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老人の夢と孤独ⅩⅩⅡ


(千葉のホテルで食事をする母と息子。)
母さん、僕、米国支社に行くことになりました。
・・・アメリカに?
はい。
行くの?
社命ですからね。
遠くなるわねえ。・・・どのくらい行くの?
三年くらいかな。でも、確約はありません。
出世コースなの?
どうなんだろう・・・保証なんてありませんよ。
彼女は?
難しいと思っています。
別れるの?
決めたわけじゃないけど、彼女に相応しい男は、僕だけじゃないでしょうから。
・・・・・・。
成り行きに任せようと思っています。
そう・・・残念ね。
母さん、人生は悪いことだけじゃないよ。
そうだと良いわねえ。アメリカの何処へ行くの?
西海岸です。エアで九時間くらいです。


父さんはどうしてる?
相変わらず、お酒飲んでるわ。でも、こないだホームセンターでね、枝切り機を買ってきた。庭木の枝が伸びちゃって、気にしているの。このところ暑いから、無理しないと良いわ。
父さん、サムライになり損ねたサムライだからね。
・・・?
サムライは息子に会いに行かない・・・息子がサムライに会いに来る、だって。僕に直接言ったわけじゃないよ。友達から聞いたんだ。無口で不機嫌で根暗な父さんにしては、面白い事を言うと思ってね。
・・・おまえ、英語できるの?
それなりの教育を受け、研鑽を積んできました。なんとかなるでしょう。
そう・・・。


(食事が終わり、レストランを出る。)
母さん、車を手配します。家まで乗って行ってください。
駅までで良いわ。
いいえ、僕の気持ちです。父さんへのプレゼントを頼んでいるので、少し待ちましょう。トイレ、大丈夫?
そうだね、行っておこうかな。
(母がトイレに立つ。その間に、頼んでいた日本酒が届く。)


(タクシー乗り場まで母に付き添い、3万円を渡す。)
母さん、車代です。
多いんじゃない?
余ったら、父さんと食事でもして下さい。
ありがとう。・・・元気でね。(息子の手を握る母。)
はい・・・母さん、僕は大丈夫だよ。


(妻がタクシーで帰宅する。)
ただいま、お父さん。
おかえり。
これ、息子からお父さんにって。
(ホテルの袋に入った日本酒の四合瓶が二本。)
嬉しいね。
今日は贅沢をさせてもらっちゃった。・・・夕食はどうする?
軽めで。・・・息子の酒を飲もうか。
はい。


あの子、アメリカに転勤ですって。
そうか・・・。
子供って、成長しなければ良いのに。
無茶なこと、言うなよ。
ハハハ、そうだよね。


(居間のテーブルで、酒を飲みながらの夕食。)
お父さん、今日は何をしていたの?
図書館に行って本を2冊借りた。それから散髪して、昼に冷やし中華を食ったよ。450円だった。
そう、けっこう動いたのね。昼間からビールを飲んでいると思っていました。一緒に来れば良かったのに。
うん、少し動かないと、だんだん億劫になるからな。
サムライは息子に会いに行かないそうですね。
ん?・・・俺、サムライじゃねえし。
でも、サムライになりたかったんでしょ?
否定はしないが、今の世の中、サムライでもないよな。
そうでもないんじゃない。
ハハハ、俺は、年老いた足軽だよ。
じゃあ、私は足軽の女房だね。
・・・不満かい?
いいえ。お父さんと一緒に居て、嬉しいことが少し、それより多い不満、それと大半は惰性でした。ほど良い人生でしたよ。
・・・大半は惰性か。
そうですね。でも、惰性も味わい深いものです。
それは良かった。


ねえ、お父さん、来世ってありますか?
うん。・・・母さん、来世には興味がなかったんじゃ?
今まではね。でも、だんだんありがたい世界に近づいてくると、少し興味が湧いてきました。・・・あと、人は生まれ変わるとか。
それは、輪廻転生だね。そういう考えもあるようだが、詳しくはない。ただ、人が生まれ変わるという考えは興味深いな。


お父さん、死ぬってどういうことなのかな?
さあ、俺、死んだことないから・・・解らないや。
死んだ人は答えてくれないし?
その通りだよ。死者は答えてくれない。想像するしかないんだ。
・・・痛い、苦しい、人としての尊厳を失い、家族の負担になる。私の乏しい想像力では、そのくらいです。
それは、人生の最後に迎える、死への過程だ。死の本質的な意味じゃない。


エムさんの奥様が亡くなったの、今頃だったよね。
八年前の6月だった。月日の経つのは早いもんだなあ。駅近くの斎場だった。あいつ、憔悴しきって・・・。
そうでしたね。もともと、表情に乏しい人だし。奥様の死を受け入れられなかったのかなあ?
うん。
最近は、明るいうちから、よくお酒を飲んでいるようですね。・・・お父さん、友達なんだから、忠告してあげたら?
・・・やめておくよ。あいつが自分の金で飲む酒だ。
そうですか。
俺さあ、若い頃、親父の飲酒を咎めたことがあったんだ。・・・言わなきゃ良かったと思ってるんだ。老境を迎え、さしてやることもない。そんな老人が昼間からビールを飲んだって、咎めることじゃない。
後悔しているの?
少しだけだ。たまに思い出すと、涙が出るよ。
はい。

   令和6年7月13日

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