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雑木林キャッスルRー8
1
{
(G宅を訪れるスワン。老妻が玄関の扉を開ける。)
あら、スワン・・・こんにちわ。
こんにちわ、G先生はいらっしゃいますか?
あいにく散歩に出掛けています・・・スワン、入って。
(躊躇するスワン。)
どうしたの?・・・こんなお婆ちゃんじゃ役に立たない?
いいえ、そんなことは・・・。
いらっしゃい・・・入って。
はい。
(居間のテーブル。促されて椅子に座る。老妻が紅茶を用意しながら話しかける。)
エムさんはどうしていますか?
お爺ちゃんは、自分の部屋に閉じ籠っています。
何をしているのかしら。
多分、お酒を飲みながらメモ帳に書き物をしています。
メモ帳?
・・・A4版の黄色いメモ用紙です。
何を書いているの?
文字を頼りに、自分が誰かを探すんだって言っています。
面白いわ・・・さあ、どうぞ。(紅茶とクッキーを乗せた小皿を置く。)
ありがとうございます。
(スワンの様子を窺う老妻。)
お爺ちゃんは、自分は誰でもないと言っています。
誰でもない・・・アイデンティティ・クラシスね。
・・・・・・。
人は、自分は自分だと認識します。あなたもそうでしょ?・・・自分は自分なんだって。
そうかもしれません。
・・・自信がないの?
私は高校3年で・・・お爺ちゃんに助けられて、なんとか生きている。父が家を出て母が入院した。精神病院です。一人になって、家で途方に暮れていた時、お爺ちゃんが助けてくれた。G先生のおかげで土曜日戦争に参戦し、お金を手にすることができるようになって、大学の学費も用意できた・・・。
じゃあ、安心ね。
そうは思えません、いつ困難が襲ってくるかわからないから・・・。
起こってもいない困難を不安に思うことはありません。
はい。
困難は起こった時、困難になるし、未然に防ぐことはできない。暗闇の中を手探りで歩いていくのが人生だから。
ーーーーーーーー
スワン、ボーイフレンドは居る?
はい。
どんな人?
・・・背が高くて・・・イケメンじゃありません。大学に行っています。
彼のことが、好き?
彼は、私のことがまだ好きだと言っています。
あなたはどうなの?
解りません。
自分の感情なのに?
もっと気になる男子がいるから・・・。
誰?
この近くの屋根裏部屋に居ます。
デビッド?
はい。でも、彼には女友達がいる・・・エコーってアグレッシブな娘です。彼等には強い絆があって・・・私が入る余地はありません。
そう、辛いわね。
彼は、振り向いてくれない。
}
{
スワン、雑木林キャッスルって知ってる?
いいえ、初めて聞きます。
隣のY市の雑木林を切り拓いた所にね・・・大きな建物がたくさん建っているの。不審に思った市民が情報開示を求めて市民運動を始めた。市外から活動家が加わって、隣接地に見張り小屋を建てた。その彼は昔の知り合いでね・・・運動に加わらないかって誘われた。
加わったの?
いいえ・・・様子を見に行っただけ・・・見張り小屋に2泊して帰ってきた。
・・・・・・。
私の人生は、父母が望むようなものじゃなかったって再認識した。今更遅いんだけどね・・・ほろ苦いわ。
}
{
お父さん遅いわね・・・電話してみようかな。
はい。
(携帯での短いやりとり。)
隣の駅あたりに居るって。
散歩にしては遠いですね。
そう・・・4kmほどかな・・・でも大丈夫よ、お散歩カードを持たせているから。
お散歩カード?
・・・連絡先が書いてあるの。何かあったら、このカードを見せなさいって言ってある。
でも、ずいぶん遠くまで行ったんですね。
自分はどこまでも歩いて行けると思いたいのよ。実際にできることと、できると思うことは違う。どちらが大事だと思う?
さあ・・・。
出来ると思うことの方が大事・・・能力の高い怠惰な人より、錆びたレンチを手にする決意の固い人の方に価値があるそうよ。
}
{
(Gが帰宅する。)
スワン、来てたのか。
留守中にお邪魔してすみません。
かまわんよ、この家の主は女房だ。すまんが、俺は自室で飲酒と喫煙だ。ゆっくりしてってな。
はい。
(缶ビールとグラスを持って2階に行くG。)
放っておきましょう。彼は飲みたいの、焼酎やウヰスキーもね・・・ペットの水も用意している。
そうなんですか・・・。
そっちの方には・・・頭が働くみたいね。
止めないんですか?
何を止めるの?
