楽園の狂人Ⅺ
1
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(猛暑が続く8月の中頃、西公園宅で向き合う二人の老人。)
なあエム、このところ、俺達、よく飲んでるよなあ。
そうですね。俺、この暑さは酒で乗り切ろうと思ってるんですが。
都合の良い考えだ。酒で乗り切るのか。俺もそうするかなあ。
いえ、アルコールの過剰摂取は危険です。・・・いや、西公園、あなたは俺より高齢です。自重すべきですよ。
面白いことを言うなあ。自分は酒で暑さを乗り切る、俺は、君より老人だから控えろか?
まあ、一般的な話です。
うん、現状維持で細々生きる。それが俺のモットーだ。
ハハハ、良いような悪いような・・・。
}
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なあ、最近、酒が美味くなくてな。まあ、安ウヰスキーの炭酸割りじゃしょうがないか。
止めたらどうですか?
俺、そうすべきかな?
検討の余地はあります。
どんな?
どんなって、禁酒ですよ。2、3日止めてみたらどうですか?体が軽くなるかもしれません。
そうかなあ・・・。
やってみれば解りますよ。酒に溺れた者は誰の言うことも聞きません。西公園、人の言うことに耳を傾けても良いんじゃないですか。
そうかも知れんなあ。長生きできるか?
それはどうでしょう。長生きすることが目標ですか?
どうかな・・・何のための長生きだかなあ?
}
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エム、酒の起源を知ってるか?
酒の起源ですか?さあ・・・。
おいおい、75年も生きてきたのに知らんのか?
なんとも、無知蒙昧な老人でして。
じゃあ、俺が教えてあげよう。なんと発祥の地がメソポタミアでビールとワインなんだって。5、6千年前のことだ。
どうして解ったんでしょうか?
良い質問だ。ギルガメシュ叙事詩やバイブルに、酒に関する記述があるそうだ。日本では、古事記、日本書紀、万葉集などに酒のことが出てるんだってよ。
長い歴史があるんですね。
うん、だからどうなんだと言われても困るが・・・。
う〜ん。
}
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エム、どうした。考え事か?
はあ・・・。一昨日、孫がアメリカに行きました。発つ前、娘と一緒に来た。玄関前で、2、3枚、スマホでショット。二言三言、言葉を交わして帰って行きました。帰る車の窓越しに握った手が、思ったよりずっと華奢だった。
・・・・・・。
}
2
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エム、君も勤め人だったよな。
はい。小さな団体で働いていました。30歳から40年余り。
で、老いの宿命に直面しているわけだ。
そうですね。
たいしてする事もなく、日々のんべんだらりと過ごしている。動画を見たり、酒を飲んだり、暇つぶしが日課だよな。
・・・言われてみれば、そうかも知れません。
まあ、君だけの問題じゃないよ。俺は、もっと深刻だ。ヨボヨボの爺さんだからな。君も、いずれそうなる。そういう意味で、人は平等だ。
}
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俺も勤め人だった。中堅メーカーの営業職だったよ。地方の工場への出張は天国だった。まあ、時代も良かったよな。交際費も潤沢にあってなあ。
そうですか、イメージ出来ませんが・・・。
俺にも、良い時があったんだよ。でもなあ、定年を迎えて会社を離れれば、それまで信じて来た組織や秩序に疎外されるのさ。皮肉なもんだよなあ。
・・・・・・。
過去の自分が、今の自分自身を疎外する。
}
3
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(一番上の孫が日本を発った翌日は荒天だった。朝から時折雨が降り、断続的の豪雨になる事もあった。)
(娘がアップした写真を見る。渡米する孫、高一の孫はエムよりはるかに長身だ。エムは、身長の割に顔が大きく足が短い。「俺、顎が落ちてるなあ。」そんな感想を持つ。)
(一番上の孫は、昨夜、母と弟二人、それと高校の同級生数人に送られ、屈託無くジェット・プレインに乗った。)
(今日、エムは庭に出る事もなく、昼には冷蔵庫の中身を確認しながら焼飯。一歩も外に出ない日だった、昼過ぎから酒を飲んで、風呂にも入らず、髭も剃らず。怠惰な日だった。)
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(飲んでいると、年老いた雌猫が来る。午後の食事はあげたのだが。頭を足に擦り付けて声をあげる。何度かその動作を繰り返す。その意味を理解したエムは階下に下り、少し残っているご飯に削り節を振り掛ける。お婆ちゃんは満足したようだ。)
}
4
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エム、俺たちの人生は、金の切れ目が命の切れ目だよな。
はあ、そうかも知れません。
俺たちは死に行く者だ。足掻いたって意味がない。むしろ、早く死ねば良いんじゃないかなあ。
否定はしません。でもね、俺たちは死ねば良い存在ですか?
そう思う事もあるよ。
}
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西公園、貴兄の考えには賛同できません。
そうか・・・残念だ。
いやいや、そうではなくてですね、貴兄の考えは貧しいです。
なんと、これはしたり。俺の考えが貧しいとな。・・・俺の考えは事実だと思うが。
事実だとしても、それは物事の一面でしかありません。俺たちは、心の中を冒険する事が出来る。
面白いことを言うなあ。・・・で、なんか意味あんの?
まあ、老人にも生きる拠り所が必要だと・・・。
心の中を冒険する事が、生きる拠り所になるのかい?
はい。
そうかねえ。
何か疑問でも?
うん、大いにあるね。
何でしょうか?
・・・ここまで出かかっているんだが・・・今日は飲み過ぎた。改めて議論しようや。
はい。
}
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(西公園と別れ、自宅に向かうエム。このところ、夏バテというものは、こんなものかと感じていた。朝、目覚めても体が怠く、気力も湧かない。腹の具合も良くなくて、より長い時間を過ごさないと外に出ることが出来ない。それでも、庭の草取りは続けていた。)
(草取りの時間は、朝8時半から9時半、10時半と遅くなっているが、意地になって庭に出る。そんな日々を過ごしていた。)
(酔って帰宅するエム。グラスと水を持って、2階の自室に行き、PCとタブレットをチェックする。少し飲んで、粗末なベッドに身を横たえる。夕暮れだ。)
}
令和5年8月31日