全体像は明らかになっていない。また、他の動機についても考えられている。
クララとハーバーの関係は良好でなく、クララは神経質な状態にあった。また、クララの妹や、息子のヘルマンもやはり自殺により命を絶っており、遺伝的な要素も指摘されている。さらに、死の直前にハーバーは自宅でパーティーを開いており、そこには後の妻となるシャルロッテも参加していた。クララは2人の関係を疑い、そのことについてハーバーと口論になったとも伝えられており、そのことも自殺の動機の一つになったという見解も存在する。
クララ・イマーヴァールの人生は、科学、倫理、そして個人的な葛藤が交差する複雑なものです。彼女は、科学者としての責任と人間性を問いかけている。
フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年ー1934年)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。
1918年ノーベル化学賞受賞。
リーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878年ー1968年)は、オーストリア出身の物理学者である。放射線、核物理学の分野を研究した。核分裂の発見などに大きく貢献したほか、新元素プロトアクチニウムの発見などの業績がある。「核分裂」という言葉を最初に使用した人物。1907年から1938年までドイツのベルリンで研究したが、ナチスから亡命し、その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。
原子核分裂の理論的解明において重要な役割を果たし、その功績により「核時代の母」とも呼ばれることがある。
1878年、ウィーンのユダヤ系の家庭に、父フィリップ、母ヘートヴィヒの三女として生まれた。フィリップは弁護士、ヘートヴィヒはピアニストであった。元々はエリーゼと名付けられたが、その後リーゼと短くした。一家の生活は貧しくはなかったが、マイトナー家は男児3人、女児5人という大家族であったため、裕福でもなかった。一家はコンサートに出かけたり、演奏を行ったりと、音楽に親しむ生活をおくっていた。またフィリップは政治にも深くかかわっており、政治家や作家などをしばしば自宅に招き、集会場のように使用していた。
こうした豊かな知的環境で育ったリーゼは、自然科学に興味を持つようになった。しかし当時は女性の学問への道は閉ざされていた。リーゼは小学校卒業後に高等小学校に入学し(女性は高等教育を受けることができなかったため、ギムナジウムには入れなかった)、1892年に卒業した。
高等小学校卒業後、リーゼはフランス語の教師の試験を受けることにした。大学教育の不要な専門職だったからである。そして教師として収入を得たリーゼであったが、学問への思いはまだ強かった。ちょうどその頃、オーストリアでは女性の大学入学を求める動きが高まっていた。そして1897年、文学・科学分野に限って、資格試験(マトゥーラ)に合格すれば女性の大学入学が認められるようになった。
そこでリーゼは、大学入学資格試験を受けて大学へ入る道をとることにした。リーゼの両親は、女性が学問を行ったり職を得たりすることに抵抗をもたない人物であったため、リーゼのこの決断を支持した。ただし、この計画が失敗しても職が得られるよう、1899年まではフランス語の教師を続けた。そしてその後、2年間で集中して試験勉強を行い(ギムナジウムに入っていないリーゼは、この2年間で8年間分の学習を行うことになる)、1901年に試験に合格した。
23歳でようやく大学生になることができたマイトナーは、初年度から多くの講義を選択し、勉強に明け暮れる日々を過ごした。おもに数学と物理の講義に出席していたが、マイトナーの興味は次第に物理学へと傾いていった。
当時のウィーン大学の物理学研究所は、施設は粗末なものだったが、研究・教育の質は高かった。とりわけマイトナーを魅了したのは、ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義であった。1902年にウィーン大学に赴任したボルツマンの講義は学生に非常に人気があり、マイトナーも欠かさず出席した。マイトナーは後年になってからのインタビューなどにおいても、たびたびこの時のボルツマンの熱意にあふれる講義を話題にし、賞賛している。
