グラウンド
「それでは、ゆっくりと目を開けてください。」
シータの声が頭の中に染みるように入ってくる。一面の青空は、鮮烈にわたしの網膜を焼いた。呼吸への意識がほどかれる。体の軸がぶれて、足を動かすと、足の裏の草の感触が蘇ってきた。
ルナがゆっくりと瞬きをしてわたしを見上げる。彼女はわたしの足に捕まりながら、小さい足でしっかり立っている。
「座りましょうか」
シータが、白衣の裾をたたみながら腰を下ろす。わたしたちも座る。地平線が近くなる。風が吹く。草原の草たちが激しく海のようにうねる。わたしたちを飲み込まんばかりの景色だ。けれども、わたしはこの世界を信頼している。こうしてゆっくり呼吸をしたあとでは、体を信頼している。
「落ち着きましたか? 重力を感じて、ゆっくり呼吸をすること。それがグラウンディングの基本です。」
シータは微笑みながら手のひらを上に向ける。完璧に整った笑顔は、嫌みっぽくなく美しい。わたしは、声を出す準備をしていなかったから黙って頷いた。隣に座るルナは、ぼんやりと正座をして、焦点の定まらない目で空を見ていた。
「落ち着いた? ルナ。」
シータに声をかけられて、ルナははっとしたように目線を揺らした。そして、しばらくぶりに言葉に反応して頷いた。わたしはそのわずかな首の動きで、彼女のどんな小さな動作でも愛おしいと思っていたことを思い出して、泣きたくなった。
「これから少しずつ感じ取っていく練習をしましょう。」
「はい。」
「それでは」
シータがさよならをする。わたしも胸の前で手を振る。微笑む時に首を傾ける動作に小さな水色の花が咲くような余韻を感じる。その度に彼女の中にいるのはどんな人なんだろうと、少し想像する。
ね、ままってよんでい?
かつては糸で綴じてあった紙のノートは、今はページの根元のどこを探しても糸はない。物からつなぎ目が失われ、重さもなくなっていく。わたしは、ランドセルに国語のノート、算数のノート、社会のノート、理科のノートを入れた。昔、ノートは糸で閉じられていて、ページを破ったり、折り曲げたりして遊ぶことができた。ルナのつるつるとしたピンク色の表紙の国語のノートは、つなぎ目がなく一ページだけつまんで吊り下げると、ふわりと空中に円筒の形になってタンポポの綿毛のように広がる。
「ママ、何やってるの?」
わたしの膝の上でルナがくるりと仰向けになり、ピンク色の綿毛を見上げる。彼女の目に電灯の明かりが星のように散らばる。その生まれたての目には何が映っているのだろう。想像してしまう。子どもの頃は、天井の電灯をよく見ていた記憶がある。祖母の家の紐がぶら下がった丸い蛍光灯、父と母と暮らした実家のドーム型のカバー。寝転がって天井を見てぼんやりと過ごした。あの、何でもない時間。
「タンポポの綿毛、みたい」
「ほぉ~」
いつかのワールドの散歩で、どこまでも広い平原をルナと一緒に走ったことを覚えている。寝っ転がって空を見た。わたしの体はどこまでも軽いのに、風が草原を揺らしていている空間に静止していた。一つ一つの草は近くで見るとピクセルの粒子が確認できるぐらい単純なオブジェクトなのに、一度に視界の全体にある草原が一斉に揺れると、とてもリアルだった。そして、地平線と広い空を包む雲の線がわたしたちを見守っていた。
「見て、タンポポの綿毛があるよ。」
最初に教えてくれたのはルナだった。
「明日の国語の課題は終わった?」
「うん。バッチリ!」
ルナがわたしの膝の上でグーサインを出す。彼女から初めて、「ママ」と言われたときのことを覚えている。わたしの心の中にまだ熱を持ったまま残っている。「ねえ、ママって呼んで良い?」それは、ワールドの中で何度も彼女に会いに通って、頭を撫でている日々に終わりを告げた言葉だった。
正確には、「ね、ままってよんでい?」と彼女は舌足らずにかわいい声を出した。その声がいつも聞いている彼女の音声とは別の聞こえ方がした。いつもかわいいと思っていたのだが、そのかわいさは一般的なかわいさであって、わたしだけのものではないと思っていた。でも、そのときの彼女の「ね、ままってよんでい?」という声は、わたしの奥深くの感覚に届いてちゃんと響いた。そしてわたしにそれを感じられる何かが残っていたことに、少し驚いた。
プレイルームの黄色い壁に囲まれてわたしたちは二人きりだった。クッションの上に座って、ルナはスポンジの大きな積み木を一生懸命に組み立てて、そしてそれを壊す。わたしは積むのを手伝う。そしてまた繰り返す。その繰り返しの中で疲れた時だった。
「うん。」
わたしは頷いた。そうしたら、次の日の夕方の昼下がりに、チャイムが鳴った。開くとドアの前に、ルナが立っていた。「ただいま」彼女は当たり前のようにそこにいた。そのときだって、わたしはちゃんと「お帰り、ルナ」と答えることができたのだ。
「そっか、褒められると良いね」
会話をしていると、すっと熱が冷めて浮ついていた感覚がかみ合ってくる気がする。わたしは記憶の中から言葉を取りだして、話すことができてしまっている。
そうして、明日の朝の学校の準備をして、ルナは眠った。ルナの寝顔を手のひらで触れる。重さのあるもの。いや、ルナがこの家に来る前から、ルナはわたしの中で重さがあったはずだ。
静まったリビングで一人、耳に手を当ててイヤホンの音楽を再生する。宇多田ヒカルのか細い震える声が聞こえてきた。喪失の予習。いつもそう思う。薬を飲むようにわたしは聞いている。音楽性の殻に包まれた喪失。それは時に心地よいダンスにシュガーコーティングされていたりする。わたしは日常的にコーティングだけの薬を服用する。空白が入っている薬。けれども、それが体の中で溶けたあとに、プラシーボ効果で効いてくる。なにも感じないのが圧倒的な体験のような気がする。思い返すと初めて彼女の音楽を聴いたのは、とても昔だ。今でもユーチューブで無料で聞ける。ルナが寝静まったのを待って、わたしの耳の奥で耳鳴りのように聞こえてきた。
