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渡り人

 「カイ、起きなさい。ごはんよ!」
かすかに聞こえてくる声に起こされる。布団のから出ると冷たい空気が襲い掛かってきた。冬だ。僕は同時に思い出す。今日は冬休み明けの最初の登校日。つらくても起きなければならない、みんなそう思っているのだろうか。だったら一斉に学校を休めば授業はなくなるのではないか。とさっきまで見ていた夢の世界に戻る言い訳をくどくど考えていたら、第二砲が飛んできた。
 「カイ、いい加減にしなさい!」
部屋がビリビリするほどの声で僕は飛び上がった。目はおかげさまでばっちり覚めた。

 食卓には朝食とは思えないほど豪勢な料理が並んでいた。毎年、この村の家庭は冬の始まりにこうして気合を入れる。夏に最後にとれた魚を、盛大にふるまうのだ。これから半年の間、長い冬を越さなくてはならない。そりゃ、無理にでも起きないと母さんに失礼だなと僕はうなずく。けれど早起きしていいご飯を食べるか、寝ているかだったら、やっぱり寝ていたい。
 先にテーブルについていた妹と父も眠たげながら早く食べさせろと、目で不満を訴えてきた。もっと素直に冬は苦手といえばいいのに。

 「ごちそう様」
 僕は少し早めに食器を片付けた。食べていくうちに体は温まってきて、外に出たくなった。家の中の温かい空気が愛おしいけれどこのままじっとしてはいられなかった。もう一つ冬の恒例行事がこの村にはある。悪習といってもいい。
 「カイ、水着を忘れずに」
 母さんが、巾着を手渡してくる。
 「寒中水泳は大事な行事だからしっかりやってね。村の男として一人前になるためにね。」
 途端にもやもやした緊張感が胸を押し付ける。これで水着を忘れたと言い訳をしてサボることはできなくなった。

 村では夏でも冬でも関係なく一年中泳ぐ機会がある。海で泳げなくなってもわざわざ小川から水を汲んできたり、雪を溶かして水を作ったりしてプールを満たす。そうして作られた水は神聖なものとされている。透明で匂いもない。けれど、ものすごく冷たいといったらこれ以上のものはない。
 「行ってきます」
 僕は逃げるように家を出た。少し歩くと幼馴染のメルが立っていた。僕にとっては一番付き合いが長い女の子である。しっかり水着と思われる巾着を持っている。
 「おはよう、カイ」
 「おはよう」
 「寒中水泳、楽しみだね!」
 メルは思い切り笑う。僕は違う、と言いかけるけど何となくうなずく。この村の女性はお母さんを含めてみんな男勝りに元気だ。
 二人で並んで歩いているとシャンが加わった。中学から一緒の男子である。
 「よっす。」と軽く手を振って挨拶を飛ばしてくる。
 「シャンはサボるかと思っていたよ。」
 メルがわざとらしく大げさに声を上げる。僕は笑えない。
 「いやいや、冬でも女子の水着が拝めるなんて最高じゃないか」
 「気持ち悪っ。」
 メルは、身を守りながら清々しく率直な感想を言う。シャンはそれでも平気で笑っている。彼は何となく自分の世界観を持っている。誰になんと言われようとそれでいいのだ。だからこそ、昔から一緒だった僕とメルの中に自然と溶け込めているのかもしれない。
 僕は会話から耳を背けて空を見上げる。青空が道沿いに植えてある木々よりはるかに高く広がっている。
 寒中水泳が嫌いなわけではない。今までだってやってきたし、村の大切な行事だと思う。僕は前から用意された何かにただ従うだけなのが嫌なのだ。ただみんなで寒い中泳ぐこと、この積み重ねが大人になってゆく過程の一つなのだろうか。考えれば考えるほど、むずむずと体が泡立ってくる。
 「あの」
 僕は我慢できずに隣を歩く二人に言った。
 「忘れ物した!」
 「はあ?」
 唖然とする二人を背に僕は走り出した。

 雪が積もった朝の道を、迷いもなく進んでいく。なんだかいつもとは違った場所に行きたくなる。走ると胸が高鳴ってくる。嘘をついた罪悪感と、こうして学校を背にして進む解放感がないまぜになる。
 学校につながる林道から外れて、林の中へと僕は入っていった。冬の冷たい空気が頬を熱く染める。それがかえって僕の足を速めさせる。雪を踏みしめる音と、草木の匂いが混ざって舞い上がる。そしてこの道の先にあるであろう光景を想像する。もはや何があろうとも僕を止めることはできないだろう。木々の枝を潜り抜けて、白く染まった地面に足跡を一つ一つ刻みこみこんで、前に進む。何千何万とある木の葉の一つ一つの露が朝日に照らされてきらきらと輝く。
 「あった。」
 僕は思わず声をあげてしまう。
 そこは静かな場所だった。雪を抱えた草木の隙間から、岩が抜け道のように口を開けている。身をかがめて穴に入る。冷たい雪が頬にあたる。首のうしろから、服に入ってくる。それすらも楽しくて、穴の奥まで、はいながら進んでいった。
 光、だ。穴から抜けると真っ白な景色が広がっていた。切り立った足場に僕は岩壁にもたれて立つ。海一面が凍っていた。太陽の光が青い空から降り注ぎ、白一色に染まった大海原をきらきらと照らしていた。
 秘密の抜け穴の先にある小さな空間。そのすぐ下は切り立った崖になっている。この島の端っこに僕は到達した。冬になると何にも邪魔されずにこの景色を見ることができる。僕は足場に気を付けながら、小さなじゅうたん一枚分ぐらいの空中の足場に立つ。
 この島を囲む広い海は、冬になると、どこまでも続く氷の大地に変わる。ゆるやかに曲がる水平線のカーブに僕は見とれる。その空の青と氷の白がぶつかるところに僕はどこまでも引き込まれる。
 しばらく見とれたあと、僕はため息をついて足場に腰を下ろした。とても長い時間や、とても遠い距離が僕の目の前にこうしてある。この村の人々はどうやってあの遠い海からここにやってきたのだろうか。村のじいさんはずっとずっと昔、といっていたけど、どのくらいの昔なのだろう。
 時間の長さと、世界の広さに気が遠くなりそうだ。なんだか自分がちっぽけに見えてくる。自分という存在が縮んでいくようで、きゅっと胸が締め付けられる。この気持ちはどうしたらいいのだろう。僕はどうしたいのだろう。
 ずっとこの景色を見ていたい。あの海の先へ、氷の上を歩いていきたい。
 気が付いたら僕は、うとうとと、まぶたを閉じていた。

 目を開ける。空の青がそっけなく広がっている。体が重いのに、景色がやけにきれいで、なんだか夢みたいだ。頬には冷たい雪の感触。体を起こしたいけれど、僕にはその元気がない。雪の温度と体の感覚がすっかり溶け合って一つになっている。しばらく僕は体を横にしたまま、何も考えずに青と白の二色しかない世界をみていた。
 僕はなんでここにいるんだっけ。背筋が、うすら寒い嫌な感触を取り戻した。さっきまで感じていた雪の冷たさを途端に拒否し始めた。僕は立ち上がるために全身のすべての力を使った。手をついて、雪を踏みしめる。立ったと思ったとたん、視界が暗くなった。こんな時に立ちくらみ、と思った時には遅かった。さっきまでの調子を打ち壊すように視界が急速に動いた。ギシ、という聞いたことのない音。
 落ちる。恐ろしいほどの加速度に体がくすむ。
 空の青と雪の白、最後に感じたのはそれだけだった。