1906年、マイトナーは博士号の試験に合格。ウィーン大学で4人目、物理では2人目の女性博士となった。
こうして博士となったマイトナーは、放射能の分野に関心を持った。そしてその分野で活躍していたステファン・マイヤーと共に、α線とβ線の金属への吸収に関する論文などを発表した。しかし自らの先行きには不安を感じていた。敬愛していたボルツマンは1906年に死去していた。また、放射能の分野ですでに業績を上げていたマリ・キュリーに助手として自分を雇ってくれるよう願ったが、空席がないと断られた。かといってウィーンに残っても、先人となる女性研究者がほとんどいないため、研究者としての仕事が続けられるか定かではなかった。
そこでマイトナーは、ベルリンへ行くことを決意した。ベルリンは当時のヨーロッパの科学における中心的な場所であったことや、ベルリン大学のマックス・プランクの名を知っており、1度だけだが会ったことがあることなどが、ベルリンを選んだ理由だった。こうしてマイトナーは、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶため」ウィーンを離れた。
ベルリンへとやってきたマイトナーであったが、当時のドイツは女性の学問進出に関して、他のヨーロッパ諸国と比較しても遅れていた。プランクも、1897年にとったアンケートでは、特別な能力と意欲をあわせ持った滅多にない例外的な人をのぞいて、女性に大学教育を行うべきではない、と答えていた[18]。マイトナーはそのことを知らなかったが、プランクに対面した時の態度から、彼は女子学生を高く評価していないと感じた。
しかし、プランクはマイトナーの聴講を認め、さらには自宅にも招くようになった。一方マイトナーはプランクの講義を聴いて、ボルツマンと比較して無味乾燥だと少々失望したが、交流を深めるにつれて、彼の人間性に親しみを覚えるようになっていった。
プランクの講義を受けながら、マイトナーは自分が研究する場所を探していた。実験物理学研究所所長のハインリヒ・ルーベンスに相談したところ、今席があいているのは自分の個室だけなので、そこで共同で仕事をするならば良いと回答された。マイトナーは、ルーベンス相手だと気軽に質問などができないと思ったので、その提案を受け入れるのをためらった[21]が、その後ルーベンスは、オットー・ハーンという化学者があなたとの共同研究を求めていると告げた。そして1907年9月28日、マイトナーは初めてハーンと出会った。ハーンはマイトナーと同年代で(マイトナーが4か月年上)、気さくな性格であったため、マイトナーは、この人になら何でも恥ずかしがらず話すことができると感じた。
しかし、ハーンの上司であるエミール・フィッシャーは、女性が研究所に入ることを許さなかった。そのためフィッシャーは、マイトナーは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究を認めた。
マイトナーはこの木工作業所で1912年まで、ハーンと共に研究を行った。マイトナーの物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果をあげた。2人の研究が成果を上げるようになると、フィッシャーもマイトナーが研究所内に入るのを認め、2人の研究に援助を行うようになった。
研究所では多くの同僚と交流を深めた。研究所外でも、1909年にエリザベート・シーマンと出合い、生涯にわたる友人となった。また1908年、プロテスタントの洗礼を受けた[7]。
1912年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設され、マイトナーはそこで働くことになった。当初はハーンの客員研究員という、無給の役職であったが、同年にプランクが自分の助手としてマイトナーを任命したため、少ないながらも32歳にして初めて収入を得られるようになった。1913年からは正式に研究員となった。
1914年、第一次世界大戦が起こり、ハーンは予備軍として召集された。マイトナーは手紙でハーンと連絡を取りながらベルリンで研究を続けていたが、1915年、自らもオーストリア軍のX線技師および看護婦として志願することにした。ポーランドの戦地で負傷者の治療にあたったマイトナーは戦場の悲惨さを知った。戦地での活動は1年以上続けたが、やがてマイトナーは、ここでは自分が必要とされていないのではないか、「私に与えられた義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ること」ではないかと感じるようになった。
