欧米文学放浪記1
米国編 三人のライター
ウィリアム・カスバート・フォークナー(William Cuthbert Faulkner, 本名:Falkner, 1897年ー1962年)は、アメリカ合衆国の小説家。ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠であり、南部アメリカの因習的な世界を「意識の流れ」を初めとする様々な実験的手法で描いた。代表作に『響きと怒り』、『サンクチュアリ』、『八月の光』、『アブサロム、アブサロム!』など。
1950年ノーベル文学賞受賞。受賞理由:「アメリカの現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献に対して」
フォークナーはその生涯の大半をミシシッピ州ラファイエット郡の田舎町オックスフォードにある自宅「ローアン・オーク」(Rowan Oak)で過ごしており、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。これらの作品はオノレ・ド・バルザック的な同一人物再登場法によって相互に結び付けられ、その総体はヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる。
1929年、長編第3作にして「ヨクナパトーファ・サーガ」の第1作に当たる『サートリス』を刊行した。同年に代表作の一つである『響きと怒り』を完成する。しかし、ここまで作品はほとんど売れず、傑作とされる『響きと怒り』も、当時はごく一部の批評家から賞賛を受けたのみであった。この年、幼なじみで離婚していた女性エステル・オールダムと結婚。二人の連れ子を引き取り、翌年オックスフォードに家を買って移り住む。この家は、南北戦争以前に建造された町で最も古い家屋の一つで、フォークナーはこれを「ローアン・オーク」と呼んで終の住処とした。以後、中短編とともに、『死の床に横たわりて』(1930年)、『サンクチュアリ』(1931年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)と傑作を発表していくが、当時フランスで紹介されて評価を受けるなどしたものの自国では評判が得られず、生活のために週給500ドルでハリウッド(Hollywood)の台本書きの仕事を始める。これ以後、1945 年まで長短10 回滞在することになる。ハリウッドの華やかで異質な世界は、戦争もののジャンルを含めて映画的手法を彼に教え、また結婚生活や深南部の片田舎の日常からの息抜きの場所ともなる。映画監督ハワード・ホークス(Howard Hawks,1896-1977)と知り合いになり、彼の監督作品『脱出』、『三つ数えろ』などの脚本を手掛けている。そのような状況からの転機となったは、マルカム・カウリーによって1946年に編まれた1巻本の選集『ポータブル・フォークナー』である。この書籍の出版によって、フォークナーは急激に注目され、ほとんどが絶版になっていた著書が次々に復刊、1950年に、ノーベル文学賞(1949年度)の栄誉へと続いていくことになった。
1955年8月には来日し、長野市で開催された「アメリカ文学セミナー」において自作について述べた際に、第二次大戦で負けた日本と、南北戦争で負けた自身の郷里であるアメリカ南部は似通った宿命を背負っていると述べ、ここ十年間に次々と日本の新進文学者が誕生するだろうと示唆した。この時期、東京や京都でも日本の文化人と会談した。1962年6月、最後の作品で「サーガ」最後の作品でもある『自動車泥棒』を出版。同年7月、落馬事故により血栓症を発症し、心筋梗塞によりオクスフォードに近いバイハリアの病院で死去。没年64歳。
あまり背の高くない中肉中背の人物であったが、骨格はたくましかった。
1959年夏に来日した際には、ウィスキーとパイプをほとんど手もとから離さなかった。
もっとも尊敬している作家はマーク・トウェインである。
愛読書は『ドン・キホーテ』、『白鯨』、『ボヴァリー夫人』、『カラマーゾフの兄弟』、『旧約聖書』、シェイクスピア、チャールズ・ディケンズ、ジョゼフ・コンラッドであり、二, 三年おきに読み返していた。
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899年ー 1961年)は、アメリカ合衆国出身の小説家・詩人。ヘミングウェイによって創作された独特でシンプルな文体は、冒険的な生活やそれによる一般的なイメージとともに、20世紀の文学界と人々のライフスタイルに多大な影響を与えた。代表作は『日はまた昇る』、『武器よさらば』、『誰がために鐘は鳴る』、『老人と海』など。これらは、アメリカ文学の古典として考えられている。