 真っ白なものに覆われている。ここはどこだろう。僕は死んだのだろうか。わからない。息が苦しい。体が動かない。あと、体の中まで突き刺すように寒い。次々に襲い掛かってくる信じられない感覚に僕は、少しホッとした。まだ生きている。でも僕は同時にどうしようもないと悟る。こんな時でも心は冷静だった。まるで夢の中にいるように、心だけが体を見下ろしている。学校に行かないと。そう思った。でもどうやって?
 答えを探そうと考える前に、ひどい耳鳴りがした。頭が必死で何かをしろ、と命令する。でも何度やっても体がうごかない。
 意識が薄れていく。無意識の波の中で溺れながら僕は気力を保とうとする。
 何度もその浮き沈みをしているうちに何か音がした。何かを乱暴にかき混ぜるような。しばらくして足音だと気が付く。僕は反射的に叫んだ。口が縫い付けられたように重い。それでも叫べと体に命令した。口の中に冷たいものが広がる。そのとたん意識が強くよみがえってくる。のどが冷たい。胸が痛い。うめくような自分の声がする。
足音が、止まった。
 不思議な声がした。どこか遠いところから降ってくるような声。懐かしいのに聞いたことがない声。
 頭のほうからガサゴソと雪を掻きわける音。そして光が漏れだす。僕は首をのばし、顎を突き出してもがいた。鼻先に指のようなものが当たる。僕は夢中で息を吸い込んだ。
 目を開けると、青い空を背景に灰色の影が立っていた。目が合う。人だ。太陽のきらめきと同じ色をした長い髪の奥から、銀色の目が僕を見下ろしていた。

 次に目を覚ました時には少し固い地面の上だった。さっきから何度も起き上がろうとしていたせいか、すぐに体が動いたときは拍子抜けだった。木々の色。僕は林の中にいる。大小あれこれの植物がいきいきと茎をのばし、葉でお互いを押しのけあって生息している。そして耳元で鳴るパチパチという音。火の温かさを感じて振り返ると、焚火があった。奥には人が作ったと思われる、束ねた草を屋根にした小さいキャンプが見える。
僕はしばらく呆然としてこの光景に見入っていた。体のあちこちがずきずきと痛い。けれど、薪が燃える音以外には何もない静かで穏やかな空間に気持ちが和らいでいく。
 そのまましばらく身を起こしたまま、僕はあたりを見ていた。ふと気が付くと誰かが、倒木に腰を下ろして本を読んでいる。灰色の毛皮に身を包んだ女性がそこにいた。僕は驚いて声を上げようとしたが、できなかった。まるで鉄を編んだような銀色の髪から真っ白な頬がのぞいている。とても優雅に長い足をそろえて膝に赤い古びた本を乗せている。表情は横からは見えない。僕はじっと彼女の様子を見た。何か全く知らない存在に出会ってしまったという驚きで僕は言葉を失う。本のページの上で長い指が動く。その瞬間、僕はまるで自分が触れられたかのように感じた。
息をのむ音が、紙の音と重なった。僕はとっさに身をすくめる。しかし彼女はこちらに気が付いて、本から顔を上げた。視線がぶつかる。その異質な目の色に負けて僕は目をそらせる。自然に失礼な態度をとってしまった自分が恥ずかしいという気持ちが働いた。そんな風に心が動いたのが不思議だった。さっきまでほんとに死にそうだったのに。
「君、夏の民でしょう。」
向こうから声がした。もう一度僕は、銀色の目を探す。彼女は逃げることなく、その場に座ったまま僕を見つめていた。記憶の底を風のように撫でる声。僕はその声が、あの時聞いた不思議で懐かしい声と同じだったと気が付いた。僕は目の前にいる人に助けられたのだ。思い出そうとして、今は話しかけられているのだと気が付く。僕は夏の民かどうか。それはそうだ。でも、なんでそんなことを聞くのだろう。考え込んで答えられなくなってしまった。
「私の言葉は分かる?」
その女性は本を足に乗せたまま、僕をじっと見て首をかしげる。僕はうなずく。でも何から何まで僕の知っている人と違う。髪の色も肌の色も、着ている服も。
 ふう、と静かにため息をついて、彼女は姿勢を戻した。何も言わなかったから呆れさせてしまったらしい。
「私の名前はサキ。冬の民だ。」
 僕は目を丸くする。冬の民。村のおじいさんの話で聞いたことがある。僕たちとは違う、もう一つの世界を生きる人々、その名前。けれど本当にいたなんて思いもしなかった。
 サキさんは何か話していたが、僕は驚いてそれどころではなかった。目をこすると、くしゃみがでた。
 「寒いの?」とサキさんが言った。
 「体を動かせるなら少し歩こう。夏の民は少し動いたほうが温かくなると思うよ。」
 パタン、と本が閉じられる音が気持ちよく響き渡った。立ち上がった彼女の姿は、すらりとして目を見張るほど美しかった。

 森の中を歩く。けれど村で見る植物とまた違っている。背が高くてひょろりとしているのが多い。木々の隙間から、遠くのほうまで少し見える。全く知らない場所に来てしまったようだ。僕が住んでいるのと別の島だろうか。
 前を歩いているサキという名前の人に僕は助けられたらしい。体は少し痛むけれど、寒気はもうない。
 「大丈夫?」
 サキさんが銀の髪をなびかせながら振り返る。まだ、その輝かしい色には慣れないでいる。僕はわざわざ足を止めてうなずく。
 「大丈夫です。すこし、足は痛みますけど。」
 「疲れたら言って」
 「はい」
 いつのまにか、僕たちは二人で並んで歩くようになっていた。サキさんが僕に合わせてゆっくり歩いているのだ。
 木々にはさまざまな種類の実がぶら下がっている。赤、黄、緑と色とりどりで、形も大きいものから小さいものまである。森の匂いもどこか甘く、時々おいしそうな香りが鼻をくすぐる。高い木に、まるで木にぶら下がる動物のような形の木の実が付いていたり、低い木には小さく宝石のようなつややかな実が実っていたり、本当に様々だ。
 サキさんは立ち止まっては、少しずつ実を採って動物の皮でできた腰の巾着に入れていた。少し採ってまた次の木へ移ってまた少し採る。そして手帳を取り出して何かを記録していた。見たことのないペンだ。インクにつけないでどうして文字が書けるのだろう。
 「この木の実、食べられるのですか」
 僕は胸にたまった疑問がついに口をついてあふれてきた。
 「食べられるのもあるが、すべてではない。」
 サキさんが記録を終えて巾着の口を締めながら言った。
 「植物は、人間のためだけに実をつけるわけではないから」
 「なるほど…。」
 そんな風に物事の説明をされるのは初めてだ。でも確かにサキさんの言う通りだと思った。
 「例えば」
 サキさんがもう一つの巾着を開けて僕に見せた。中には茶色い飴のような実がぎっしりとつまっている。
 「一つつまんでごらん。」
 サキさんは僕の反応が知りたいのか、らんらんと目を輝かせていた。おそるおそる巾着に手を突っ込み、一粒つまんで口に入れる。
 「んんっ!」
 その瞬間、木の実とは思えないほど香ばしい風味が頭を突き抜けた。サキさんはにっこり微笑んで、おいしいでしょうと面白がって僕を見ている。
 「お茶みたいでいい香りがします。」
 僕は驚いて彼女を見上げる
 「でも村では経験したことのない味だ。」
 「そうだろう」
 サキさんは、手袋を片方、わきに抱えてうなずきながらおなじ実を味わっている。

 歩きながらサキさんは説明してくれた。海に浮かぶ島は、この世界に数えきれないほどある。そしてそれら一つ一つが独自の生態系を持っている。海によって隔てられ、それを渡ることができるのは海面が凍る冬の間だけ。けれども、ほとんどの生物は島にとどまり、世代を重ねていくうちに、島の環境に合うように変わっていく。島の外からの新しい敵が来たりすることもほとんどないから、生態系が乱されることもない。
 「君の住んでいる島と、この島が違うのは不思議なことではない。」
 サキさんの口調はきっぱりしていて、僕の村の人たちとも少し違う。
 そう考えると、大切な事実に胸をつかまれた。
 「そうだ、村。村に帰らないと…。」
 僕は誰に言うでもなく、そうつぶやいた。声はすぐに森の景色の中に消えていった。見たことのない木ばかりが意地悪に僕を取り囲んでいる。村では今頃、僕を探してお母さんが心配している。
 「あの」
 勇気を出して声を出す。頼れるはこの人しかないのだ。 
 僕は立ち止まった。まるで、返事をもらうまでずっとここに居座るかのように。サキさんは、僕をじっと見つめた。目を合わせていると涙が出そうになる。彼女の瞳にどんな意味が宿っているのか、つかむことはできない。けれども僕は言わなければならない。理由などなしに、訴えなければない。
 「僕、村に帰りたい。」
 何かに背中を押されるように、言った。けれども、そう言ったのは他ではない自分なのだ。