1916年10月、マイトナーは研究所へと戻った。研究所ではフリッツ・ハーバーを中心として、毒ガスなど、軍事用の研究が中心となっていたが、その中でマイトナーは以前からの放射性物質の研究を続け、1918年、新元素プロトアクチニウムを発見した。
マイトナーの業績は認められ、1918年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任された。これによりマイトナーはようやく研究者として十分な給与を得ることができるようになった。
第一次大戦後の1920年、ハーンとの共同研究は終了し、マイトナーは独立で研究を行うようになった。同じ年、プロイセンでは女性の大学教授資格が認められ、マイトナーは1922年にベルリン大学の教授となった。すでに何本もの論文を発表しているため、通常必要とされる論文審査は免除された。10月に行った就任記念講義の内容は「宇宙生成における放射能の意味」。当時女性の物理学者は非常に珍しかったため、「コスミッシュ(宇宙の)」とすべきところを「コスメティッシュ(化粧の)」と記載してしまった記事もあった。
研究所では助手や学生とともに夜遅くまで研究をおこなった。他の科学者との交流も引き続き盛んだった。共同研究は行わないものの、ハーンとは同じ実験室を使用し、研究室同士での交流は続いていた。エリーザベト・シーマンとも手紙などで交流を続けていた。また、マックス・フォン・ラウエやジェイムス・フランクとも親交を深めた。さらに1927年には、甥のオットー・ロベルト・フリッシュがベルリンに滞在し、2人でピアノを弾いたりコンサートに出かけたりした。
1933年、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、研究所は大きな影響を受けた。ユダヤ人であった所長のフリッツ・ハーバーは辞職し、マイトナーも9月に教授職を解かれた。マイトナーは亡命も考えたが、この時はドイツに残ることにした。プランクらからドイツに残るようすすめられたし、自身も、これまでドイツで築き上げた実績を捨てて、55歳にしてまた一から新たな生活を始めることには躊躇していた。また、マイトナーはオーストリア人であったため、ナチスの支配下にはないことも大きな理由であった。
1934年、マイトナーは、ウランに中性子をぶつけることでウランより原子量の大きい原子(超ウラン原子)を生み出せるという、エンリコ・フェルミの論文を読み、非常に興味を持った。これを確かめるには物理だけでなく化学からのアプローチが必要だと考えたマイトナーは、ハーンに再び共同研究を持ちかけた。数週間後、ハーンは了解し、マイトナー、ハーン、そして研究所の助手であったフリッツ・シュトラスマンの3人による共同研究が始まった。
この研究途中の1938年、オーストリアはドイツに併合された。そのためマイトナーはドイツ人となり、ナチスによる影響を直接受けることとなった。ナチス党員のクルト・ヘスは、「ユダヤ人の女が研究所を危うくする」とマイトナーを糾弾した。
そんな中で、ハーンはカイザー・ヴィルヘルム協会の財務担当理事であるハインリヒ・ヘールラインと、マイトナーの今後について話し合いをおこなった。3月22日、マイトナーはハーンから、ヘールラインの見解を聞いた。それは「マイトナーは辞職すべきだ」というものであった。マイトナーは深く悲しみ、ハーンに対し「私を見殺しにした」「私にはどこにも行くところがない」と語った。
自らの身の危険を感じるようになったため、マイトナーは5月に亡命を考えた。この時、パウル・シェラー、ニールス・ボーア、ジェイムス・フランクから、それぞれスイス、デンマーク、アメリカへの亡命の誘いがあった。その中でマイトナーは、ボーアや甥のオットー・フィリッシュのいるデンマークの研究所に魅力を感じた。しかし、オーストリアはドイツに併合されていたため、デンマーク領事館ではオーストリア国民のパスポートは無効であると突き返された。新しいパスポートはカイザーヴィルヘルム研究所の出資者であるカール・ボッシュらの助けを借りて申請を行ったが、発行手続きは遅れ、最終的には、著名なユダヤ人の渡航は認められないと発行を拒否された。これはハインリヒ・ヒムラーの見解であった。