1954年:ノーベル文学賞受賞。受賞理由:"老人と海"に代表される、叙述の芸術への熟達と、現代のストーリーテリングの形式に及ぼした影響に対して。
イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ)に生まれる。父・クラレンスは医師、母・グレイスは元声楽家で、ヘミングウェイには1人の姉と4人の妹がいた。彼は幼い時、母の変わった嗜好によって強制的に女装をさせられており、彼はそのような母の嗜好を子供心に疎んじていたという。一方、父は活動的な人物で、ヘミングウェイは父から釣りや狩猟、ボクシングなどの手ほどきを受け、生涯の人格を形成していった。父は後に自殺している。
高校卒業後の1917年10月、カンザスシティの地方紙「カンザスシティ・スター」(The Kansas City Star)紙の見習い記者となるも退職。翌年、赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くが、その戦線で負傷兵を助けようとして自らも瀕死の重傷を負う。この時に病院で出会った7歳年上の看護婦、アグネス・フォン・クロウスキーに恋をしたが、この恋は実らずに終わった。のちにこのエピソードは『武器よさらば』のベースになっている。
行動派の作家で、1930年代には国際旅団への参加によってスペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』などはそうした経験の賜物であり、当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。
短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。主人公の多くはニック・アダムスというヘミングウェイの分身ともいえる青年である。
1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。同年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りであった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。
晩年は、事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていった。1961年7月2日の早朝、散弾銃による自殺を遂げた(当初は銃の手入れの際に起きた暴発による事故死と報じられたが、後に遺書が発見されたため、自殺と断定された)。
マーゴ・ルイーズ・ヘミングウェイ(Margaux Louise Hemingway、1954年ー 1996年)は、アメリカのモデル、女優。
180cmの体躯から、1970年代初めからモデルを始め、ロシア発パリのファッションブランド「ファベルジェ」(Fabergé) と大型専属契約で「Babe perfume」の香水モデルとなった。これは当時のファッションモデルとしては異例の百万ドル規模での初めての大型契約だった。さらに、コスモポリタン、エル、ハーパーズ・バザー、1975年にはヴォーグ、タイムと、名だたる雑誌のカバーを飾った。この初期のファッション広告業界での活躍の裏には、アーティストで有名人の霊媒師のザカリー・セリグ(Zachary Selig)の存在があるとされる。19-20歳頃に結婚した夫エロール・ウェットソン (Erroll Wetson) と、アッパー・マンハッタンの72番ストリート(en)12丁目にあるセリグが居住する同じ高級マンションに越した。彼女の"メンター (mentor)" のザカリー・セリグは、ビジネスや社交の場で彼女を女性雑誌の編集長ら友人に紹介したのが最初のステップであったとされている。
1976年には、映画「リップスティック」で妹マリエルと共演し、モデルのみならず女優としても成功するなど高い名声を得ていた。しかし私生活では、1979年にフランス人映画プロデューサーベルナール・フーシェ (Bernard Foucher) と再婚し1年間パリに居住していたが、1985年に別れた。2度目の離婚を経験し、また双極性障害を患っていたと思われ、アルコール依存症もあって、後年その名声に陰りが差した。