 「そうだよね。」
 ふいにサキさんがしゃがんで視線を合わせてきた。
 突然、目の前に白い顔が現れて僕は息をのむ。僕はしばらく、息をするのを忘れてサキさんの顔を見つめていた。サキさんも僕をじっと見る。まつ毛まで銀色をしていた。彼女の瞳の中に小さく僕が映っているのが見える。
 「大丈夫。何とかしてしてみせる。」
 見つめられて行き場を失った目がその一言でふっと緩んで熱くなる。僕は必死に顔をそむけた。サキさんは僕の腕を軽く叩いて、まずはご飯にしよう。と言って立ち上がった。

 キャンプに戻って、二人で採ってきた木の実を眺める。少しずつ食べられるかどうかチェックしていこう、とサキさんは一つ一つの木の実を小さな布に整列させていった。この島の色合いそのものが集まって並んでいるかのようだ。
 サキさんは一人きりで生活しているのだろうか。焚火の跡から、地面に置いてある金属の器、草で作った寝床。一人の女性がこうしてたくましく生きているのが僕には新鮮だった。村の女性は、強いけど(お母さんみたいに)サキさんはそれとは違う強さを持っているような気がした。年齢は幾つぐらいだろう。お母さんよりも若くて、近所のお兄さん(寒中水泳大会で優勝した)よりも少し年上という感じかな、と僕は想像する。
 「手伝って」
 ぼんやりしていると声がかかった。
 サキさんが金属の器に雪をもって差し出す。磨かれた木の棒を片手に持っている。
 「スープを作るから、雪を融かそう」
 なるほど。
 水の作り方は同じなのだな、と僕は合点がいって勢いよく器の雪をかき混ぜ始めた。
 「違う」
 サキさんは僕の手首をつかんで、焚火の近くでやれと僕を引っ張った。僕はなされるままに中腰のまま、器ごと移動する。サキさんと一緒に木の棒をもって器の雪をごしごしと火にあてながらかき混ぜる。思ったよりも手に伝わってくる力が強くて驚いた。
 「こうするの」
分かったか? とサキさんが僕の顔を覗き込んでくる。
僕はたいしてコツが掴めたわけではないが、うんとうなずいて作業に集中した。触れられた手の感触が淡く残った。

 サキさんが作ってくれたのは島の木の実を入れたスープだ。お腹がすいて、疲れた体のまま、サキさんの指示に従って木の実の種を取り除いたり、水を沸かしたりしているうちに気が付いたら二人で火を挟んで食事をしている。
 「おいしい」
 サキさんは、器を抱えながら、眉一つ動かさずに言う。
 僕も一口、木を彫って作られた底が浅いスプーンですくう。木の実の香りがつよくて、それだけでもおいしい。体の中に温かさが広がってきてとても幸せな気持ちになった。ふだん学校や家で食べるよりも、何かを食べているという実感がした。
 突然、サキさんは立ち上がってキャンプの裏に見えなくなった。しばらくすると乾いた肉のようなものを持って出てきた。
「これは、この島の実を食べにくる鳥。」
 サキさんはピンク色の塊を掲げる。よく見たら鳥の形をしていなくもない。そのままナイフで少し切り取って、串にさして焚火であぶる。肉が鮮やかに色を変える。サキさんはくるくると串を回して焼け具合を確かめてから、僕に一つ差し出してくれた。いったんスープを地面において僕は受け取って食べる。動物らしい香りと弾力のある触感がする。
 「魚と全然違う」
 僕が感想を伝えると、サキさんは髪をかきあげ、串にかぶりつきながらうなずいた。

 「あのう」
 しばらく無言で食事が終わる雰囲気になってやっと僕は声をかける気になった。
 「サキさんは、冬の民、ですよね」
 僕は改めて目の前にいる女性の様子を確かめた。
 「そうだ。」
 と、うなずきながら彼女はスープを飲み干す。真っ白な首が毛皮のマフラーから少しちらりと見えた。
 「どこの村の人ですか」
 「冬の民は村を持たない。」
 「ええっ」
 「だが、旅団といういくつかの家族の集団を作っていることが多い。それで冬のあいだに島から島へと渡り歩いて生活をする。」
 すっかりぬるくなったスープの残りを飲み干して、串と器をサキさんに手渡す。彼女はそれをキャンプの中へもっていく。
 僕はぼんやりと焚火を見つめる。不安のような安らぎのようなものが揺れる火にかき混ぜられて浮かんでくる。僕はどうしてここにいるのだろう。どうしてこんなところで知らない人と、ご飯を食べているのだろう。
 火が少しまぶしくて暖かくて僕は目を閉じた。疲れた体が、それを待っていたかのように急に重くなる。

 体の感覚が、ある。僕は目を開ける前に、以前の記憶を手繰り寄せる。今、置かれている状況を思い出してうんざりする。また僕は気を失っていた。
 目を開けると真っ暗で、草で編まれた低い天井が見える。申し訳ない気持ちで身を起こして、サキさんを探す。どうやらここはキャンプの中で、サキさんは外にいる。また運ばれてしまったらしい。光が漏れだすほうに四つん這いではい出る。
 サキさんは焚火の陰で本を開いて座っていた。寒くないのかな、と僕は不思議に思う。その真剣なまなざしは声をかけるのをとどまらせた。サキさんはさっき採ってきた木の実を手に取って見つめて、ノートに何か書いては考え込んでいる。それをしばらく繰り返していた。独り言のように何かをつぶやいている。
 空は薄暗く、青色が緑や黄色、ピンク色に分かれてきている。太陽は夏よりも早く地平線に沈んでゆく。海の表面を凍り付かせる、冬の夜の気配がそこにあった。
 「サキさん」
 僕は思わず、声をかける。
 木の実を持ったまま、サキさんは僕を見る。僕は何か価値があることを言わなければならない気になった。
 日の前で立ち尽くす僕とサキさんの目が合った。見開かれた目は、夕闇の中でもなお強く光っていた。僕はその力強さと、未知に何かを託すように言った。
 「僕はどうすればいいのだろう。」
 口から出たのはそんな情けない言葉だった。
 サキさんはじっとしていた。彼女のほうも僕をどうするか、まだはっきりわからないようだった。村をはぐれて見知らぬ場所にいる自分。僕は帰れるのだろうか。村のみんなはきっと心配している。村中が大騒ぎになっているだろう。お母さんは、大丈夫だろうか。考え始めると、どんどん胸が苦しくなってくる。
しばらくして、こっちにおいで、と腰かけている倒木をポンポンとたたいた。僕は黙って焚火を周って彼女の隣に腰掛ける。それですっきりするなら、なんだってやってやる、そんな気持ちで。
 「見てごらん」サキさんは手に取った木の実を僕の顔のそばに掲げて見せた。
 「君の村にも木の実はあるね。」
 「うん」
 どうして当たり前なことをこんなにも面白そうに言うのだろう。サキさんはもっとよく見てという風に手のひらの上に木の実を乗せて僕に差し出した。僕はそれを受け取る。そんなことよりもここはどこなのか、僕は村に帰れるのかを知りたいのだ。
 「この木の実を見たことはある?」
 サキさんはかまわず、話を続ける。
 僕はじっと目を凝らして、その赤くて丸い粒をみる。見たことがない。僕は首を振る。
 「食べられる?」
 「うん」
 さっそく、口に入れる。かみしめると、すぐに舌の先が甘酸っぱい味に触れた。こんなにも豊かな味を自然が備えているなんて僕は知らなかった。村では魚ばかり食べているせいか、植物をこうして味わうのは新鮮だ。
 「おいしい。」
 僕は、種を地面に吐き出す。
 「君が食べた実の種は今から三年後に、もう一度実をつけるだろう。」
 僕は不思議なことを聞いた。彼女はにこりと笑って、腰から包みを取り出した。袋を縛っているひもをほどくと、そこにはさまざまな種類の実が詰まっていた。サキさんはそれを大事そうに見つめて、一つ選んでつまむ。白い手と、茶色い木の実が焚火に照らされて、ぼう、と浮かび上がる。
 「これは別の島から採ってきた木の実だが、この木の実も同じ。三年後に実をつけるだろう。」
 軽やかな声が、薪が燃える音と混ざりあう。
 「海を挟んで分かれている別の島から採ってきた実だ。種類も味も形も違うのになぜ、三年後に息を合わせたように実をつけるのか。」
 僕はサキさんから目を離せなかった。
 「君は不思議だと思わないかい。」
 僕は一言たりとも聞き逃すまいとして、彼女の言葉を追う。
 「どうして?」
 「それは、この実を食べる鳥と関係がある。」
 サキさんは、ノートを広げた。焚火の光を頼りに、身を寄せ合ってページを覗き込む。サキさんがまとう毛皮の苦い匂いがふわりと広がる。
 そこには三つの島が海をはさんで三角形に並んでいる絵が描かれていた。島と島は時計回りに矢印で結ばれている。
 「さっき君が食べた鳥。あれはこの三つの島を三年かけて一回りする渡り鳥なんだよ。だからこの三つの島には、この渡り鳥に合わせて三年刻みで、実をつける木がある。」
 言い終えて、サキさんは僕の表情をうかがう。僕は腰かけている丸太の枝を一つ折って、地面に絵を描いた。島が三つで、それぞれに木の実が三つ。渡り鳥が一匹。それが一年ごとにくるりと別の島に行く。
 「あれれ?」
 僕は分からなくなる。
 「木の実が全部、どの島でも同時に実がなったら別の島に移ったときにはなくなっちゃう。」
 「そう、だから三つの島で一年ずつ、ずれて咲いているんだよ」
 かちり、と頭の中で話がつかめた。鳥が渡ってくるタイミングに合わせて実をつける。僕は三角形を描くように地面に線を引く。鳥が渡る、島に花が咲いて実がなる。
 「まるで、鳥を使って手紙を交換しているみたい。鳥が来たらあなたが実をつける番ですよ、って」
 「そうだね。」
 サキさんがとても優しく笑う。
 「でもその手紙は、送ってきた人には返事がこない。三人目の人が受け取って、その人からやっと返ってくる。」
 それは、いったいどんな内容が書いてあるんだろう。僕は少し気になって笑ってしまう。
 「このお手紙の交換が、何回も何回を繰り返されているんだ。」
 サキさんは、言葉の感触を確かめるように、そっと言った。
 「私たちが生まれるずっと前から。」
 僕は、言葉を失う。この小さな木の実に、長い長い時間の積み重ねが宿っている。さっき地面に吐き捨てた種が、まるで違ったように見えてくる。いつしか心の中のもやもやは晴れていて、それどころではなかった。
 「もう暗いから、キャンプの中に戻ろうか。明日には君を見つけたところに向かえると思う。それでいい?」
 それからサキさんが立ち上がって伸びをした。僕は熱が冷めないまま、しばらく彼女の後ろ姿を見ていた。

