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痛みに強いということ

 私は痛みに強い。
それは幼い頃からずっとそうだった。

 例えば、まだ小学校低学年だった頃、私の足にはイボがいくつもあった。
そして、2つ上の姉も同じく足にイボがあった。
 経験している人はわかるかもしれないが、その治療法は、液体窒素でイボを焼くこと。
言わずもがな液体窒素の温度は-196度。かなり冷たく、それは強い痛みとして私たちを刺激する。

 けれど、当時の私は泣かなかった。それは、泣いてたまるもんかという意地もあったと思う。
一方、姉はギャン泣き。

 さらに、幼い頃の私は好奇心旺盛で、近所の公園の山から転がって落ちてみたり、滑り台を頭を前にして滑ったり、自転車でウィリーに挑戦してみたり。その度に大きな怪我をして、泣きもしたが、次の日にはケロッとし、危機感をどこかに置いてきたかの様に、毎日怪我をして帰ってきては、両親をヒヤヒヤさせて笑っていた。

 また心に関しても、相手に何を言われようがほぼ聞き流し。自分の目標があれば、それしか見ていないので、誰かに傷つけられるということは、ほぼないし、自分を傷つけるものは許さない、という気持ちで生きてきたから、自分自身がいつでも味方になっていた。


 しかし、大人になると誰かが痛みを訴える姿を多く目にする。
それは私が周りを見る、という社会的人間になってきたことの現れ。

 でも、昔から痛みにはめっぽう強かった私だから、人の痛みを共感することはどうやっても難しい。
多分、同じ状況に置かれたとして、私は痛みを感じることができない。

相手の痛みがどれくらいの、どんなものなのか、どんな言葉をかけ、どんなことをすればそれが和らぐのか、わからない。
「それだけで痛いの?」本音を言えば、そんな残酷な言葉しか出てこないだろう。
同調したとしても、それは気遣いであり、偽物の共感。

それが痛みに強い私の、たった一つの弱み。


写真:ちーちゃん




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