手首から先

タイトルはつけることができない。タイトルがわかるのは最後になってからだ。小説の中の登場人物のように、わたしはキーボードを指で押す。窓からは午前中の最も美しい光が差し込んでいて……今が最も美しい。午後からはどういう光になるかもしれない、今も、美しい。キーボードを押しながら思う。

わたしが書きたいと思ったのは、言葉に触れてみたかったから。こうして書いていると、言葉に触れた、心の表面が、言葉が持つ音によって際立って、そして言葉の感触も、昨日や今まで書いてきたものとは実は違ったのかもしれないと思う。

よく朝に、昨日の夜に書いた文章を直していると、昨日の夜に書けていた感覚が、今日の朝には全く通用しないことに、驚く。無駄な言葉を使っていたり、繰り返しだとも思わなかったところにくり返しが潜んでいたり、順番がねじれて絡まっていたりする。多分今日書いた文章もそういうことなんだろう。

小説を書いているけれども、小説とは何か考えている。散歩して書くための道具を持ち出しても、書く場所が見つからなくて、家に帰ってきてしまう。歩いていた時のわたしはいったい誰なんだろう。

書いたそのままを写し撮りたくて、手書きで書いたままの小説をキーボードに書き起こしてそれが作品だとしたことがある。書かれた筆跡そのものが小説だと言いたかったが、そのままだとどこにも投稿できなかった。けれども書いたノートを、誰か一人にて渡せればそれで良かったのかもしれない。

書いた文章を削って、直して、キーボードでも書いて、ペンでも書いて、紙にもアイデアを書いて、歩いて、寝て、本を読んで誰かの言葉が残ったまま書いて、続けられた小説はそれでも小説なのだろうか?
動かしている手の手首から先が違うだけ?
小説とは、抽象的な言葉の結晶のようなものなのだろうか?
だから、電子書籍も、本も同じ内容なのだろうか?
それとも、どこまでも、それがそうであるしかない何かなのだろうか。

できることなら、あなたと一緒にペンを持って、同じ文章を書きたい。コックリさんのように。書いている間の一緒の時間を、書けない時間を過ごして、それが小説だったら素晴らしいのにと思う。それはもう、書きたいことを書くとか、表現したいものを表現するとか、どうでも良いのだ。何せ、全ての言葉が、もう消せない何かとして紙に跡を刻みつけるだろう。

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