 「寒くない?」
 「大丈夫です。」
 「この島に来たばかりで、簡単なものだが」
 サキさんが床のランタンを見てつぶやく。柔らかい光があたりを照らす。
 キャンプは草で作った屋根と床に、毛皮を重ねて熱を逃がさないようにしてある。雪がたくさんある時は、雪で作ったほうが温かくて丈夫なのだそうだ。僕とサキさんの二人がぴったり入れるぐらいの大きさで、広くはないけど僕はそれでよかった。
 もう外は真っ暗で、寝る以外にすることがない。サキさんが毛皮でできた長い布のようなものを見せてくれた。腕か、足に巻くものだろうか。灰色の毛でおおわれていて、目を奪われるのはそのきらびやかな飾りである。毛にまぎれて、金や銀、緑や赤、と言った刺繍がほどこされている。
 「足に巻くの。」
 サキさんがキャンプの床に膝を立てて座って、その毛皮を足首のあたりに巻いて見せた。細くて、でもしっかりした足に僕は少し驚く。透き通った白い甲に、骨ばったくるぶし。そこから、滑らかに曲線を描いて長い足の指へとつながる。そして今度はもう片方の足に毛皮を巻いてゆく。サキさんの足は、ただ歩くという機能を果たすためだけにあるみたいだ。それ以外の目的には不要であるかのように素朴で、洗練された形をしていた。ランタンの光で染まる肌に落ちる影が目に残った。
 「お守り。夢の中で転ばないように。」
 サキさんはきれいに飾った足を白い手で優しく撫でる。銀色の髪の奥から、彼女の微笑みが見えた。どう応えたらいいのかわからないけど、僕は思わずつられてほっとする。この狭いキャンプの中で、僕は安心している。心がどこまでも深く、この空気に溶けていくようだ。

 「君の分もある。」
 座っている僕の足をサキさんの手が触れた。自分とは違う体温にどきりとする。僕は学校に行くときのままのズボンの裾を、両手で膝のあたりまで持ち上げる。左足から、サキさんはくるくるとお守りを巻いていく。毛皮の温かさが、肌にまとわりついてくる。
 「そういえば、君、名前は」
 サキさんが手を止めて、僕の顔を見上げる。
 「カイ、です。」
 「そうか、カイというのか」
 名前を呼ばれてとたんに恥ずかしくなる。サキさんは僕の気持ちなど見向きもせずに、淡々と作業にもどる。自己紹介なんて学校の外ではあまりしない。僕は紛らわすように会話を続けることに専念した。
 「これは冬の民のお守りですか。」
 「そう。冬の民は、足を大切にするの」
 床にしゃんと座って、僕の足にお守りを巻きながら、サキさんは教えてくれた。
 「冬が来ると、何があってもその島から歩いてゆかなくてはならないから。」
 「その島に住まないの?」
 僕は単純にそう思った。
 「夏の間にたくさん魚を取って冬に備えればいいのに」
 サキさんは少し首を振って、
 「冬の民は、魚を捕るのが苦手。」
と柔らかく否定した。
 「というより、どんな島でも魚がたくさん獲れる海が近くにあるとは限らないの。」
 海といえば魚、と思っていた僕は、その言葉にはっとさせられる。サキさんは僕の反応を受け止めたのか、丁寧に言葉を継いでいく。
 「夏の間に、その島の限りある恵みをいただいて、そのあとは、必ずほかの島へ。たった一つの島から恵みを受け続けることはできない。そんなことをすれば、小さい島はすぐに命を失ってしまう。」
 思っていたよりも、冬の民の人々は、寒い中だけで生きているというわけではなさそうだ。当たり前だけど、どんな人にも夏と冬がちゃんとある。
 「恵みを受けるために、歩かなくてはいけないなんて、大変だね。」
 「そう。」
 同情して言ったはずなのに、サキさんはあまり気にしていないようだった。僕が心配しても余計なお世話かもしれない。そして、今度は右足。冷たかったサキさんの手の温度はだんだんと僕の肌の温度になじんできた。くるくると手慣れたようにもう一つのお守りを巻いていく。
 「でも」
 ほっそりと喉の奥から絞り出すような声に僕は顔を上げてサキさんをみる。これだけは言わなければならないという風に、サキさんが言った。
 「忘れてはならない恵みがある。それは私のこの体だ。」
 僕は目を見張る。俯いて表情は見えなかったけど、触れられた足から、意思が伝わってくる。
 「一歩一歩、海の上を歩いてゆけば、必ず次の島へと辿り着ける。そのための足を、私たち冬の民は授かっている。」
  冬の民は海を渡っていく『渡り人』ともいわれている。僕はどこかで誰かに教わったことがある。白い大地を歩いていく人々。
 でも、強い気持ちの裏で本当かな、と僕は思う。そんな保証はどこにもない。歩いているうちに冬が終わって、海の中へ沈んでしまうこともあるじゃないか。サキさんはそんな僕の考えを見抜いてか、
 「本当だよ。」とくすりと笑った。
 「ええ……。でも。」
 「はい、できた」
 サキさんはすっかり毛皮で巻かれた僕の足を軽くポンとたたいて、ふうと息を吐いた。
 「そろそろ寝ようか。」
 床から、ランタンを持ち上げて胸の前でゆらゆらと揺らす。
 「本当かどうか気になるなら、自分で考えてごらん。さあ、寝よう。君も村に帰らなくちゃいけない。」
 「じゃあ、僕も村に帰れるかな。」
 不安が少し、心に影を差す。
 「カイ。」
 サキさんがもう一度僕の名前を呼んだ。そして僕に向き直る。ことりと、ランタンが床に置かれる音がする。そのまっすぐな目は、まったく揺れることはなかった。僕は、思わず動けなくなる。
 「君が帰りたいと思う気持ちがあれば必ず帰れる。」