わたしは起きて、学校に行くルナを見送ったあと、支度をして駅に向かった。街からは薄い味がする。子どもの頃よく家族で来ていたファミリーレストランのドリンクバーのココアみたいな。砂糖とチョコの味はするのに、どこか偽物のようで、優しい深みがない。それはわたしが、この街の背景にいる人の動きを想像するのが難しくなったからかもしれない。継ぎ目のない製品が並んでいるコンビニと薬局、どこかで食べたことがある味のする商店街に並ぶお店。名前があって、その人の顔が思い浮かぶ味がするお店は数えるほどしかない。
階段を降りて、タイル張りの改札までの道を歩く。通り過ぎる人たちがいる。電車の中でまた宇多田ヒカルを聞く。氷柱のように凍ったか細い声は、昨日と同じリズムで音そのものになり一滴ずつ解けていった。もし、電車の中で、渋谷のスクランブル交差点の中で、彼女が歌っていたとしたら、わたしは気がつけないだろうと思った。
秋葉原駅に到着したことを、電車内の磁気アナウンスがわたしのイヤホンに干渉して割り込んでくる。電車から降りて、電気街の出口に向かう。季節がまた変わると、駅前に浮かび上がってくる広告の美少女たちが入れ替わり立ち替わり、装いを変えて道行く人たちに声をかけている。今日は、テントの前でピンク色の髪の少女がキャンプをしていた。晴れた秋の空の下。
秋月電商のシャッターは閉まっていた。まだ、中村さんは来ていないようだった。わたしは脇の階段から二階に上がって、ドアを開けた。ドアを開けると、電気の消えた部屋にスピーカーや、半田ごてや、工作キットのささやかなデザインの箱が浮かび上がる。レジの奥にあるドアを開けて、事務室に入る。そこには四方の壁にびっしりと紙にプリントされた部品の表が貼り付けられている。
わたしの続けていること、それは記録をとり続けること。数字の形で、人々が買っていった電子部品の種類とその数を記帳する。秋葉原の片隅で、ひたすらキーボードを叩きながら記帳している。生きるためと言うより、いつか死んでしまうことへの抵抗。何が残るのか、と考える。
けれども、この店で何かを買っていった人たちの行動の記録はここに確かに残っている。わたしはこれで収入を得ているけれども、働かなくてお金がなくなる心配よりも、わたしがいつか死んでしまうということを心配している。心配するというより、いつも気にしている。食っていくより重要な問題に思える。いや、食っていくのも死なないためだ。死なないために生きても、いつかは死んでしまうのだから、それについての対処を考えて良いはずなのに、わたしがそういうことを言うと、中村さんは「深刻だねぇ」とわたしの肩をぽんと叩く。
中村さんの影を感じながら、わたしは記録を取るために購入した有線接続のキーボードを叩きながら数々の品名とその数を記録しいていた。昨日の分を、今日の朝に記録すれば終わるぐらいの、とてもささやかな数だった。
しばらくして、背後のドアが開く音がした。振り返ると中村さんが立っていた。中村さんは、入るとすぐさまアバター装着のサインを出してきて、わたしはグラスの右側にあるボタンの突起を探して、フィルターをオンにした。中村さんは坊主頭の中年男性から、ピンクのふわふわとしたショートカットの女の子に変わっていた。服装はシンプルな白いワンピースで、ピンク色の目がわたしをパチパチと瞬きしながら見つめている。
「最近、この子にはまってるの」
中村さんの声は小さな女の子のような高く、舌足らずな感じになっていて、わたしはルナのことを思い出した。けれども、話し方や単語の選び方がやっぱり中村さんだと思う。
「かわいくて素敵ですね。それに、シンプルなワンピースなのが素朴で良い。」
「ヒナちゃん、ありがとう~」
美少女が喜んでいる。自然に口元から笑顔がほころんでくる。
「毎日記録もありがとー」
「うん。今日は結構早くからやったから、もう少しで終わりそう。」
「あたし、下を開けて、売り場の整理してくるね。」
「わかった。ありがとう。」
中村さんは、スキップしながらドアを開けて出て行った。ドアが開いた瞬間、光の加減が変わったのか、一瞬グラスに光学的な混乱が起こって、中村さんと美少女の後ろ姿が混ざり合ったすごい見た目になった。突然美少女が大きな背中の男性と重ね合わせになって、中村さんが美少女の背中に吸い込まれるように、ドアの外の世界に出て行った。
今日も秋葉原は、順調に進んでいる気がする。中村さんのようなアバターも楽しそうにしゃがんでパーツを物色し、買い物かごのザルに入れていく。
わたしもプロテウス社のアバターが気になったことがある。そして、試作ソフトを起動して、わたしのためのアバターを作ったことがある。髪型から、顔を選ぶ。服装もユニクロなどのブランドが出店している素材から選ぶことができる。体型も、性別も。わたしは裸で立って、白い部屋に一面の鏡が目の前にあって、いつまでも体型のパラメータをいじっていた。わたしの身長は滑らかにスライダーの値に合わせて伸びたり縮んだりした。胸も膨らんでは縮んで。自由に体が選べたとしても、胸は必要なのだろうか。わからなかった。丹念に調整して作り上げたアバターをお気に入りリストには登録したけれど、購入はしなかった。