1996年7月1日、サンタモニカのマンションで抗不安薬のオーバードース(過剰摂取)により死亡しているのが発見された。自殺と見られている。この日は、35年前に祖父が同じように猟銃自殺を遂げた日でもあった。またヘミングウェイ一族は5人が自殺で亡くなっている。
ジョン・アーンスト・スタインベック(John Ernst Steinbeck, 1902年ー1968年)は、アメリカの小説家・劇作家。 スタインベックは「アメリカ文学の巨人」と呼ばれていた。また、スタインベックの多くの作品は西洋文学の古典と考えられている。 また、生涯で27冊の本を出版している。その中には16冊の小説と、6冊のノンフィクション、2冊の短編集が含まれている。 1929年の経済恐慌の影響を受けて貧窮にあえぐ小作農民の姿を描き、ピューリッツァー賞を受賞した代表作『怒りの葡萄』は75年に渡って売れ続け、1400万冊が販売されている。『エデンの東』では、キリスト教的原罪と人間の救いの可能性に新境地を開いた。 スタインベックの作品の多くはカリフォルニア州中部が舞台となり、中でもサリナス峡谷やコースト・レーンジズ山脈は頻繁に登場する。
1962年にノーベル文学賞受賞。受賞理由:優れた思いやりのあるユーモアと鋭い社会観察を結びつけた、現実的で想像力のある著作に対して。
スタインベックは1902年2月27日、カリフォルニア州モントレー郡サリナスで生まれた。姉2人、妹1人の長男だった。サリーナス高等学校を卒業、幼い頃からドストエフスキー『罪と罰』、ミルトン『失楽園』、マロリー『アーサー王の死』などを読み耽る文学好きの少年であり、学級委員も務めていた。
スタインベックの祖父は多くの農地を所持したドイツ系移民で、父はドイツ系2世の出納吏でもあった。母はアイルランド系の小学校の教師でスタインベックの読み書きの能力を育てた。
スタインベック家は元々「Großsteinbeck」という苗字だったが、祖父がアメリカに移民した際に「Steinbeck」と短縮した。ドイツに残る一族の農地は、いまだに「Großsteinbeck」と呼ばれている。
スタインベックは後年、不可知論者になるが幼少期は米国聖公会に所属していた。
高校卒業後、一時砂糖工場で働いた。そこでスタインベックは移民の生活や人間の負の面を経験した。砂糖工場での労働経験は、『二十日鼠と人間』などの後世の作品に生かされている。スタインベックは地元の森や牧場や周りの自然を歩いて横断し、冒険することを好んだ。砂糖工場ではしばしば工場内で働く機会があり、物を書く時間を作れた。機械に対してかなりの適性を持ち、持ち物を補修することに愛情を持っていた。
スタインベックは1920年、スタンフォード大学の英文学部に入学する。1921年度は授業を全休し、牧場や道路工事、砂糖工場などで様々な労働を経験した。この時の経験がのちのスタインベックの作品の世界観に現れていった。
1925年、海洋生物学を学んだのちスタンフォード大学を学位を取らずに退学した。ニューヨークに行き、出版を試みたが失敗し、カリフォルニア州へ帰ってきた。3年間山小屋やマス孵化場で働きながら作品を書いた。1928年、カリフォルニア州のタホ湖のツアーガイドとなり、最初の妻となるキャロル・ヘニングと出会った。
1930年、キャロル・ヘニングとロサンゼルスで結婚。ロサンゼルスでは友達と一緒に石膏でマネキンを作り儲けようとしていた。6か月後、世界恐慌が始まりスタインベックらの資金が尽きると、2人は父親が所有していたカリフォルニア州のパシフィック・グローブの別荘に移り住んだ。スタインベックの父は無料で二人に家を提供した。スタインベックはボートを購入し、釣りやカニの採取、庭や近所から手に入る野菜によって働かなくても生きていくことができた。スタインベックらは生活保護を受け、まれに地元の市場からベーコンを盗むことがあった。食料が少ない時でも、スタインベックは友達と食料を分け合っていた。
その後もスタインベックは意欲的な作品を書き続け、1962年にはノーベル文学賞を受賞している。しかし、晩年は国内の批評家からの評価は必ずしも芳しくなく、生活は決して恵まれたものではなかった。
スタインベックは1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして没した。66歳没。スタインベックの死体は遺言通り、火葬され埋葬された。
追記
ロストジェネレーション(Lost Generation) は、第一次世界大戦を経験したアメリカやヨーロッパの世代、特にその中で活躍した作家や芸術家を指す言葉です。この世代の人々は、戦争によって引き起こされた価値観の崩壊や、社会の虚無感、アイデンティティの喪失を抱えたと言われています。