出国を禁じられ、しかもナチスに目をつけられた形となったマイトナーは、ただちに国を出なければならないと感じた。この事を知ったオランダのディルク・コスターはマイトナーを助けようと寄付を集め、マイトナーの職も探そうとした。そしてベルリンの様子を確認するため、自らマイトナーの元を訪れ、必要ならば連れて帰ろうとした。一方マイトナーは、スウェーデンのマンネ・シーグバーンの新しい研究所からのオファーがあることをボーア経由で聞いた。両者を検討した結果、マイトナーはスウェーデンで働くことを決めた。
7月12日、研究所で仕事を終えたマイトナーは荷造りを済ませ、ハーンの家に泊まった。ハーンからは、緊急の時に必要なものに変えればよいと、母の形見の指輪を贈られた。翌日マイトナーはコスターと共にいったんオランダのフローニンゲンへと亡命し、8月1日にスウェーデンへと移動した。このときのドイツ脱出にあたっては、休暇旅行との嘘の名目でドイツを立った。なお、脱出の途中の列車内では、マイトナーはナチスの国境警備隊にパスポート(期限が切れて無効となっていたもの)を検分されてしまっている。これは、後年にマイトナーが生きた心地がしなかったと述べていたほどの絶体絶命の事態であった。しかし、パスポートが期限切れになっていることを見落としたのかマイトナーに目こぼしをしたのか真相は不明だが、警備隊員はマイトナーの出国を認め、マイトナーは無事にオランダへ脱出することに成功したのであった。
マイトナーはストックホルムのマンネ・シーグバーンのもとで原子物理の研究を続けた。
ストックホルムでは、住まいが決まるまでの間、ホテルで暮らしていた。生活は厳しいものであった。財産のほとんどを持たずに亡命してきたマイトナーは、始めのうちは生活にも苦労した。ドイツに残してきた私物は後にハーンらにより届けられることとなったが、煩雑な手続きのため到着が遅れ、マイトナーの元に着いたのは1939年4月のことだった。1939年5月からは、ストックホルムに住んでいた姉夫婦(フリッシュの両親)のもとで生活した。
ドイツ時代に行っていた実験はハーン、シュトラスマンの手により続けられ、マイトナーとは手紙で実験の進み具合や今後の方向性などをやり取りしていた。1938年、マイトナーはハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」という手紙を受け取った。これは今までの理論では起こり得ない結果であったため、一緒にこの手紙を読んだ甥のフリッシュは、実験のミスではないかと言ったが、マイトナーは、ハーンがこのような間違いを犯すとは考えにくいと答えた。そしてフリッシュと共に、この実験から核分裂が起きたと解釈して連名で発表し、fission(核分裂)と命名した。なお、これが核兵器の開発につながっていくことになるが、マイトナーは1943年、英国の科学者に核兵器の開発への協力を求められたとき、「爆弾に関わるつもりはありません」と断っている。
一方、シーグバーンの研究所ではマイトナーは孤立していた。研究所はサイクロトロンなどの大型設備が整っていたが、マイトナーに十分な実験装置や人員が与えられることはなかった。慣れ親しんだベルリンの地を離れ、新しい地で孤独な生活を送ることとなったマイトナーは疎外感を味わった。ハーンやエリザベートらと手紙のやり取りは行っていたが、マイトナーは誰も自分の気持ちを分かってくれないと思うようになっていった。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されると、マイトナーの元には取材が殺到した。当時、アメリカやドイツの原爆開発者とは連絡を取ることができなかったため、マイトナーに注目が集まったのである。マイトナー自身は実際に投下されるまで原爆についてまったく知らなかったため、「ハーンも私も、原爆の開発にいささかなりともかかわっていません」と繰り返した。
1946年、マイトナーは物理学者のカール・ヘルツフェルトの誘いを受け、ワシントンの大学に客員教授として出向いた。アメリカでは歓迎を受けた。1946年のウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、トルーマン大統領とも面会した。各種の取材も多く、本人出演による映画化の話もあった。