 目をあけると暗闇の中だった。けれど、もう一度目を閉じる気にはならなかった。不思議と意識がはっきりしていた。編み込まれたキャンプの屋根の草の一本一本が見える。まるで意思をもって結びついているみたいに。起き上がると布団がずれて、冷気が体にまとわりついてくる。それを振り払うように立ち上がりながら僕は外に出た。
 見慣れない形の木々が空に向かって伸びている。そして空には星々が木の葉のあいだから顔をのぞかせている。僕は歩き出す。
 どうして目が醒めるのだろう。
 軽い体に任せて、僕は島の中を歩き続ける。こんな夜は、今までなかった。体も心も軽くて、どんなところまで行けそうだ。暗闇は、怖くなかった。むしろその中に見える草木の緑や色とりどりの木の実が、僕の心を躍らせた。このまま、行けるところまで行ってみよう。
 突然、道が開ける。視界をさえぎる物は何もない。足が、柔らかい砂の感触を踏む。この島の浜に出たのだ。
 まるで空の中にいるようだった。凍った海が星の光を反射して空を映している。大きな鏡が、見渡す限り広がっている。白い砂浜からその先は、そのまま夜空がうつっている。冬の海をこんなに近くで見たのは初めてだ。おそるおそる足を踏み出す。サキさんが着けてくれた毛皮のお守りを感じながら、砂浜の上を進んでいく。砂の粒子のこすれる音が、ささやき声のように静かに響く。それ以外の音はない。僕は一歩ずつ白く光る砂浜を進んでゆく。
 足の裏の感触が変わる。底のない空は、しかし、ずしりと、僕の体重を力強く受け止めていた。手を伸ばせば届きそうな位置に星が見える。このまま歩いていったら、あの星まで行けるのではないか。景色に見とれながら、空の中を僕は進む。

 ふと見ると、島の影がもう一つ見える。星明りのもとで、黒い大きな塊のように見える。僕がさっき見たものとは違う。もしかしたら、僕の村がある島かもしれない。案外近くにある。それはそうかもしれない。サキさんが、気を失った僕を運べるような距離にあるはずだから。もしかしたら歩いて行けるかもしれない。そう考えが浮かぶと、我慢できなかった。サキさんにはなんて言おうか。村に帰ってからお礼を言いに、また戻りに行けばいいか。
 歩き出そうと思った瞬間、足元に何か大きな存在を感じた。気のせいかと思った。僕は注意を張り詰めて周りを見回す。夜の暗闇と、星の光はかえって意地悪なほど周囲に何があるのかを掴ませない。距離感がわからないのだ。戸惑っているともう一度、足元に生ぬるい体温のようなものを感じた。全身の毛が逆立つ。足元を見ると信じられないほど大きな黒い影が、動いた。不気味な未知なる存在に僕は足がすくむ。ゆったりと、そして止まることなく僕の周りを囲うように回っている。長い蛇のような影が、僕の周りの海面にゆらりと揺れた。
 この下に何かいる。
 僕はやっと逃げなければという気になって、走った。氷の表面に滑らないように、できる限り速く。まるで死そのものに追いかけられているかのように。寒さが、突然思い出したように身に迫ってくる。振り返ることすら恐ろしかった。やっと砂浜についた時には自分が生きているのが信じられなかった。心臓がどくどくと音を立てているのが耳に直接伝わってくる。もしあのまま進んでいたらどうなっていたことか。不気味な黒い影が頭から離れない。足を震わせながら、僕はキャンプへの道にもどった。
 海はこわいものだ。子供のとき、おじいさんがよく言っていた言葉を、何度も思い返していた。

 キャンプに戻ってテントをくぐると、サキさんがランタンを灯して一人、座っていた。僕はほっとすると同時に、抜け出したことがばれた、と悟った。

 「どこに行ってたの。」
 サキさんの見開かれた目がゆらゆらと震えた。僕は、海です、と答えた。
 「夜に海を歩いてはいけないのよ。」
 サキさんは怒りをこらえていた。僕は申し訳ない気持ちと、何も知らずに危険なことをした自分がみじめな気持ちでぐちゃぐちゃになった。
 「ごめんなさい。」
 僕は一生懸命に口を動かそうとした。
 サキさんはしばらく何も言わなかった。目を合わせるのが怖くて、僕はランタンの火ばかりを見ていた。僕はオレンジ色の小さな光を見つめながら、サキさんの許しをただ待った。

 しばらく、肩にのしかかってくるような重い沈黙が流れた。サキさんは頭を抱えて何かを考えていた。銀色の瞳がまだ細かく震えていた。やがて、ため息をして吹っ切れたようにもう寝よう、といって立ち上がった。
 「その代わり、私から離れないで。」
と布団を並べ替え始めた。ぶっきらぼうに床に敷いてあった僕の布団を取りあげて、一方サキさんは自分の敷布団を二重に、その上に掛布団を二重に重ねた。
 「さあ寝るよ」
僕がこの布団に入れというのだろうか。まさかサキさんは一晩中、座って僕を見張るつもりだろうか。
 おそるおそる、サキさんがこしらえた二重の布団に入り込む。サキさんがランタンを消す。僕が枕に頭をのせる。目を閉じるとの、同時に違う体温が布団の中に入ってきた。驚いて何も言えなくなる。僕は何をすればいいのかわからなくて、ずっとサキさんに背を向けて横になっていた。息をするのも気を使って、僕は小さくなって布団の端のほうに逃げようとした。すると、サキさんの手がわきの下を潜り抜けて、僕の胸の前に回ってきた。僕は動けなくなる。
「あの…。」抵抗しようとした矢先、
「君、あったかいね」とサキさんが耳元でつぶやいた。
「このほうがよく眠れる。」
ぎゅっとサキさんが抱きついてきて、僕は涙が出そうになる。今までの緊張が一気にほどけようとして、体の中で泡立っている。僕は抵抗するのをあきらめて力をぬいた。そのとたんにサキさんの体の温かさが感じられた。まるで、子供のころに戻ってしまったようだ。誰かとこんなにくっついたのはいつ以来だろう。
 「明日は、君を見つけたところに行ってみよう。」
 「は、はい」
サキさんの声が息とともに耳にかかってくる。僕は心臓の音が聞こえてないか心配になる。
 「おやすみなさい」
 「おやすみなさい」
 しばらくしてサキさんは何も言わなくなった。もうすっかり眠ってしまったようだ。僕も目を閉じる。温かさと、柔らかさが懐かしかった。

 「行こうか」
 朝食のあと、サキさんは伸びをして立ち上がった。ちょっと失礼、とそこに生えていた長い葉をちぎって銀色の髪を結んだ。

 僕たちは海に出た。どこまでも続く氷面は、朝日を浴びて白く光っている。太陽が照らす光の路を横目にサキさんに続いて歩く。サキさんは長い足で優雅に氷を踏みしめて歩いてゆく。迷いがない。灰色の毛皮をまとって海を見回しているさまは、とても格好良かった。
 僕の歩調は少しおぼつかない。学校に行くときの靴のままだ。氷の上は思ったよりもすべすべしていて、油断していると転んでしまう。
 それにしても、僕は昨日のこともあって海の上を歩くのが怖いし、引け目を感じる。もう一度足元を見るけれど、白いしっかりした地面でこの下に何かある気配は全くない。村では冬に海の上を歩いて行ってはいけないと厳しく教えられている。サキさんは慣れた足取りでずんずん進んでいってしまうから、そうしたことを気にしている暇はない。
 頼みになるとすれば、出発するときにサキさんがくれたお守りである。また足につけるのは同じなのだが、自分の利き足だけにつける紐のようなものだ。海に踏み出す最初の一歩をこの紐をつけた足で踏み出す。そうすることで、海が自分を受け入れてくれるのだそうだ。
 サキさんは、目の前の大きな島に向かって歩いている。昨日の夜に見た、僕が住んでいた島だ。遠くからでも、木々が生い茂っているのが見える。凍り付いた海面から木々をまとった岩肌が顔を出している。自分の島の全景を外から見るのは初めてで僕は少し感動した。まるで島そのものが生命を持っているかのように感じられた。
 「あそこの島の切り立っている部分から君は落ちたのだろう」
 サキさんは歩きながら指をさす。
 「けっこう大きいなあ。あそこに村があったのか。」
と感心したようにひとりつぶやいた。
 「たぶんあの島の、てっぺんのあたりが僕の村です。」と僕は説明した。
 「崖を上るのは難しいから、浜から登っていくしかないだろう。君は村から浜へ出ていく道は知っているかな。」
 中学生になってから、毎年夏は海で魚を捕る手伝いをしている。その時は大人も一緒だったけれど何とか道は分かるだろう。僕はサキさんの顔を見上げてうなずいた。

