刃物を持つ男
表参道、午後15時。
行き交う人のギラギラした空気を感じながら、目的もなく歩いていた。
この街はいつ訪れても爪先立っている。誰もが、その空気の一部であるかの様にふるまっていた。それを求めない人間には、ただの虚無に過ぎない。それでも、何かを感じたくて私は通りを歩いていた。
AppleStoreの前だったと思う。背後から声がした。男性から声をかけられた。彼の何かに引きがあった。面倒臭い気持ちもあったが、その人物の誘導されるまま、歩みを進めていた。
渡された名刺には、フランスの住所が書いてあった。Kという人物は、写真を撮りながら無遠慮に自分を語り始めた。
真っすぐに向けられる視線が、不思議と心地良かった。言われるがままに、連絡先を交換し、次に会う約束をした。
”嫌になったら適当な理由を付けて断ればいい”
その程度の軽い気持ちだった。
私はごく稀にこの種の男性を引き付けてしまうらしい。
数年前、メゾンエルメスで出会った映画監督の男性を思い出した。その人物とは、何度か身体の関係があったが、ハッピーエンドには至らなかった。アーティストというのは我が強い。決して付き合いやすい相手ではないと、過去の経験から分かっていた。
数日後、彼が日本に帰国するタイミングで会う約束をした。
場所は六本木のグランドハイアットだった。ホテルのロビーで座っていた彼を見つけたのは、約束の時間から3分経過していた。
慌ててロビーに出た私は、微かな記憶を元に彼の姿を探した。ラウンジのソファで佇んでいた彼はまるで”膠着した人形”のようだった。周囲の喧騒を無にする様に時間が止まっていた。スタイリッシュなスーツの中に身を包んだKの姿は、そのホテルに良く合っていた。初めて会った時の、ラフな印象が思い出せないほどだった。私を見つけた時の,彼の表情はとてもこわばっていた。人形の様に、無機質だった。なぜ彼がその状態でいる必要があったのか分からないまま、6階にあるBarに向かった。
オークドアのラウンジのバーカウンターに向かった。私とK以外には誰もいなかった。長い長いカウンターバーの端で、ぎこちない空気を携えたまま、自分の居場所を探していた。
Kのスタイルは、教科書の様に正確だった。身体に沿ったスーツのシルエット、シルバーのピアスに、エルメスのジェーンヌダルク、ダブルフィンガーのリング。全てに物語があり、調和を奏でていた。
徐々に私はとんでもない美意識を持つ男と対峙しているのだと緊張を覚えていた。彼の語る話は真実なのか嘘なのか、嘘であれば、なぜそんな必要があるのかわからない様な異世界の話だった。そして、私は酔いかけていた。その空気に。彼の放つ、何かに。いや、むしろ酔いたかったのだ。飢えていた、美しい存在に。
彼の生い立ちを一通り聞いたあと、私は自分の中に訪れている変化を楽しんでいた。それは明らかに”刃物”だった。
彼を通して感じる感情が新鮮だった。こんなに鋭い視線を浴びせてくる人物になかなか出会うものではない。
「私はあなたを300倍美しくする事が出来ますよ」
自信たっぷりにKは私に言い放った。すでに話し始めてから、
3時間が経過していた。2杯目のコーヒーの底がみえかけた時、カウンターを後にした。
ホテルのエントランスに出た時、オープンカフェの男性と目が合った。私たちは見られていた。そんな、あからさまな視線が実に心地よかった。
Kは別れ際に私を抱き寄せて、頬にキスをした。欧米式の挨拶なんだろう。滑稽なほど自然で、滑稽なほどに偽りだった。映画のワンシーンの様に。
彼と別れた後、見上げた先に映ったショーウィンドーの自分の顏は驚くほどに美しかった。えぐられていた、何もかも。溜息がもれた。虚しさと共に。歩きながら私は想っていた。
その3日後だった。私は答え合わせをするために、私は青山のBarに居た。
寒い寒い日曜日だった。表参道のMaxmaraで待ち合わせて、10分程歩いた。
白ワインと共にカウンターで聞こえる彼の言葉は、相変わらず”嘘”か”本当”全く分からなかった。それでも、背中に触れた手の奥から伝わってくる温もりが皮膚を超えて私の中に入ってきた。
惰性ではなく、怠惰でもなく、戦いでもなく。
目の前の相手に身を任せる事を久しくしてこなかった。それは、恐れからなのか、プライドからなのか。
Kと私はよく似ていた。全てを燃料にしてまでも、自らを輝きたいと願う、度し難い生き物なのだ。実に小さい。だからこそ、強くて美しい存在にひたすら憧れるんだ。
タクシーに乗った後、貪りあうようなキスをした。
まるでお互いの存在をゼロにするような、暴力的なキスだった。
自分にさえも、飢えていた。
彼の首に手をまわして、私は溺れていた。目の前にある存在の、「本当か嘘か」分からない欲望のままに。ただ、ひたすらに、身体の底から訪れる零れ落ちるほどの快楽を受け止めたかった。
ベッドの中でまどろみながら、噛みしめるように彼は私に尋ねた。
無意味な会話だ。
それから先は疲れていたせいか、眠ってしまった。目が覚めた時、時計の針は4時を指していた。酔いがさめてしまった二人に残されたものは、滑稽な現実しかなかった。
Kは最後まで私の名前を呼ばなかった。
それが答えだ。
十分だ、今の私には。
きっと半年後には、忘れているんだろう、この瞬間を。
一週間後に、当たり前の様にKの部屋に行った。彼はここにいるようで、ここに居なかった。むなしいSEXのあと私は心が冷えていくのを感じた。Kの寝息を聴きながら、先週の世界がまるで虚無の様に、目の前の光景が滑稽に思えた。苦痛だった。ただ、ひたすらに苦痛だった。私はKを好きになってしまっていた。この男の香りが、無遠慮に私の自我を破壊していく。実に心地よかった。そこには、何の束縛も無く、ただ無責任に自由だった。
朝6時。まだ薄暗いうちに、身支度を始めた。寝息をたてるKの背中を見つめながら、
私はまだKを求めている事に気がついた。
問いは無かった。答えも無かった。
終止符を打つのは簡単だった。微かに疼く欲望を消すために、そっと、重たい扉を開けて部屋を後にした。
忘れる前に、ただただあの日の自分を思い出す。
あなたが歩みを止めてしまうほどに。
Kから答えはかえってこない。永遠に。
虚無だ、繰り返す。分かっていても、また私は、あの日の甘い貪るようなキスを求めるんだろう。そして、訪れる虚しさを代償に味わう。
あの寒い夜のBarカウンターで私はKに伝えた言葉がある。
ジレンマの世界に我々は生きている。
永遠に満たされない幸せを抱きながら、他の幸せを夢見る。
残されたのは、彼の香水の匂いだけだ。
溺れてしまうような甘い、動物の香りだった。
残酷なほどに、狂おしく美しい、その存在にひれ伏す。