楽園の狂人Ⅴ
1
{
(梅雨の合間の土曜日、気温が上がって蒸し暑い。戦略分析室での勤務を終え、帰宅する櫂。居間で、父が一人でビールを飲んでいる。)
ただいま、お父さん。
ああ、おかえり。ジョシュアの所じゃなかったのか?
振られちゃった。ABCクラブで飲むんですって。
そうか、残念だったね。
よくあることです。お母さんは、いつ帰りますか?
明日の夕方だって言ってた。
}
{
お父さん、休日出勤、減りましたか?
そうだね、そろそろ先が見えてきた。通勤も辛くなってきてるし。
良いじゃない、定年になったら楽すれば。
櫂、会社を勤め上げても、それでやり遂げられたとは思えないんだ。
どうしてですか?
・・・・・・。
エアコンを入れるわ。蒸し暑い・・・。
そうだね。おまえも飲むか?
はい。
}
{
ねえ、お父さん、明日のお昼、私が奢るわ。ステーキ、食べよ。
うん・・・。
明日は父の日だから、感謝の気持ちを表したいの。
櫂、必要ないよ。娘が父に感謝する必要はない。
まあ、そんなこと言わないで。お昼ご飯を一緒に食べるだけ。そうでしょ?
ああ、そうしよう。
帰りは、私が運転する。ビールも奢ります。
嬉しいね。
}
{
(母が実家に帰っている土曜日、父と二人で晩酌をする櫂。)
櫂、公園神の会って知ってるか?
はい。
知ってるのか。意外だな。
私に、今の家庭教師の口を紹介してくれたのが、隣町の東公園の神様です。公園神の会のメンバーです。
そうか・・・。年老いて、家出した人が居るそうだね。
はい、その方は第三公園の神様です。冬の夕暮れ時、スキットルにバーボンを入れて、家出した。翌朝、無人駅のベンチで死んでいたそうです。
ふ〜ん。
詳しいことは知りません。東公園に聞いただけですから。
そうか・・・。
シンパシーを感じているんですか?
そういうわけじゃないがね。
お父さん・・・お父さんはそんなことをしてはいけません。
しないよ。家で酒を飲んでいた方が良いからね。
}
2
{
お父さん、定年後はどうするの?
さあな、特に考えは無いよ。もう少し間があるからね。
準備しておいた方が、良いと思いますけど。
そうだね。まあ、なんとかなるだろうと思っているよ。
その時になって、慌てても遅いですよ。
櫂、僕はね、母さんの言う通りにしてきた。
そうなの?
まあね・・・。毎日、会社に行って、頑なに働いた。家庭のことは、母さんに任せっきりだった。純が死んだ時だって、母さんに頼りっきりだった。
・・・そうは思えません。お母さんこそ、お父さんを頼りにしていました。
そうかなあ・・・。母さんが入院した時も、あまり会いに行かなかったし。
でも、会いに行ったこともあったでしょ?
ああ、おまえと言い争いをした次の日だ。覚えているよ。
すみませんでした。
良いさ。退院間近だったなあ。その日の午後も出社した。能が無いことだ・・・。
お父さん、日本酒にしませんか?
良いね。
買い置きがあるの。持ってくるわ。
ーーーーーーーーーーーーーー
(櫂が自室から久保田の千壽を持ってくる。グラスを用意し、父の前に置く。)
どうぞ。
やれやれ、部屋飲みしてるのか?
いいえ、男友達が酒飲みなので、お父さんが好きそうなお酒を教えてもらったの。
浅瀬で溺れてる奴か。
ジョシュアよ。土曜日戦争のアビエーター、今は午後に飛んでる。気難しいのは、お父さんと同じです。
他に男は居ないのか?
目ぼしい男は、みんな結婚してる。
そうか。残念だね。
みんな、狡いよ。コマンダー、チーフK、ビリーだって・・・。
ビリー?
戦略分析室の上官です。私は、彼のアシスタント。奥さんと息子さんが居るの。幸せを独り占めしてる。
ハハハ、櫂、そんなことはない。そう見えるだけだよ。
}
3
{
(日曜日、ステーキレストランから帰る櫂と父。父はビールを飲んだ。櫂が運転する車を降り、玄関に向かう父の腕を櫂が取る。)
どうした?