過度の飲酒は健康を害します。
そうね、でも良いじゃない、人はいずれ死ぬんだから・・・飲みたいだけ飲んで、死ねば・・・。
同意できません。
気持ちは解るけど・・・彼は努力して生きてきた、もう良いわ。人生に何を捧げなくてもかまわない。充分とは言えないかもしれないけど、忍耐もしてきたから。
G先生は何を我慢したんですか?
私のせいで、肩身の狭い思いをさせちゃった。
悔やんでいますか?
いいえ・・・家のローン、子供たちの学費・・・仕方がなかったのよ。節約しなければならなかったから。
できたの?
幸運なことに、なんとか乗り切ることができた・・・私達は充分生きたわ。
G先生もそう思っていますか?
解らない、別人格だから・・・。
夫婦でも?
}
{
帰ります、お爺ちゃんが心配なので。
スワン・・・いつでも来てね。
ありがとうございます、G先生に、よろしくお伝え下さい。
言っておくわ。
}
2
{
(エム宅に帰るスワン、エムの部屋に入る。)
スワン・・・出掛けていたのか?
はい、G先生のところに・・・。
奴は居たのか?
いいえ・・・先生は散歩に行っていて・・・奥様と少し話を。
散歩か・・・。
それが、隣の駅まで。
う〜ん、坂を上り、やや下り・・・遠いなあ。帰りは上り坂だ・・・俺ならやめるな。
でも、G先生は行きました。
・・・・・・。
お爺ちゃん、なんで部屋に閉じ籠っているの?
説明が必要か?
・・・いいえ・・・お爺ちゃん、ジョー・ブスケって人、知ってる?
まあ・・・残念ながら面識はない。
ハハハ、良いリアクションだね。ブスケはフランス人で1950年に死んでいます。
それじゃあ会えるわけないな。
彼は、21歳の時、戦争で身体の自由を失い、残りの人生を鎧戸に閉ざされた部屋の中で過ごした。30年余りも・・・シモーヌ・ヴェイユは彼に会ったことがあるんですって。
}
{
スワン、俺はマイナーだ。
マイナーって、二流か三流ってこと?
違う・・・鉱夫だよ。
何を掘るの?
金塊かな・・・。
良いね・・・夢がある。
ハハハ、儚い夢かもな。
でも、無いよりは良い。
そうかもしれないが、無いほうが良い夢もある・・・人は夢に裏切られる。
否定はしません・・・彼、私のことがまだ好きなんだって。
・・・文学部の先輩だった男か・・・おまえのナンバー2の。
お爺ちゃん、私は男に順番はつけないって言ったでしょ。
そうだったかな。
しらばっくれて・・・。
老人の特権だ、ボケてるわけじゃない。
だと良いけど・・・ねえ、お爺ちゃん、自分の感情を露わにするのって恥ずかしいね。
俺もだよ・・・どうした?
}
{
どうしたってこともないんだけど・・・あれこれ考えちゃって、眠れないことがあります。
生きていくためにはモデルが必要だ、他人に自分を擬えて生きていく。そういう意味では他者に頼って生きているとも言える。自分一人で生きてくのは難しい。なんの頼りもなく生きていくのは、大海を漂流する小舟のようなものだ。不安になる・・・人生にも羅針盤が必要だ。人生の羅針盤て、神話か?・・・宗教か?・・・それともヒーローかな。おまえはどう思う?
良く解りません。
スワン、俺は誰でもない。
・・・お爺ちゃんは、お爺ちゃんでしょ?
うん、俺は俺だが誰でもない。
・・・禅問答みたい・・・それで自分が誰か解ったの?
未だ闇の中だな・・・俺はよう、自分の歳を考えると驚く、70年以上生きてきたことに驚く。まあ、余命はそんなに長くはないだろう。
死ぬことが怖い?
・・・実感はない。
誰でもない自分のまま死んでも?
そうだなあ・・・子や孫が・・・誰かになってくれるかもと思えば良いじゃないか。スワン、おまえもな。
私?
ああ、期待しているよ。
・・・私には期待しないで・・・。
そうか・・・すまんが一人にしてくれ・・・。
・・・お爺ちゃん・・・気分を害した?
(スワンを見ずにボックスからタバコを取り出し、フィルターをライターに打ち付け、火を付けるエム。)
そんなことはねえよ・・・少し・・・夢を見たいだけだ・・・一人でな。
お爺ちゃん、人生って何?いつか、誰かが来て教えてくれる?
・・・スワン、そんな者は来やせんよ。
}
令和7年2月15日