1946年7月、客員教授の任期を終えたマイトナーはスウェーデンへと戻った。12月には、ノーベル賞の授賞式のためにストックホルムを訪れたハーンと久々に対面した。しかしハーンとは政治的な問題で対立が深まった。戦後のドイツの惨状と、ドイツへの支援の要請のみを訴えるハーンに対して、マイトナーは、ヒトラーによる政治にドイツの科学者が十分に抵抗しなかったこと、そしてそのことを戦後も反省していないことを指摘した。
同じ理由で、マイトナーはドイツの研究所に戻ることはなかった。マックス・プランク研究所(以前のカイザー・ヴィルヘルム研究所)に戻るよう誘いを受けたときは、シュトラスマンからの誘いであったため受けるかどうか迷ったが、最終的に断った。とはいえマイトナーにとって、ドイツで過ごした期間は思い出が多かったこともあり、ドイツと完全にかかわりを絶つことはなかった。1948年には師であるプランクの追悼式のために10年ぶりにドイツを訪れ、その後も西ドイツから与えられた賞などは受け入れた。
研究は続きスウェーデンで行った。研究環境は改善され、実験器具は自由に使えるようになり、助手も付くようになった。
「頭がまだしっかりとしているうちに学問をやめるべきだ」と考えていたマイトナーは、1952年に第一線の研究の場から退いた。しかしその後も週に一度の科学コロキウムに出席し、最新情報の取得は欠かさなかった。また、物理学以外に、男女同権問題や核兵器の問題に関しても関わった。
1960年、82歳になったマイトナーは、ケンブリッジに住むオットー・フリッシュの家の近くへと引っ越し、そこで余生を過ごした。1963年、自らの人生について、「若いころは、もしもそれが内容豊かなものであるならば、平坦なものでなくてもかまわないと考えていた。そしてその望みは達せられたのです」と語った。
1967年ごろからマイトナーの体力や記憶力は衰えがみられてきた。そして1968年10月、90歳の誕生日を前に亡くなった。遺体はハンプシャーの墓地に埋葬された。碑文には、「リーゼ・マイトナー人間愛を失わなかった物理学者」と記されている。
マイトナーは計31回にわたりノーベル賞の候補にあげられたが、受賞は叶わなかった。しかし現在では、女性でユダヤ人という差別に加え、派閥争いにより不当な評価であったことが見直されており、2020年にノーベル財団は核分裂の発見者をマイトナーとハーンの二人であることを認めている。
1935年にはプランクの推薦でハーンと共同で、1936年にはラウエの推薦で単独で、それぞれ候補にあげられた。ラウエがマイトナーを推薦したのは、ノーベル賞を受賞させることによって、ユダヤ人であるマイトナーの身の安全を守ろうとする狙いもあったと考えられている。しかし結果としては、マイトナーは賞を獲得することはできなかった。一番の業績であった核分裂反応に関しても、受賞したのはハーン1人(1944年化学賞)で、マイトナーは受賞者から外された。ニールス・ボーアやオスカー・クラインはマイトナーを1945年から1948年までの物理学賞または化学賞に推薦し続けたが、それは実らなかった。
この選考に関しては、当時から議論の種となっていた。ハーンとシュトラスマンによる核分裂反応の実験時にマイトナーがその場にいなかったことなどを踏まえて、マイトナーは核分裂の発見に寄与しなかったとする否定的見解がある。果ては、マイトナーがいなくなったことでこの発見は成し遂げられた、ととらえられることさえあった。ハーン自身も後年に、もしマイトナーがその場にいたら、この実験には反対していただろうと述べており、自分たちの発見に関して述べる時にもマイトナーの貢献についてほとんど触れなかった。しかし20世紀末に公開された選考資料や、マイトナーの手紙やメモを調べたところ、名声を独占したかったハーンの姿勢や、選考委員会内の体制や派閥争いについてなど、新たな視点が明らかになっている。
マックス・プランクは、初対面での印象は良いとはいえなかったが、その後は強い尊敬の念を抱いた。マイトナーは一時期プランクの助手であったが、このことは自分の科学的能力だけでなく人間としての成長にも大きな影響を与えたと後に述べている。マイトナーはたびたびプランクの自宅に招かれ、そこではアインシュタインらとともにクラシックの演奏を行ったりして過ごした。