 青い空と白い大地。冬になると、自然がこんなにも鮮やかに色を分かつ。一年は夏と冬でまるで世界が違うみたいだ。夏には空の色を映して青い波を立たせていた海が、冬になるとこうして白い神秘の大地に変わる。白い大地は冬の民の世界で、夏の民が踏み入れていい場所ではない。昔からそう教わってきた。そして今僕はここを歩いている。僕が今立っている地面は、遥か彼方で空とつながっている。まるでサキさんと僕以外の存在が消え失せてしまったように感じられた。空と海、この世界を形作る最も基本的なものだけがここにある。
 「とても静か、ですね」
 僕は耳を澄まして静寂の音を聞く。
 「冬の海は、静かだろう。波の音がない。」
 「そうですね」
 波の音は僕にとってはすごくありふれた音だから、逆にないと気になるのかもしれない。さっきまでの不思議な違和感はそのせいだろう。二人の氷を踏みしめる音がその代わりになっている。
 「まるで、違う世界にいるみたいだ。」
 僕は横を歩くサキさんを見る。この景色は、サキさんがいるからこそ見られる景色だ。僕はサキさんによってこの場所に繋ぎとめられているとつよく思う。この海の真ん中で、もし一人だったら、僕は一人では生きていられないだろう。そう直感した。しかし、それを認めることは、どこかすがすがしかった。
 「君は私に会う前から、冬の民を知っていたね」
 サキさんは、僕に確かめるようにいった。
 「僕の村の昔話に出てくるんです。」
 僕は小さいころ、村のお年寄りに聞いた話を思い出す。
 「でも、サキさんに会う前は本当に冬の民がいるなんて信じられませんでした。」
 冬になると、今まで幸を恵んでくれた海はうって変わったように凍り付いて人を拒む。けれど、その凍った海を渡り歩いてゆく冬の民がいる。髪は、太陽に輝く氷のように銀色で、肌は雪のように白い。僕たち夏の民の相貌とは全く違う容姿はまるで、ほかの世界の住民のように思えた。本当にそんな人がいるのだろうか、と話を聞くたびに不思議に思ったのを覚えている。
 「君がそう思うのも不思議ではない。」
 サキさんが僕を見て微笑む。僕はその微笑みが現実のものであることにまた驚く。
 「今まで会った夏の民の中には、冬の民を全く知らない人もいた。」
 「本当?」
 「ああ、その島に旅団で訪れたときにはとても驚かれたな」
 僕は初めて冬の民と出会った人の表情を想像する。サキさんを初めて見た僕が驚いたときのようにありありと思い描ける。今でもこうして海を歩いているのが信じられないぐらいだから。
 「村によっては、冬の民を忌み嫌う風習があるところもある。たまたま、そういった島にたどり着いてしまって争いになったり、追い出されたりするときもある。」
僕は驚いて、何も言えない。でも、全く知らない存在と出会った時の感情が敵意に変わるところを僕は想像できる。でも、サキさんを目の前にしてそんなことを考えたくはなかった。
 「でも、仕方ないことなのかもしれない。私たちは住む世界があまりにも違う。」
 そう言い切るサキさんは、前を向きながら僕の変える島に向かって歩みを進める。透き通った白い頬に冷たい風が当たってうすく赤みがさしている。対照的に銀色の髪は揺らぐことなく強く光っていた。僕は一歩ずつ歩きながら黙って彼女の言葉を聴いていた。
 「そうかな」
 僕は胸を圧しつける疑問を、つぶやいた。それは疑問ではなく、ただ僕のそうあってほしいという願望が口に出ただけだったのかもしれない。今までずっととらわれていた思いが、上手く言葉にならずにあふれ出ただけかもしれない。でも、僕にはそれが精いっぱいの表現だった。サキさんが、僕と違う世界に生きている。それはそうかもしれないけれど。そうであったら、僕はどれだけの世界を知らないまま、生きているのだろう。
 「私たち人間に限ったことではない。海には海の世界がある。空には空の世界がある。生きているもの全ては必ず自分たちの世界で生きなければならない。」
 その言葉を聞いて、なぜか僕はひどく寂しく感じた。
 僕は何も言えずにサキさんの隣を歩いた。うつむいて、地面の氷のかけらを見つめながら歩いた。しばらくそうして歩いていると、ひたりとサキさんの足が止まった。僕はサキさんの顔をうかがう。厳しい目で何かを探しているように見えた。
 「サキさん?」
 「静かに、カイ。」
 「え?」
 僕は、何が起きたのかわからず、辺りを見回す。
 「聞こえる。」サキさんが張り詰めた声で、口走った。
 するとどこからともなく、歌声のようなものが響いてきた。とても美しい、おおらかな音楽。女性のようなきれいな声で、まるで誰かと語り合っているかのようだ。不思議なことに、その声の主はどこにもいない。どこから聞こえてくる声なのかもわからない。ただ、僕とサキさんには確かに聞こえている。まるで直接頭のなかに呼び掛けてくるかのようだ。
 「クジラだ」
 「クジラ…。」
 サキさんは、素早く前後を確認した。その目は、僕が想像しているよりもはるかに厳しく尖っていた。
 「上がってくる。カイ、引き返そう。」
 「え、どうして?」
 「いいから、早く。走れるか?」
 サキさんの目は見たことのないほど必死で、僕は気圧される。気が付けば、あのきれいな声は、さっきよりもはっきりとあたりに響いている。すると、目の前の白い地面がばきり、と不気味な音を立てた。サキさんは僕の手をひったくって風のように動いた。されるままに僕は彼女の手に引かれて走り出した。今度は、重いものをぶつけたように鈍い音が響いて地面が揺れた。足元に電光のようにヒビが走る。今まで確かだった白い地面が突然に激しく音を立てた。僕はサキさんの手を強く握りしめて走った。もう一度、僕たちの進行方向に鈍い衝撃が走った。その刹那耳をつんざくほどの音で地面が割れ、その下から不気味な黒い巨体がゆっくりと現れた。太陽の光を浴びてぬらりと濡れた肌。天まで届くかと思うほど大きな体。まるで巨人の指が、地面を突き破っているかのようだ。僕はその迫力に目を離せなかった。その真っ黒な指に大きな不気味な目が付いていてこちらを見つめた。その目が合うのとサキさんの声がもどってくるのが同時だった。
 「カイ!」
 サキさんの叫び声が、氷が割れる音と入り混じった。僕は手を強く握り返して必死で走る。
 「サキさん!」
 このまま氷の上にいるのは危険だ。さっき出発した島へと向かって引き返す。揺れる視界から、悪夢のように次々と氷が割れ、巨体が顔を出す。クジラは一匹だけではなかった。突然、轟音があたりにとどろいた。冷たい水が全身に襲い掛かってくる。目に水が入りうまく走れない。クジラが潮を吹いたのだ。サキさんの手の感触だけを頼りに走る。胸が痛い。足が疲れて、いつもよりも速く走れない。
 無我夢中で走って、やっとサキさんは手を離した。振り向くと後ろの足場が、まったくなかった。今まで白い氷におおわれていた海が、クジラによってあらわにされてしまった。
 「もう少し、急ごう」
 島はもう近くに迫っていた。
 「走る?」
 「いや、様子を見ながら急ぎ足でいこう。」
 腰を落として、地面を平らに踏む。ずっと走ってはいられないから、なるべく体力を温存して長い距離を逃げなければいけないらしい。帰り道、何度も激しく下から、黒い影が氷を揺らしてきた。はるかに大きな存在に僕は息を詰まらせる。サキさんは冷静に僕の手を引いて歩くべき方向に導いてくれた。