第一次世界大戦の影響
大規模な戦争を経験した若者たちは、伝統的な価値観(愛国心、家族、宗教)が崩壊し、新たな人生の意味を模索するようになりました。
特にアメリカの作家たちは、戦後の物質主義的な社会や表面的な繁栄に対する不満を抱え、ヨーロッパ(特にパリ)へ移り住むことが多かったです。命名の由来
「ロストジェネレーション」という言葉は、ガートルード・スタインがヘミングウェイに語った言葉から広まりました。「君たちは迷える世代(You are all a lost generation.)」という発言が象徴的です。
戦争による価値観の喪失
戦争体験による精神的な傷、伝統的な価値観や理想の喪失がテーマとして頻出します。放浪と移住
多くの作家や芸術家はアメリカ社会に幻滅し、フランスを中心にしたヨーロッパに移住しました。パリは「ロストジェネレーション」の文化的中心地となりました。個人のアイデンティティと虚無感
社会や自己に対する不信感、目的を失った生き方への葛藤が、彼らの作品に反映されています。
アーネスト・ヘミングウェイ
『日はまた昇る』(The Sun Also Rises, 1926)
戦後の虚無感や失われた世代のアイデンティティの探求を描いた代表作。『武器よさらば』(A Farewell to Arms, 1929)
戦争の悲惨さと、愛と喪失を描いた半自伝的作品。
F・スコット・フィッツジェラルド
『華麗なるギャツビー』(The Great Gatsby, 1925)
「アメリカンドリーム」の空虚さを象徴的に描写。『楽園のこちら側』(This Side of Paradise, 1920)
戦後の若者の享楽的な生活とその空虚感をテーマにした作品。
ガートルード・スタイン
『アリス・B・トクラスの自伝』(The Autobiography of Alice B. Toklas, 1933)パリにおける芸術家や知識人の生活を描写したユニークな作品。
T・S・エリオット
『荒地』(The Waste Land, 1922)
戦後の崩壊した世界を象徴的に描いた詩で、ロストジェネレーションの精神を反映。
ジャズ時代
フィッツジェラルドが「ジャズ・エイジ」と呼んだ1920年代の文化的繁栄と重なり、音楽や文学、芸術の革新が進みました。
モダニズム
伝統的な文学形式を破り、モダニズム文学の一環として、個人的な体験や心理描写を重視した新しい表現が生まれました。
ロストジェネレーションの意義
ロストジェネレーションは、戦争によって変化した社会の中で、新しい価値観や生き方を模索し続けました。彼らの作品は戦争の傷跡や社会の矛盾を赤裸々に描き、現代文学や芸術に深い影響を与えています。
日本における「ロストジェネレーション(ロスジェネ)」
バブル経済崩壊後の1990年代から2000年代初頭にかけて、就職氷河期に直面した世代を指します。この世代は、厳しい経済状況の中で就職の機会を失い、非正規雇用や不安定な職業形態に追いやられるケースが多く、経済的・社会的な困難を抱え続けています。
バブル経済の崩壊(1991年)
バブル経済が崩壊した後、日本は長期的な不況に突入しました。企業の業績が悪化し、採用が大幅に縮小されたため、特に新卒者が厳しい就職状況に直面しました。
就職氷河期(1993年~2004年頃)
1990年代半ばから2000年代初頭にかけて、多くの企業が新卒採用を抑制しました。このため、大学や高校を卒業した若者が正規雇用の機会を得られず、非正規雇用や低賃金の職に就かざるを得ない状況に陥りました。
日本型雇用システムの影響
日本の雇用慣行では、新卒で正社員になることがキャリアの出発点として重視されており、一度非正規雇用に入ると、正社員になるのが非常に難しい構造がありました。
世代の範囲
主に1970年頃から1985年頃に生まれた人々が対象とされています。
経済的不安定
非正規雇用や低収入の仕事に長く従事したため、経済的な基盤が弱い人が多いです。
未婚率の高さ
経済的不安定さや社会的な孤立感から、未婚率が高い傾向にあります。
心理的影響
バブル経済を経験した親世代や、それ以前の高度成長期を支えた世代と比較して、「取り残された」という感覚を抱いている人が少なくありません。
格差社会の拡大
非正規雇用者や低賃金労働者が増加した結果、世代間や社会全体での経済格差が広がりました。
老後不安
ロスジェネ世代が40代後半から50代に差し掛かりつつありますが、十分な年金や貯蓄を持たない人が多く、老後の生活への不安が高まっています。