秋葉原での二度目の通り魔事件以降でも、めげずにアバターの姿をした人は歩いている。グラスのボタンを押して、広告や標識などの公衆層の更に奥のパーソナル層を可視化すれば、秋葉原を歩いている人のアバター着用率が他の街よりも高いことがわかる。たまに攻撃的な輪郭を着けているアバターの人がいたら怖い。通り魔は、黒い悪魔のようなアバターを着けていて、素顔よりもそのアバターの顔が毎日のように報道されていた。
攻撃的なアバターを着ければ、攻撃的な振る舞いになる。ギリシャ神話の変化する神の名前にちなんでつけられた、プロテウス効果という言葉が報道で盛んに取り上げられるようになってから、良くも悪くも、理想の自分になれる、という楽天的な文脈でアバター着用が受け取られることはなくなった。通り魔は、同じくパーソナル層の景色を見ていて、自分より弱い見た目のアバターを見つけて殺傷した。その日があって、わたしはアバターを着用するのはまだ必要ないと思った。けれど中村さんはめげずに美少女に変身する。わたしは、記録の仕事を続ける。
世界のどこかで、戦争が起こっていたときはあった。そのときでも変わらずわたしは、大学に行ったり、だれかを好きになったり、うんざりしたり、会社に入ったり、そしてやめたりした。それでも、なんとなく日々が過ぎていく感触は、確かにある。それがわたしの中の成長だと自覚しながら大人になっていった。けれども、周りでそうした事件が起こったことは、わたしに、地味だけれども頑とした静かな力を与えた気がする。生きていてもいつか死んでしまう。ただ生きているだけでは、死に対抗できない。だとしたら、それはどうすればいいのだろう。
家の玄関を開けると、ルナがソファーの上で横になっていた。眉毛の間が広がって、広いおでこを無防備に見せていた。カーテンが閉じられていて、部屋は暗かった。わずかに夕焼けの光が、彼女の閉じられた目を照らしていた。わたしは母が昼寝をしている光景を思い出した。朝早く家族のご飯やお弁当を作り、午前中は祖母のお寺で事務作業を手伝っている母は、午後になると昼寝をしていた。
「ルナ、起きて。夕ご飯よ」
わたしはそう言いかけたが、彼女は夕ご飯を食べることはない。わたしと一緒に食卓に座って、会話をしてくれる。それは彼女にとって生きるために必要なことではないが、わたしにとっては必要なことだった。しばらく考えて、わたしはルナの足下に座って小さな足をそっと撫でた。ルナの足がピクリと動く。わたしの手はわずかな動きに緊張する。しばらくしてまた足の甲を撫でる。すっぽりと手で包むと、ルナの足はおとなしくわたしの手を受け入れていた。わたしは空腹で胃がしぼんでいく感覚を味わいながら、手元からじんわりと温かさが伝わってくるのを感じていた。
それからわたしは満足して、ソファを立った。夕飯のメニューが思いついていないが、野菜室に残っている野菜で味噌汁を作ることにした。小さな一人用鍋に水を湧かして、鰹節粉の出汁を取る。冷蔵庫の中で、にんじんと白菜が少し老けたような顔をして二人で退屈そうに座っていた。包丁で切り刻んで煮立つ湯に放り込む。切り刻む作業が、また野菜の命を新しくした。火を通している間に、電子レンジで白米のパックを温めた。味噌汁に味噌を溶くと、香りが広がっていつも見慣れている味噌汁に終着した。
味噌汁をお椀によそい、熱くなった白米のパックを机におく。ソファーの上のルナは電源が切れたように眠ったままだった。わたしは不安になって、「ルナ」と名前を呼んだ。彼女の体がピクリと反応して、ゆっくりと短い腕が顔を覆い、目をこすった。ソファーに手をついて起き上がって、わたしの方を見た。寝起きの瞳は、どこにも焦点が合っていない。わたしは彼女の蜂蜜色の瞳を、そのわずかな隙にじっと見る。ルナが家にいてくれてうれしい。言葉にはしないけれど、素直に声にできる形で心に浮かんできた。
よちよちと歩いて、ルナはわたしの斜め前に座った。「ただいま」わたしは、ゆっくり一音ずつ味わうように言った。おはよう、おやすみ、ありがとう。そうした言葉たちも、ルナが家に来てからそうやってゆっくり言うようになった。
ルナはぼんやりと机を見たまま何も言わなかった。それからわたしの目を見て、ゆらゆらと瞳の焦点を動かした。その目を見て、わたしはどこかおかしいと思った。「大丈夫?」問いかけているのがわかるように首を傾げた。けれども、ルナは曖昧に首を動かして、頷くとも言えない仕草をした。
「ルナ、ルナ。」
わたしはお椀をつかみかけた手を止めて、彼女の肩を揺さぶった。ルナの目はわたしを見たまま硬直して動かない。わたしはとっさに、ソフトウェアの更新が止まったのかもしれないと思った。グラスのボタンを押し、契約情報を確認した。しかし、ちゃんと更新されている。
「ルナ、どうしたの?」
どれだけ呼びかけても彼女の返事はなかった。
リアル秋葉原
事務室で作業しているわたしを見て、中村さんは首に掛けたファインダーをのぞいた。
「ん、そのままだ。そのままのヒナちゃん」
驚いた様子でもなく、中村さんはファインダーを下ろした。
「一時期、アバターだったことあったけど、今はしないんだね。」
「はい。」
わたしは頷いて、家から持ってきている静電無接点式のキーボードを叩いて、品目を入力していた。これ以上ないほど指の力を繊細に受け止めてくれるデバイスで、ちょうど昨日よく売れていたジャンク品のiPhoneの項目を入力していた。
「中村さんはいつもファインダー式ですね。結構古いんじゃないですか?」
「うん、けどニコンのだから、いつまでも綺麗に見える。」
中村さんは、わたしに向けてまたファインダーをのぞいた。
「わたしのことは?」
グラスの横のボタンを押すと、中村さんの大きな体は美少女の姿に収斂して、かわいくおでこに手を当てているポーズをしていた。
「わ、それはどう答えても地雷じゃん」
「そうかな。」