 命からがらに元の浜に戻った僕たちは、息を乱しながら海を見ていた。クジラが割り砕いた海は、黒々とした水面を見せて揺らめいていた。何匹もの巨大な影が潮を吹き、体を水面にたたきつけ、大きな音と飛沫を上げていた。
 「危なかった。」
 いつの間にか、サキさんの髪から緑の葉っぱがどこかにいってしまった。
 「荷物を置いてきてよかった。これほどの群れだったら逃げ切れなかった。」
 そう言い切るサキさんの横顔をみて僕は、唖然とする。命が危なかったことを、今さら思い返して怖くなる。
 「どうしてこんなにクジラが…。」
 「クジラは群れる習性がある。」
 クジラは呼吸のために氷の海面を割って出てくるのだそうだ。一匹が割るとその穴をめがけてほかのクジラがやってくる。いつしかクジラの群れが海面をあらわにする。そうなった海はクジラにとって天国のようなものになる。呼吸が自由になったうえ、光に寄せられたほかの海の生物たちがやってくる。それを餌にすることができる。酸素を求めてほかの群れがやってくると交尾も始まって、手の付けようがない。
 「助かっただけ感謝しないといけないな」
 サキさんは、天を仰ぐ。
 「クジラの穴を避けて歩くことは?」
 「不可能ではないが、危険だ。氷が割られて足場は不安定になる。あそこにはたくさんの生物が危険な海獣も含めてたむろすることになる。」
 サキさんが顔を険しくして言う。
 「どのくらい待てばいい?」
 「クジラたちがあそこの食料を食べつくすまで。少なくとも三日かそれ以上はかかるだろう。」
 僕はうつむいて、砂浜にしゃがみ込む。サキさんは黙ってそこに立っている。
 「キャンプに戻ろう。」
 サキさんが僕のそばにしゃがんで背中を押した。
 「今日の分の水を作る。あと、ご飯も用意しないと。」
 
  それから、僕はやけを起こすように夢中で水を作った。金属のお皿を火にかけてその中に雪を入れてかき混ぜる。火のそばは、理由もなく温かくて、離れたくなかった。雪がなくなったら、海の氷を砕かなくてはいけないのだろうか。そんなことは杞憂で、午後からはどんどん寒くなって雪がまた降った。
 「こんなに降ってしまうと草で作ったキャンプは使えなくなる」
 サキさんは雪でキャンプを建てると言い出した。僕は黙って従う。落ち込んでいる暇はない。

 やっとできたキャンプの中で僕はお湯を口に入れる。雪から作ったお湯は澄んだ味がした。雪の中、ずっと中腰で作業したから大変だった。その代わり、心地よい安心感がじんわりと体を満たしている。
 「こんなに大きいのは久しぶり。」
 サキさんがキャンプの壁をポンポンと叩いた。声が柔らかく反響する。
 「どうして」
 また僕は尋ねる。
 「今まで、一人だったから。」
 サキさんが、目を細めてランタンを見る。皮のシートに腰掛けながら僕はそんな彼女のまなざしに引きこまれる。この人には僕よりも長い過去がある。そう思うとそれを知りたくなってしまう。そしてその深い時間の奥行に、自分にはない何かを感じて、僕はどうしようもなく憧れてしまう。
 「でも、サキさんは冬の民は旅団を作るって」
 「私は学者だから。」
 サキさんは、耳に髪をかける。しっかりした高い鼻が際立つ。
 「知りたいことを知るには、ときに孤独な道を歩かなくてはいけない。」
 僕は、一人はさみしいか、と聴きたくなった。でも僕が気にするものではないと同時に思った。学校の先生はみんなで仲良くしなさいというし、お母さんは僕がちゃんと友達を作れるかどうかを心配する。けれどサキさんは自分で選んで、一人でいる。
 「サキさんの知りたいことって何?」
 僕がそう聞くと不思議なことにサキさんは少し考えこんだ。どうしてだろう。さっき自分で知りたいことがあると言ったのに。
 「はっきり言えないけれど、世界のことを、知りたい。かな」
 確かにサキさんは僕の知らないことをたくさん知っている。僕は感心してへえ、と相槌を打った。僕はそのあとになんだか居心地がすこし悪くなるように胸が痛くなる。それと同時に胸が熱くなる。世界を知りたい。そんな風に、何かを望んでもいいのだろうか。僕にはそんな想いを抱いた経験がない。そもそも、願ったことがない。
 僕は何を言っていいかわからずにサキさんの言葉を待った。サキさんは外をちらりと見て、雪を見てくるといって出ていった。

 「お守りを巻くよ。」
 サキさんがぼうっとしている僕を呼んだ。僕は布団の上で座り込んで足をサキさんに差し出す。すね毛が生えたりして大人というか男らしくなってきた自分の体が少し恥ずかしい。そんな僕の考えなど露知らず、サキさんは黙々と毛皮を足に巻いてゆく。
 まず、飾りがちゃんと正面になるように足におさえて、丁寧にもう片方の手で巻き付ける。僕はいつしかその手つきと、まっすぐな視線をただ見ていた。
 「とても大切なことなんですね。」
 自信なく僕は口に出す。少しでもサキさんの気持ちを汲み取りたかった。
 「そうだよ。」
 サキさんは僕にもう片方の足も、と手を伸ばす。その手に吸い込まれるように僕は足を差し出す。
 「冬の民は、信仰を大切にする。」
 サキさんは自分のことを言うのにどこかそっけない。
 「とくに、冬はそう。海の世界と、人間の世界、空の世界がお互いに距離が近くなる季節だからだ。」
 くるくると、僕の足に毛皮が巻かれていく。少し重くなってくるまぶたを感じながら、サキさんの話に耳をかたむける。
 「まず、空からは雪が降る。海が凍り、私たちはその上を歩く。海の世界は死者の世界。空の世界は魂の世界。人間はその真ん中に生きている。」
 サキさんは歌うように言う。
 「人は死んだらクジラになる。クジラたちはあの水平線、空との境界まで泳いでいって、空の世界に昇ってゆく。そしてクジラの魂は雪となって、私たちの世界を作る。
 私たちの世界はこうしてつながっているんだ。だからこそ、そのつながりを絶たないために気を配らないといけない。お守りをつけるのは、そのための正しい一歩を歩むためだ。」
 サキさんはとても軽やかに話した。僕は、そうした話を聞くのがとても楽しかった。学校で学ぶのは、数の計算とか生き物の獲り方とか寒中水泳とかだけだ。サキさんのような話をしてくれる人は誰もいない。
 「あ」
 気が付けば僕の足にはすっかりお守りが巻かれていた。話を聞くのに夢中になってしまっていた。
 「も、もしよろしければサキさんの僕が巻いていいですか」
 なんだか、言葉が少しおかしくなっている。僕は緊張している。
 「僕もやってみたいです。」
 別にやましい気持ちがあるわけではないのに、なぜか僕は姿勢を正して言った。
 「いいよ」
 と、サキさんは座りなおして足の裾をめくる。突然、目を見張るような白い肌があらわになる。
 「白い」
 僕は思わず息をのむ。サキさんは僕にお守りを手渡す。
「冬の民はみんなこうだ。」
 いや、白くてきれいだと言いたかったのだ。
 結構毛皮は長くてサキさんの足にあわせて大きく作られていた。茶色い毛と、色鮮やかな紐が組み合わさっている。見よう見まねでやろうとしてもうまくいかない。
 見かねたサキさんがこう、と僕の手をもって教えてくれた。触れられた手の柔らかさにまた驚く。感触に甘えたくなりながら、それを振り払おうとして必死でサキさんの声を聴く。まず、一周回して、それから少しずらして折り返してからもう一周。最後は外側の紐をきつすぎないように縛って結ぶ。
 「こうしてみると、お守りは防寒の意味もありそうですね。」
 僕は何となく言ってみる。
 「そうだよ。風邪をひかないようにしっかりやってね。」
 「うっ」
 急に緊張させるようなことを言われて僕は息がつまる。まただんだん手元があやしくなる。というか、冬の民も風邪をひくのだろうか。サキさんはどこか優雅に笑っている。僕が手をはなすと、サキさんは自分で少し巻きなおした。やっぱり下手だったらしい。
 こうしていると、夜の寒さが身に染みて、布団が恋しくなってきた。気が付けば今日も僕の布団がなく二枚とも一つにまとまっている。僕がサキさんに拾われる前はこうだったのだろうけど…。昨日のことを思い出して、うれしいような、悪いような恥ずかしいような複雑な気持ちになる。
 「あの、もう抜け出したりしません…。」
 「寝るよ。ランタンを消して」
 サキさんは一向に取り合ってくれない。僕は仕方なくランタンを消して、目を閉じるサキさんのとなりにおそるおそる体を滑り込ませる。
 しばらくして、昨日と同じようにサキさんが後ろから手を伸ばしてきた。僕はまた息がつまる。昨日よりも鮮烈に体の柔らかさが迫ってくる。うれしいのかそうでないのかよくわからない気持ちになって変な神経が逆立って眠れそうにない。