良いじゃない、誰も見ていませんよ。
・・・・・・。
お父さん、私のこと、好き?
うん、言うまでもない・・・。
ーーーーーーーーーーーーーー
櫂、ちょっと出てくるよ。
どこへ行きますか?
第三公園まで・・・。
(玄関を出ようとする父の尻ポケットのスキットルに気づく櫂。)
お父さん、ちょっと待って。歩きながら、飲んではいけません。
ああ、これか。中身は水だ。水分補給だよ。
はい。(嘘ばっかり。)
じゃあ、行ってくるよ。
下の、田んぼ沿いの方が近いです。
解っているよ・・・。
お父さん、携帯持った?
うん、大丈夫だ。
}
{
(居間のテーブルでコーヒーを飲んでいると、母から電話が。)
櫂、いま東京なの。お父さんにお土産を買えなかった。何が良いかな?
お酒でしょ。千葉の駅中で買えます。
そうなの?
はい。
どんなお酒を買えば良い?
獺祭かな、不動でも良いです。駅中の専門店ならありますよ。
お父さん、どうしてる?
散歩に行っています。もうすぐ戻ると思います。
そう、悪かったわね、お父さんを押し付けちゃって。
いいえ、今日はお父さんとお昼を食べたの。お母さんの分はテイクアウトしました。
ありがと、じゃあね。
駅まで、迎えに行きますか?
バスで帰るわ。それまで家に居てちょうだい。
はい。
私が居ない時は、あなたがキーパーだから。
}
4
{
(居間に掃除機をかける櫂。父が帰宅する。)
お帰りなさい、お父さん。
ただいま。案外、距離があったよ。
第三公園はどうでしたか?
思ったより広かった。遊具は少ない。誰も居なかった。住宅街の外れの細長い公園だった。神様も近くに住んでいたのだろうがね。いやあ、喉が渇いたよ。
(冷蔵庫から缶ビールを取り出し、飲み始める父。)
お父さん、スキットル、洗います。
ああ、すまんね。
お母さんから電話がありました。
そうか。
もう一時間もすれば帰ってくるでしょう。お父さんに日本酒を買ってくるそうです。
そうか、嬉しいね。
銘柄を聞かれたので、獺祭か不動と答えておきました。
そんな贅沢をしなくても良いのに。
二日も家を空けたから、ごめんねって気持ちを伝えたいのだと思いました。
うん。
(缶ビールを2本空けて、自室で昼寝する父。「お父さん、けっこう飲むなあ。スキットルの中身、ジンだったし。」)
}
{
(玄関周りの草を抜き、入り口を掃いていると母が帰ってきた。)
ただいま、櫂。
お帰りなさい。ご苦労様でした。
久しぶりの実家は、疲れるわ。でも、行って良かった。ありがとね。お父さんは?
散歩から帰って、ビールを飲んで、昼寝しています。
相変わらずね。そうだ、お酒買ってきた。見てくれる?
はい。・・・お母さん、両方買ったの?重かったでしょ。
リュックに入れたら大丈夫だったわ。それより、良いお値段するのね。
はい。
お父さん、どこへ行ったの?
第三公園です。
どうして?
さあ・・・。
やっぱり、あの事が気になっているのね。
あの事?
第三公園の神様・・・。
お母さん、知ってるの?
・・・噂になったからね。徘徊の末の行き倒れか、覚悟の上の自死か、とかね。
}
5
{
櫂・・・私、お母さんに会ってきた。
お婆様に?
そう・・・施設に入るんだって。その前に、会いに来いって兄に言われたの。お母さん、私のこと、判らなかったわ。
そうですか。
とても辛いと思いました。
はい。
人は壊れるからね。・・・私、良い娘じゃなかったし、謝罪する機会を失った。
・・・お母さん・・・。(思わず母の手を取る櫂。)
ごめんね、愚痴っちゃった。(母が娘の手を握り返す。)
・・・・・・。
そう言えば、今日は父の日ね。それで、お父さんと昼食を食べたの?
はい。感謝の気持ちを伝えたいと思いました。でも、感謝は必要ないって言われました。
櫂・・・お父さん、嬉しいのよ。
そうですか・・・。
}
令和5年6月22日