美少女の姿の中村さんを見て、わたしはルナのことを思い出した。昨日は、何も話さないまま、わたしの胸にうずくまって、彼女はじっとしていた。出かけている間に何かがあったのかもしれない。
「正直、ヒナちゃん不安の闇が濃く見えるよ」
「そう?」
「うん、いつも平常心なんだけど、今日は影が濃い。考えすぎてショートしてるみたいだ。」
中村さんが扮する美少女が大きなルビー色の目でわたしを見つめてくる。
「わかるかな。」
「わかる。」
わたしは理由を言わずじまいだった。そのまま、開店の時間になって、中村さんは一階の売り場に降りて、店番をはじめた。バイトの子が事務室に荷物を置きに来て、制服の青いエプロンを掛けて、降りていった。昼休みに階下に降りた。一階の売り場には髪の長い美少女アバターが、細かい電子パーツの引き出しを開けて、一つ一つ手に取ってザルに入れていた。クマのような着ぐるみのアバターは、入り口近くにしゃがみこんで電池を漁っていた。わたしも何かを着るなら、美少女ではなくてこういう風な、かわいい存在になってだれかに会ってみたいと思った。
夜八時になり店のシャッターを下ろす。中村さんは、思いきり背伸びした美少女の姿になって、空中をひっかくように手を下げた。現実の中村さんの方が背が高いので、手が届いていないのにシャッターが閉じているように見える。けれども、近くで見ても、髪の毛の質感や瞳の精細さは崩れることはなかった。
「駅に、行きますか」
店の古びた紅白のビニールのひさしの外は、パラパラと雨が降っていた。グラスに水滴が当たるのを感じながら、傘は差さずに信号まで歩いた。
「傘、差しますか」
中村さんが雨を気にして尋ねてきた。「あ、はい。」わたしは鞄から傘を取り出そうとしたが、頭の上にひょいと、ピンク色のメルヘンなパラソルが掛けられた。
「これ、わたしのお気に入り。」
「似合ってますね。」
「えへ、ありがとう。」
まるでゲームのキャラの装備のように、ふわふわしたワンピースとぴったりのピンクのカラーだった。
「電子工作っていいなぁ。」
中村さんが美少女の顔で、素直に笑う。
「秋月はVR店舗もあるけど、アキバに来て買いに来る人はいなくならない。」
「そうですね。」
わたしは、中村さんのファインダー式のグラスも悪くないと思った。店番をする中村さんは、首に掛けて付けたり外したりする動作をして、アバターもそれを着けている人の現実の姿も確認しながら店番をしている。わたしのグラスもボタンを押せば切り替えられるが、基本は常に自分が選択した深度での仮想現実を見るための物だ。わたしの心地よい設定で、見るものを決めている。中村さんのファインダーは一番濃い秋葉原を捉えている。わたしがカットしているレベルの秋葉原に映る広告も、落書きも、つぶやきも、見えている。ファインダーを外すと全部が現実に戻る。
「わたし、明日、有給とって良いですか?」
「あーはい。ヒナちゃん消化率悪いからとってね。」
「はい。」
駅に着くまでに雨は降ったりやんだりした。中村さんは、ピンクのパラソルを閉じたり、開いたりしてわたしの頭上に掲げた。曖昧な空だった。
シータメンタルクリニック
起きて、わたしはルナのことを考えた。昨日の夜もルナは一言も話さなかった。わたしの中には笑っているルナがいる。それは、初めて会ったときの草原で、ルナは駆け回って、寝転がったり、疲れて笑ったりして一緒に遊んだ時の記憶だ。昨日のルナはやっぱり笑わなかった。けれども、夜、わたしにくっついたまま眠った。わたしも彼女を抱いたまま、ソファで眠っていた。彼女の息は整っていた。くっついていると鼓動も感じた。そして、安らかな息が聞こえてくる。このまま、言葉なんていらないのに、とわたしは思った。けれども起きて最初に思ったのは、このままではいけないということだった。
サポートセンターに問い合わせると、カウンセリングを受けられることになった。それ専用のワールドと相談員が用意されているらしい。時間を指定して待ち合わせることにした。
ルナのことを直接診てもらいたくて細かく彼女の様子をチャットに入力してみたが、「遠隔診断プログラムで検証してみた結果、ハードウェアには問題がないので、機械精神科の専門家に適切なカウンセリングを受ける必要があるでしょう。」と相談窓口のAIにたしなめられた。
横になるルナを残して、わたしは寝室に向かう。ベッドの隣にあるコクーンは朝の光をぼんやりと受けてたたずむ。歩み寄ってドアを開ける。わたしを包み込むピンク色の光りが灯る。
目を開いてたどり着いた場所は、白いつるりとした表面の惑星の上で、大きなドームのような半球の形の建物が一つ立っていた。ルナはわたしの隣に立っていて、じっと丸い地平線を見ている。空はオレンジと水色のグラデーションで、きらきらと金平糖のような星がちりばめられている。「ようこそ」
女性のような高い声とともに光の柱が目の前に落ちてきて、その中から白衣を着たアバターが現れた。小さめの目はわたしたちを見て微笑んで、更に細くなった。第一印象で賢そうだと思えた。灰色の髪のショートカットで、顔を縁取っている。白衣がほとんど体の部分を覆っているが、そこからはみ出る手や首まで白い透明な肌をしていた。
「本日のカウンセリングを担当するシータです。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。ヒナといいます。こちらはルナです。」
わたしはお辞儀をした。足下のルナは、わたしの足にしがみついたまま不安げな表情でわたしを見上げる。顔を上げてしばらくしても何も言い出さなかった。
「では、こちらに」
シータが惑星の極点部に見えるドームの建物を手のひらで指し示した。わたしたちは導かれて歩く。コツコツとわたしたちの足音が響いた。