そのアルベルト・アインシュタインとマイトナーは、1909年の講演会で初めて出会った。そこでアインシュタインが講演した相対性理論の内容は、マイトナーにとって「眼がさめることのように新鮮であり、驚くべきことだった。」マイトナーはアインシュタインの能力を認めながらも、目立ちたがりでないマイトナーにとっては、マスコミの取材を良く受け入れていたアインシュタインの行動には理解できないこともあった。一方のアインシュタインは、マイトナーを「我らのキュリー夫人」と呼び讃えた。
そのキュリー夫人(マリ・キュリー)とは、1910年の第1回国際ラジウム学会で対面している。「あなたはもういくつか論文を発表していらっしゃるというのに、まるで若い娘さんのようにみえますね」と話しかけられたマイトナーが、「でもわたくし、もう三十を過ぎています」と答えると、「そういうことをおっしゃるものじゃありませんよ」と返された。この応答にマイトナーは「とても感じがいい」と思ったという。
マリ・キュリーの娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとは、同じ研究分野であり、特に超ウラン元素をめぐる発見競争ではライバルの関係にあった。結果的にイレーヌらが発見した新物質は、マイトナーらによる核分裂反応の発見のきっかけとなった。
その核分裂反応の理論面で重要な役割を果たしたのがニールス・ボーアの理論であった。マイトナーは1920年、同僚と共に、すでに一流の物理学者であったボーアの講演を聞いたが、マイトナーたちには理解できない内容が多かった。そこで協力してボーアを自分たちのところに招き、質問ぜめにした。その後、深く知りあうようになってからは、ボーアのいるコペンハーゲンに招かれるようにもなった。亡命中は親身になってマイトナーの身の安全を考えた。
マックス・フォン・ラウエもマイトナーの亡命中、頻繁に手紙をやり取りした。マイトナーは、ラウエは唯一の誠実な友人で、いつでも頼りにできると述べた。またマイトナーはラウエの主催する水曜コロキウムと呼ばれる会合に最初から参加していた。第二次大戦後は、ドイツの科学者に対して、ナチスに消極的にせよ関わったのであるから責任を持つべきだと主張するマイトナーに対して、他の国の科学者であっても同じ場面に遭遇すれば同じ行動をとらざるを得なかっただろうと科学者を擁護するなど、意見の相違が見られた。しかし後年マイトナーは、ラウエとは「プランクの講義で知り合って以来、早すぎた死が彼を訪れるまで、たいへん仲のよい友人だった。」と語っている。
ジェイムス・フランクも水曜コロキウムからの長いつきあいであった。マイトナーとは戦後ドイツの問題を含めて意見が良く合い、「同じ言葉を話している」と感じた。互いに80代になったとき、フランクに「君に恋してしまった」と言われたマイトナーは、「今さら遅いわよ」と答えた。なおマイトナーは生涯独身で過ごした。長年共同研究を続けたハーンとも、一緒にいるのは実験室の中だけで、2人で散歩に出ることすらなかったという。
オットー・ハーンとは共同研究中、実験がうまくいくとブラームスの歌曲を合唱したりした。第二次大戦後はナチスへの責任問題などで意見が食い違い、関係はややぎくしゃくしたものとなった。とはいえ晩年においても、誕生日にはメッセージの交換などを行うなど、交流は続いていた。ハーンが死亡したのはマイトナーの死の3か月前のことであった。
マイトナーは女性科学者としての先駆的存在であり、多くの後進に影響を与えた。彼女の人生は、科学への情熱と逆境を乗り越える強さを象徴している。
オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年ー1968年)は、ドイツの化学者・物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年にノーベル化学賞を受賞。受賞理由:原子核分裂の発見。
ジェイムズ・フランク(James Franck, 1882年ー1964年)は、ドイツのユダヤ系物理学者。ナチス政権に反対してアメリカに逃れた。グスタフ・ヘルツと行ったフランク=ヘルツの実験などの業績を残した。また、原子爆弾の無警告での使用に反対したフランクレポートでも知られる。1925年、ヘルツとともにノーベル物理学賞を受賞。受賞理由:原子と電子の衝突に関する研究。
令和6年12月22日