社会的孤立
長期にわたる不安定な生活から、家族や地域社会とのつながりが希薄化し、孤独死などの問題が指摘されています。
ロスジェネ世代の苦悩や孤独感は、日本の文学や映画、音楽にも影響を与えています。
村上春樹
村上春樹の小説には直接的に「ロスジェネ」という言葉は出てきませんが、現代社会の孤独感や不安定さを反映したテーマがしばしば描かれています。
荻原浩『明日の記憶』
バブル崩壊後の不安定な社会の中で、中年世代とロスジェネ世代の葛藤や人間模様を描いた作品。
映画『フリーター、家を買う。』(2010年)
非正規雇用の問題をリアルに描き、ロスジェネ世代の生きづらさを反映した物語。
音楽(宇多田ヒカル、椎名林檎など)
1990年代末から2000年代初頭の音楽は、閉塞感や社会への漠然とした不安を表現した歌詞が多い。
再チャレンジ政策
2000年代以降、政府はロスジェネ世代向けの職業訓練や再就職支援プログラムを実施しましたが、抜本的な解決には至っていません。
雇用対策
非正規雇用の待遇改善や、正規雇用への移行を促す施策が進められています。
社会運動
ロスジェネ世代自身が声を上げ、格差是正や生活支援を求める動きも見られます。
現代におけるロスジェネ世代の存在意義
ロスジェネ世代は、社会の構造的な問題を浮き彫りにする象徴的な存在です。この世代が抱える課題を解決することは、個々人の生活を改善するだけでなく、日本社会全体の持続可能性にも関わる重要な課題といえます。
追記2
シャーウッド・アンダーソン(Sherwood Anderson, 1876–1941) は、アメリカの作家であり、小説家として知られる一方で短編小説の形式を革新した作家としても評価されています。彼の作品は、アメリカ中西部の小さな町に生きる普通の人々の心理的な葛藤や孤独を描くことで、文学に深い人間味を与えました。
心理的リアリズム
アンダーソンは、キャラクターの内面世界や感情を繊細に描写しました。彼の作品は、行動よりも内面の葛藤や抑圧された欲望に焦点を当てるのが特徴です。
中西部の描写
アンダーソンの作品の多くは、アメリカ中西部の小さな町を舞台にしており、産業化や都市化の影響を受けた社会の変化を反映しています。
孤独と自己発見
彼の登場人物はしばしば孤独を感じながらも、自分自身や人生の意味を見つけようと模索する過程が描かれています。
素朴で詩的な文体
簡潔でありながら詩的な表現が特徴で、読者に情景や感情を強く印象付けます。
『ワインズバーグ・オハイオ』(Winesburg, Ohio, 1919)
アンダーソンの代表作であり、モダニズム短編小説の金字塔とされる作品集です。架空の町ワインズバーグを舞台に、住人たちの孤独や欲望、失敗を描いた連作短編小説です。各話は独立していますが、全体として一つの統一感を持っています。
主人公の青年ジョージ・ウィラードは、町の人々の話を聞くことで成長し、自分の人生を切り開こうとする物語の中心にいます。
『馬鹿者の行進』(The Triumph of the Egg, 1921)
短編集であり、日常生活の中の人間性や夢と現実のギャップを描いています。アンダーソンのユーモラスかつ洞察力に満ちたスタイルが光る作品です。
『貧しい白人』(Poor White, 1920)
工業化がアメリカ中西部の田舎町にもたらした変化を描いた小説で、農村の生活と産業革命の衝突をテーマにしています。
後進の作家たちへの影響
アンダーソンの作品は、後のアメリカ文学に多大な影響を与えました。特に、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・スタインベックなどが彼のスタイルに影響を受けています。彼の人物描写や心理的アプローチは、これらの作家の作品に引き継がれています。短編小説の革新
短編小説という形式を、単なる物語の枠を超え、キャラクターの内面や社会の象徴を描く場として再定義しました。
波乱に満ちた生涯
アンダーソンは生涯でさまざまな職業を経験し、工場労働者や看板画家、広告代理店経営などを経て作家になりました。この多彩な経験が、彼の作品にリアリズムと共感をもたらしました。
作家としての自己発見
彼は自身の「魂の自由」を求めて、安定した生活を捨て、書くことに集中しました。この選択が彼の作品に一貫したテーマとなっています。
シャーウッド・アンダーソンは、その詩的な文体と人間心理への鋭い洞察で文学界に革新をもたらしました。彼の作品はアメリカ文学におけるモダニズムの形成に貢献し、多くの作家や批評家から高い評価を受けています。
令和6年11月29日