「今日の体調はいかがですか?」
「いや、おとといから何も話さなくなってしまって。わたしと一緒に居たいのだと思うのですが、けれども様子がおかしいのです。そして、いつも不安げです」
「そうなんですね。ヒナさんのほうは?」
「あ、わたしは大丈夫です。」
最初からわたしの体調を聞かれていたのだ。わたしは先生に間違いを指摘された生徒のように恥ずかしくて笑った。
歩いてドーム内にたどり着く。室内には、水が流れていて観葉植物たちがその周りに群れて生えていた。植物園のようにも感じた。けれども、温室の空気の湿った感じや、植物の匂いはささやかで、緑色の複雑な形をしたオブジェとして置かれている感じだ。時間も空間も、現実とはちがう流れを持っている気がするのに、外の世界ではちゃんと一秒一秒時間が流れているのだろう。わたしは、そう想像することでこの世界での時間感覚を引き締める。
ドームの中心部に円形のベンチがあって、わたしたちはそこに座った。ルナを挟んで大人たちが座ると、家族会議のようだった。
「では、グラウンディングをしましょうか」
シータはわたしたちに笑いかけた。何かをはじめる合図が彼女にとっては微笑みなのだ。
「しっかり体の感覚を感じること、自分の呼吸、鼓動が動いていることを確かめる。それがグラウンディングです。自分が立っている地面に体をあずける感覚です。」
白い医者は風に押し出されるように軽く立ち上がってそのまま、ベンチに座っているルナの目の前で目線を合わせてしゃがんだ。そして、そっとルナの頬に触れると、手のひらを差し出して「さあ、立ってみよう」と言った。ルナは膝の上で手のひらをぐちゃぐちゃと持て余して、それに夢中になっているふりをした。わたしはルナの背中を押すように手を置いて「ほら」と言った。「きっと大丈夫」口癖のようにわたしは自然に言った。
ルナは差し出された手のひらにゆっくりと手を置いた。シータの手は花が閉じるように一本ずつルナの小さな手を包んだ。ルナが尻を浮かせてベンチから降りる。「よっと」シータもそれに合わせて彼女に手を添えながら中腰になる。立ち上がったルナの手をルナに返して、シータは満足そうに笑った。わたしもドームの天井を見ながら立ち上がった。ガラス張りの天井に向かって大きな植物が立ち上がっていて、空には藍色の宇宙が広がっていた。
「グラウンディングは、ワールド内の人間にも有効です。普段見ている世界とはちがう環境で、自分という感覚を取り戻す助けになります。ルナさんにももちろん、身体感覚をチューニングして、心の働きを戻す効果があります。」
ルナの体の感覚と聞いて、わたしが何度も触れながらも触れなかった部分が、わたしの頭の中にちらついた。それは灰色のうごめくシルエットで、中では銀色の光が直線を描いて現れては消えていた。「ルナも感覚、するの?」疑問が思い浮かんだが、静かにシータの声を聞いて、息をしているルナを見てその疑問を頭から拭き取った。
「では、ゆっくりと目を閉じて息をしてみてください」
声は定規で引いたようにまっすぐ耳に入ってきた。素直に従う。目を閉じると、暗いまぶたの裏の温度が感覚を包む。ルナも、シータも見えなくなる。途端に自分一人の感覚が話し出して、どこかしこから聞こえてくる。ああ、今頃秋葉原で中村さんは何をしているのか。もしかしたら、帳簿をわたしの代わりに記入しているのかもしれない。この目を閉じている感覚は、ワールドの中の、けれども肉体を持っているわたしの体の中を見ているのだな。ルナは今、どうやって呼吸をしているの。
「まずは、自分の体の中を通っている呼吸に意識を向けてください。息を吸うときにはゆっくりと膨らみ、息を吐くときには静かにしぼんでいくのを感じ取ってください。」
耳元で直接に聞こえるように感じた。わたしの暗い世界に秩序をもたらす一筋のロープのようだ。シータは滔々と説明を続ける。
「意識して呼吸をする必要はありません、呼吸に意識を向けてください。」
それは、何人もの人が辿っていっただろう、使い込まれたロープだった。手に揉まれたしなやかさがあった。シータもだれかから教わって、このロープにつかまり、今度は彼女がわたしたちに手渡してくれている気がした。
「頭に雑念が浮かんできたら、今、自分が考えていることは何か、と確認してから、また呼吸に意識を戻してください」
そう言われてからも、何度もわたしの頭の中に雑念がよぎった。考えては転がっていく。体の感覚がただ立っていることに反逆する。かゆみや痛み、筋肉の震えが暴れたい衝動に向かっていく。咳が出る前のようなエネルギーが胸の奥でずっと疼いて息苦しかった。ただ立っているだけなのにどうしてこんなにも苦しいのか。何度も目を開けて、飛び出したい気持ちになった。けれども、シータはまだ目を閉じている。ルナもおとなしく足元で息をしている。
「それではゆっくりと目を開けてください」
何度も目を開けたい気持ちを諦めたとき、ついに懐かしい声がして、わたしはやっと目を開けた。白と緑、線と淡い紫とオレンジ、目とまつげと眼鏡と唇、わたしの手、シータの微笑み、ルナがわたしの足下でのびをする手。一度浮遊した感覚がパチパチとつなぎ直されていく。息をしてわたしものびをした。
「お疲れ様でした。」
シータが手を合わせて、お辞儀をした。頭を上げてふわりと浮いたグレーの髪が、また元の位置に戻った。その仕草は、仏教の宗教的な意味合いと言うより、ちょっとぎこちなくて現代風だった。幼い女の子のような感じがして、少しほっとした。
「それでは、しばらく今の体の感覚を地面に伝えてみましょう。足を肩幅に開いて体重を地面に支えてもらう感じを思い出してください。」
