森直久『想起』読書会でした

『想起』読書会、盛会でした。
まずは森先生による詳細な自著解説。
強調されていたのは、想起が特別な形での「知覚」だということ。自己の二重化つまり、「かつての私」と、かつても含んだ「いまここ」のあいだでの隔たりということができるでしょう。

そして大澤真幸の『身体論』にも依拠しながら以下のような、身体にもとづく三種のプロセスを分類。

「分化する自己(環境と自己の即応=抑圧身体)」再認、プルースト的想起
「分化を生み出す自己(環境と自己の分離)=集権身体」 再生、エピソード記憶
「分化した自己の調整を行う(自己による自己の操作)=抽象身体」

そして痕跡論と構成論との対立に、過去の自分とそれを「知覚する」現在の自分という二重の身体観にもとづく生態学的想起論を提示する。

私個人の関心としては、記憶の叙述のリアリティがどのように支えられているか、という点に興味があったのだが、その点も語りが「環境」と接しているかどうかに焦点を当てていたのも印象的。それは、観察する自分が周囲の環境から切り離されているのでなく、そこに織り込まれていることを強調していることとも関連しているように思われた。

そのリアリティを森先生は「予期しないもの」の出来(しゅったい)と関連づけて、VRやホラー映画を例に挙げていたことも興味深かった。

それは他人のナラティブを聞いたり、共有することの効果や意義にも話がおよび、サトウアヤコさんの「日常記憶地図」でのある種の「ケア作用」が生まれていることも触れられた。

阪神大震災の「語り部」の語りを聞いて、場所の「当時」と「いま」のイメージが重ね合わされ、その「重ね合わせ」が他者と想像的に共有されている事例も紹介された。

私にとっての一番の収穫は、体験を語ることで、その「語り」がじこにとっての「自生環境」を生み出すというかなりポジティブな作用を打ち出していたことで、森先生がそれを「ビーバーがダムを造るようなもの」と印象的に形容していたことだった。

記憶にまつわるさまざまな活動に関わる方々の事例を聞くこともでき、今後の題材もたくさん得られた会だった。

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