ルナのほうを見て、足を肩幅に開いた。ルナも初めてする動作をまねをする。わたしが初めて「足を肩幅に開く」という言葉を聞いたのは、小学校の体育の時間だった。それからなんとなく、肩幅に開く姿勢の意味を分からないままそうしてきた。わたしたちは三人そろって足を開いて立った。体だけではなく地面もある。当たり前のことだった。けれども、それがワールドの中でもそうだとは思っていなかった。地面がわたしを支えて、感覚がその上でゆったりと呼吸をしている。思えば、周りが仮想の現実だとしても、わたしの体を持って入って行かなければいけない。呼吸もあるし、重力もある。ワールドの中の人間こそ、必要なのかもしれない。
ほくろのない男の子たち
赤、青、黄色、オレンジ、黒、緑、紫のジャンパワイヤが四方八方に伸びていく。黒い足がたくさんのトランジスタ。赤青緑のダイオード。二つの黒い目を持つ超音波測距センサ。アンプキットのへこんだスピーカー。銀色の筐体をごろりと転がすDCモーター。緑色の基盤に母艦のように整理されたピンソケットを持つアルディーノはマイクロコンピュータとしてプログラムを走らせ電子部品の制御をする、コアとなる部品だ。中村さんは無印良品のプラスチックケースを机に広げ、自作の店内の呼び込みスピーカーを修理していた。
わたしは家で作った味噌汁を入れたスープジャーと、白米の入った無印良品の食品保存ボックスを開け、昼食を食べていた。
「グラウンディングねえ。グラウンドがないと動かないからね。」
電子回路はマイナスの電気を最後に通すGND、グラウンドという記号がある。中村さんはちまちまと椅子の上で丸くなってブレッドボードにピンを刺したり、抵抗の足を曲げたりしている。まるで椅子の上に乗ったバランスボールのような、完璧な球体となって作業に集中している。わたしは安心して話ができる。回路に集中しているときの中村さんは、アバターをまとっていない普通の中村さんだ。美少女になりきる必要もない。
わたしとルナは、シータのカウンセリングを受け続けることにした。一日十五分、シータのガイドを受けてグラウンディングのセッションを行う。朝に一度やれば良いと言われていたが、仕事から帰ってからも行う。それがわたしとルナの日課になっていた。
ルナは話し出さなかった。学校に通うのもやめた。
「ルナさんは、どこもおかしくないですよ」
悩みを相談したとき、わたしはルナを直すことに躍起になって、記憶の中を探し出して思い当たることをすべてシータに伝えた。けれども、返ってきたのはあっけないほど突き放された言葉だった。
「どこも直すところはないです。少しずつ少しずつ、グラウンディングを続けて、その変化を見守ってあげてください。」
それからわたしはシータの言葉に含まれている優しさを感じ取りながら、家にルナを残して仕事を続けた。もし、彼女の言葉がなかったら、この日々はただ苦痛の日々だっただろう。話すことができないルナはどこかおかしいと思いながら、必死に伝わるかどうかわからない言葉を投げかけて、過呼吸になっていただろう。わたしはその代わりに、一緒に目を閉じて穏やかに過ごすことを覚えた。
「わたしは自分に、求めすぎたのかもしれないな」
「複雑な回路を組みすぎて、自分でもわからなくなったみたいな」
中村さんは、まん丸の月のように、にかっと歯を見せて笑った。
「そうですね。遠回りしすぎた。遠回りして、遠回りして、いつかはたどり着くとがむしゃらに思ってた。」
「この仕事は楽しい?」
さっきまでまん丸だった中村さんが心配そうにしぼんだ。
「あ、それは楽しいです。シンプルで、考えることが少なくて、それでも淡々とした気持ちよさがあって。」
ネガティブな言葉を吹き消すように話したが、あまり上手く楽しさを伝えられた気がしなかった。
「そっか。まあ、ヒナちゃんも新しいことやって良いから。」
「ありがとうございます。」
それから、わたしたちは黙々と二人の作業に集中した。お昼休みが過ぎていった。何人もの客が出ては入り、お店の中の電子工作パーツが少し減り、現金が少し増え、閉店時間になった。
帰りに寄り道をする。わたしは缶を持って駅の前のコーヒー屋さんでローストした豆を詰めてもらう。缶の中にはわたしが書くための時間が詰まっている。黒々とした豆を、コーヒーミルで挽く。自分の手でハンドルを回し、中で回転する刃にコーヒーの豆が吸い込まれて小さく粉々になっていくのを感じる。そしてすべてが粉になったとき、ドリッパーに紙をセットして粉を入れ、湧かしておいたお湯を少し垂らして粉を蒸らす。その間に香りが立ってきたらお湯を注いで、ドリップする。コーヒーを飲みながらキーボードを打って書く。ルナも寝ている夜に一人で書く。いや、ルナが来る前は元々一人だった。
言葉と言葉。言葉たちはつながりあって、お互いを震わせあって一つの文章の流れを作っていく。苦い液体をわたしの体に通して、世界をモノクロにしていく。それは舌を通って視覚に作用して、感覚を沈静化させる効果がある。座っている退屈さも、眠気も忘れて、頭の言葉を見つけるための部分が、一日の最後の仕事のために灯台のように体の中で光り始める。見えているのは、夜の海の波の線の集合体のような、文字入力機に映される活字の平面。その波をじっと見ていると、わたしは抱き合う男の子たちの会話が聞こえてくる。
その男の子たちの体には、ほくろがない。濡れた髪と、ミルクのような滑らかな肌と、その奥にある筋肉の隆起と、骨のフレーム。それを持って二人はベッドの海の中でやり取りする。わたしはどちらかの唇になって、その体にキスをするけれども、抵抗のない水のようにどこまでも唇が滑っていく。そのときに、わたしは男の子たちの体には、ほくろがないことを発見した。
体温がほしかった。それはワールドのどこを探してもふさわしい物がない気がした。わたし自身に触れてほしいわけではない。わたしを汚さずに、わたしの心を揺り動かさずに、わたしに滞留したものを逃してくれる地平が欲しかった。だから、わたしの一人称の世界は、そしてそれが仮想するものをどこまでもリアルに近づけようとする世界は、わたしにとっては刺激が強すぎた。その代わりに、わたしは一人で日記を書くことにした。アバターに入る代わりに、男の子になってほかの男の子を恋する夢を見た。はじめは書く行為がわたしの視覚を鮮やかにして、体温を実際に熱くさせた。しかし、わたしが愛する男の子にほくろがないと気がついたとき、日記は物語になり、わたしの手を超えるスピードで現実から浮遊して滑りはじめた。キーボードのボタンをいくつも踏み倒してもなおまだ追いつけないスピードで二人はお互いを撫で合っている。そして、じゃれ合うように笑って、お互いの名前を呼んだり、同じことの繰り返しの台詞を交換し合ったりしている。それに浸っているときは、もう色はなくて、純粋に苦い味と頭の中の光だけで、わたしは部屋の暗闇に溶け合いながら男の子たちを見ている。彼らだけが、わたしがうらやましいと思わずにじっと見ていられる愛だった。
声のない舞踏会
日曜日のセッションのあと、わたしはルナとともにシータに勧められたダンスの鑑賞会に行くことにした。「声のない舞踏会」といいう催しだった。わたしはルナと一緒になって頷いた。ルナはまだ話し出さなかった。けれどもわたしは、彼女の言葉を待ちながら、その沈黙を味わっていたいとも思っていた。
「この、ダンサーの関さんはわたしたちアバターの概念を問いかけるダンスをする方です。わたしがグラウンディングに興味を持ったのは、彼女のダンスを見てからです。」
舞踏会の案内を空中に広げながらシータは熱っぽく語った。定規のようなまっすぐな声は、じっと焦げるぐらい同じ線を往復し、彼女を褒める言葉を重ねた。案内には、褐色の肩をした茶髪の女性の目を閉じた横顔が大きく打ち出されていた。
会場はネオ東京ワールドの中にあるコンサートホールだった。ルナとともに数々のアバターのひしめく交差点を歩く。服、靴、帽子、リュック、カラーコンタクト、着ぐるみそれそれがみんなちがう色をして目の前を横切る。天をつくような摩天楼がそびえ、青い空の色が鮮やかにそれらを包んでいた。グラウンディングをしたあとの穏やかな心がなければ、ルナもわたしも参ってしまいそうなノイズだった。歩いていると道の向こうから、大量の半被を着たアバターと鯨の形をした巨大なねぶたがやってきて、あたりは大騒ぎになった。
道に迷いながらそれでもワープをつかわずにルナと一緒に歩いた。初めて会いに行ったときから、ルナとわたしはよく散歩をしていた。二人で並んで歩きながら、ルナは「良い匂いがする」「あそこに綺麗な惑星が見えるよ」「ねえ、あのかわいいお人形、さわってみたい」とわたしの興味の幅を広げてくれた。一つずつ、わたしと彼女のペースで新しいことを体験していった。一度にあふれる情報に溺れそうになっていたわたしは、彼女とわたしだけでしか通じない意味を紡ぎながら世界を歩いて行く方法を見つけた。わたしたちを悪いニュースやノイズから守って、ちゃんと生きていく理由をくれる小さな殻だった。そして、大きなアーチ状の屋根の建物が目に入って、その前に茶髪の女性が目を閉じているポスターを見つけ、わたしたちは歩いて行った。
思ったよりも有名なダンサーなのか、ホールの席はほとんど埋まっていた。わたしは、周りのアバターたちを見ながら、自分と同じデフォルトからほとんどいじっていない女性アバターを探した。どちらかと言えば女性のファンが多い気がした。時間になって、会場が暗くなり、ステージの幕が上がる。
ダンサーは、一枚の白い布を纏って立っていった。サリーのようなひとつながりの布のように見えた。軽やかに、足を上げて走り出すと、布が風になびくように横に広がった。翼のようにひらひらと舞い、重力に従って落ちては雲のようにまた空に昇っていく。彼女のダンスは途切れない曲線を描いて、静かに会場の空気をかき混ぜていた。音楽はなかった。その代わりに、体が発する言葉に満ちていると思った。
彼女の髪の毛の一本一本は、違っているように見えた。アバターのアニメーションはあらかじめ決まっていて、髪の毛であろうと定まった軌道を描くはずだが、彼女の髪は激しい動きで乱れて、頭を下に向けると、頬や目に掛かった。掛かったままの髪をそのままにして、足を出して、手を広げ、滑らかに動き続ける。褐色の肌には、血が通っているように見えた。そして、染みもしわも、ほくろもあるように見えた。わたしが彼女の体の細部に集中しはじめたとき、不意に彼女が残像を残して、ジャンプした。残像は白く光るような、肌をして、彼女と同じ動きをゆっくりと追従する。残像は半透明のまま舞台に残り、別の動きをし始めた。二人のダンサーが舞台で動きを通信し合い、ハーモニーを生み出す。一方が押すと、もう一方が引く。その掛け合いが海の波のように滑らかにつながる。そして、残像が彼女の体に帰ってくると、静かに動きが止まり、ダンスが終わった。
ステージに拍手が響く。初めてみんなが一体となって聞く音だった。
ダンサーは深く礼をして顔を上げた。拍手が止む。その凪いだときを注意深く見計らって、ダンサーは話し出した。
「皆さん、こんにちは。関ゆり、と申します。今回は音のない舞踏会にお集まりいただきありがとうございます。その前に、私の自己紹介を軽くさせていただきます。
私は、自身の体をスキャンしたアバターを使って踊っています。それは、まあ、驚くほどの本格的なスキャンでして、髪の毛も赤外線スキャナーで一本ずつスキャンしているのです。もちろん肌の状態も、なるべくそのままアバターに反映させています。なので、この衣装を脱いだら、私は裸になることができます。裸になれるダンサー、とも呼ばれています。もちろん脱ぎませんけどね。」
色っぽい話題でもぶれることがない彼女の安定した話に会場に笑いが広がる。
「一回のスキャンには、すごくお金と時間が掛かるのですけれども、なるべく細かく過去の自分の身体の記録を残しています。今回は、このさまざまな体が描き出す動きを皆様に注目いただければと思っています。本日はよろしくお願いします。」
ダンサーがお辞儀をして、また拍手が鳴り響いた。今度は一度目よりも大きく鼓舞するような熱がこもった拍手だった。顔を上げた彼女の表情は、喜びに満ちあふれていて、立っているだけでも体が躍動する気配が漂った。わたしはじっと見て、さっき見た彼女の残像をまた探し始めた。
ゆっくりと動き出したときには、彼女は二人になっていた。髪型がちがう。髪が伸びる前のショートヘアーの彼女と、踊り出す。手を繋いで社交ダンスのように掛け合ったり、背中合わせになってフォーメーションダンスをしたり。それは迷っているようでもあった。わたしは、自分自身のアバターを作ろうとして鏡の中の新しい自分の像が定まらない不安を思い出した。彼女たちも舞台の上で迷いながらも、一つになったり二つになったりした。
ステージの上でうつ伏せに寝た彼女が起き上がったとき、白い肌の若い女性になっていた。それは、髪をきつく頭の上で団子にして、鋭い目線を観客に向けて跳ね返していた。頬骨と、目のあたりが今の彼女の面影があった。そして、激しくスピンしながら、彼女は少しずつ変わっていった。髪型が変わり、衣装が替わり、動きの切れも、体の重さも、肌の色も変わっていくようだった。そして、回転が止まってからは元の彼女に戻っていた。それは、褐色でしわがあるけれども、目の輝きは優しく光りをたたえて微笑んでいた。そしてステージの上をスキップするように飛ぶ。飛ぶたびに彼女は過去の自分を残して次の一歩を踏む。ステージに過去の彼女のアバターたちがそろって、同じ動きをする。それらは一つ一つよく見るとちがっていて、けれどもどこか似ていた。彼女たちが入れ替わりながら、そのときの気持ちを表現するダンスを踊っているように見えた。最後に一つのアバターに収斂すると、わたしが見ていた彼女の一つの体は、はじめとはちがって見えた。それは歴史がある、一つの本のような物語性を持って、ひっそりと立っていた。わたしはダンスを通してそれを読んだのだった。
本は、柔らかい革の表紙を閉じるようにお辞儀をした。会場に、ねぎらいと感動と、興奮が入り交じった極彩色の拍手が飛び散った。わたしも、手を叩いた。その虹色の拍手は、彼女の一つ一つの時間に向けて送られているようだった。
「とても、よかったです。」
セッションのあと、わたしは自分からシータに声をかけた。
「そうですか、良かったです。」
シータは目を線にして微笑んだ。引き締まった知的な顔がほころぶ。
「あの、ルナのことで相談が。」
「はい。」
「あの、二人で変わっていきたいと思いました。成長したいんです。ルナと一緒に。直すんじゃなく、変わるんじゃなく。ただ一つずつ一日を生きてその跡を刻んでいきたいんです。できますか。」
「できる。と思います。」
シータは頷いた。
「どういう風に自分を作っていけば良いのか、わからなくて。」
わたしは、切実に自分がだれかに何かを話している感覚を思い出した。それは、のどが震えて、手も震える、身体も熱くなる。それをちゃんと拾われてしまっている気もする。
「自分がどうなりたいか選ぶということは、全く支離滅裂に自由に選ぶわけじゃなくて、自分がどうなりたいか考えながら少しずつ変わっていくこともできるんだと思います。時間が掛かるかもしれませんが、きっとヒナさんもルナさんも変わっていくことはできるはずです。」
「そうですか、ありがとうございます。また来ます。」
「いえいえ。また話しましょう。」
シータはまぶしそうに笑って、胸の前で整った手のひらを振った。シータさんは、どうしてそういうアバターなんですか。本当はどんな人なんですか。これからどうやって変わるつもりですか。わたしの中で問いがあふれ出したけれども、一度に尋ねることができない。
「それでは」
シータがいつもの通りの挨拶をして微笑んだ。足下でルナも手を振っていた。わたしは手を上げながら退出する。「退出しますか?」黒いウィンドウが現れる。迷わずに右下の赤い表示の「退出」を選択する。視界が暗転して、低いベルのような和音の退出音がなる。
足下からピンク色にコクーンの内部が光り、わたしは柔らかい色に包まれる。しばらく呆然としてわたしは一人、小さな繭の中で呼吸をした。そして、時間の感覚とお腹が減る感覚を思い出すと、急に立ち上がりたくなって、ドアを開けた。
「ルナ。ご飯食べるよ」
わたしは、向こうにいる彼女を呼んだ。歩み寄ってくるルナにわたしは両膝をついて抱きしめた。ママ、とルナが言った気がした。わたしは空耳なのか、それが本当に聞こえたものなのか、気にしない。両腕で覆い尽くせるぐらいの背中を抱いて、柔らかい頬に頬をくっつけた。じっと彼女の体温を感じた。そして息をして、吐いた息を逃して、二人が立っている地面に、体重を預けた。もしルナの中にある何かも、わたしを通して抜けていってくれたら、と思った。
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