 「サキさん、あのう」
 「んん?」
 「なんでこうやって寝るんですか」
 「この方が温かいでしょう。」
 サキさんの優しい声を聞いて僕は反論できず、しばらく黙っていた。
 「そうですよね」
 僕は目を閉じて、少し力を抜いてサキさんに身をまかせることにした。サキさんが、心地よく眠れるなら、それでいいと思った。
 しばらくするとサキさんがなぜか解説してくれた。
 「夏の民は、泳ぐのが得意で筋肉質だし、肺のあたりの筋肉もしっかりしている。だからとってもあったかいの」
 むにゃむにゃとつぶやくサキさんの声を聞きながら、僕はすこし、いやかなりがっかりした。じゃあ僕は冬に寝るときに使うお湯を入れておく缶みたいなものなのか。

 金色の海が広がっている。空には神々しく太陽が輝いている。海面には、まるでその喜ばしい光景に応えるように金や銀の細かい波が躍っている。よく見ると海にはたくさんのクジラが一斉に水平線に向かって泳いでいる。黒く輝くなめらかな体を優雅にたゆたわせながら、金色の光に向かって進んでゆく。クジラたちはとても嬉しそうだった。まるで自分たちの命の全てを光に向かって捧げているかのように喜んでいた。潮を吹き、飛沫をあげながら、尾を水面に叩きつける。なんて美しい光景だろう。僕は思った。僕は鳥のように空を飛んでいて、クジラたちと一緒に進んでいる。
 どこかで見たことがある光景だった。僕は一生懸命に思い出を探る。そうだ。これは、何かが始まる時の光景だ。何が始まる? 夏だ。夏が、始まるのだ。冬が終わるとき、太陽が海を金色に染めるとき。その光景を僕はどこかで見たのだ。
 感動は静まって僕は誰かに呼びかけられる。クジラの歌のような、神秘的な響きを持った声が僕を呼んでいる。僕は急速に体に引き戻される。
目を開ける。薄暗い暗がり。ここはキャンプの中だ。僕は夢を見ていたのだ。背中にぴたりとくっつくサキさんの温もり。
 夢の続きのように、闇の中で声が聞こえる。僕は暖かい布団につつまれている。僕は体を動かそうとする。声はどこかで聞いたことのある声だ。僕が、雪の中で聞いた声だ。すぐ後ろから聞こえてくる。
 声の主はサキさんだった。誰かを呼ぶような寂しくて恋しい声。でも僕にはなんて言っているのかわからない。
 「サキさん」
 僕はおもわず声をかける。ものすごく悲しそうなのにどうしてあげればいいのかわからない。声色が普通ではない。いつもの落ち着いた感じではない。
 「大丈夫ですか」
 ふり返って肩を揺すると、がしりとものすごく強く手を掴まれた。僕は心臓が痛いほど、どきりとする。サキさんが何かを噛みしめるように言う。泣いているのかもしれない。腕になすりつけられた顔には涙がある。

 大人がこんな風に声をあげて泣いているのを見たことがなかった。サキさんが言っていたのは冬の民の言葉なのかもしれない。とても悲しんでいたのは彼女だった。泣いていたのは彼女の方だった。けれど、それが僕の中で深い傷痕のように残っている。目覚めた後も、僕は何も言えなかった。

 その夜から、クジラたちが島の周りの海をから去るのを待って何日かが経った。寝る前に二人でお守りをつけるのもだんだん慣れてきた。そのたびに、あの夜、どうして泣いていたのか、僕はサキさんに尋ねようとした。けれどもできなかった。二人で布団に入るとき、サキさんが僕の胸に長い腕をまわすとき、僕はそれ以上の意味を彼女の中に探すようになった。それだけではない。彼女から僕が知らないことを教えてもらうとき、話し方から目の色まで、何か特別な感じを抱くようになった。
 晴れることのない霧の中にいるようなのに、なぜか心は熱くて僕をつき動かそうとする。海を見るとき、どこまでも続く白い大地を見るとき、そんな気持ちが心を締め付ける。
 サキさんが僕と違う髪の色をしていること。違う目の色をしていること。違う世界を知っていること。それを思い知るたびに僕は苦しくなる。それと同時にかつてないほど、強い力が体に満ちてゆくのを感じる。その力がどこに向かっているのか、僕にはよくわからない。

 ある朝、僕は散歩をしたい、とサキさんに言った。一人で歩いてみたくなったのだ。
 もうすっかり島の生活には慣れたはずだった。けれど一人で歩く朝の森林は新鮮な緊張感を強いてくる。いつもサキさんと実を採ってくる木を通り過ぎて、僕はもっと奥に向かう。自然と足が前に進む。心が見たことのない景色を求めている。色とりどりの木の実と、葉の色が、凍てついた空気を忘れさせる。雪が降り出しそうな空と、元気な生命力の面白い対比に僕はわくわくして、もっと歩く。
 森林を抜けた先に高く木がそびえていた。その天を抱く大きな枝に、たくさんの木の葉を繁らせている。そして赤々と輝く木の実は今にも地面に落ちてきそうだ。
 僕は、その木の根元の方まで歩いてみる。見上げると、とても高くまで幹が伸びている。何枚もの葉がさわさわと音を立てる。その太い幹には苔がきれいな模様を作っている。何年もここで生きてきたのだろう。風に揺られている幾千の木の葉の動きは、生命の躍動といってよかった。
 しばらくそこで休んでいると、どこからかバサバサと風をあおぐような音がした。空を見上げると葉のあいだからたくさんの黒い影がぐるぐると木の周りを飛び回っているのが見えた。僕は目をこらす。鳥だ。この木の実をついばみに来たのだ。さっきまで森の中に鳥はいなかったのに、と僕は思い出してはっとする。この鳥達は、別の島から来たのだ! ちょうど木の実がなる頃に鳥達はやってくる。サキさんの言っていたことは本当だった。そしてまた鳥達は別の島へ。そして三年かけてここに戻ってくる。今日はこの鳥達の長い旅の始まりの日なのだ。
 僕は楽しくなって、この光景をサキさんに見せてあげたくなった。きっと喜んでくれるに違いない。もう一度僕は鳥達を見上げる。なんだろう、この感動は。勝手に口が笑ってしまう。
 走ってキャンプに戻る。息が上がるたび心はもっと軽くなる。苦しいはずなのに、サキさんの喜ぶ顔を思い浮かべると、なぜか力があふれてくる。あなたの言っていたことは本当だったのだ。このままどこまでも走って行ける気がした。
 「サキさん!」
 キャンプについて、僕は一番に彼女を探す。しかし、そこに姿はなく、火がついた焚火と薪を切るための斧が置いてあるだけだ。
 「どこかに行ったのかな」
 探していると、いつの間にか浜に出ていた。クジラが砕いた海が空の灰色を映してゆらめいていた。そして、それを囲む白い凍った海が静かに奥へと続いている。それと向かい合って、ひたりと銀色の髪をゆらした女性が立っていた。
 「サキさん」
 僕は彼女の名前を呼ぶ。
 「さっき、鳥が」
 しかし、サキさんは振りかえらずにまっすぐに海にあいてしまった大きな穴を見ている。クジラはもういない、すっかり静まった海。
 僕は彼女のそばに歩み寄る。声をかけようとして僕は彼女の目に涙が浮かんでいることに気がつく。僕は目を丸くして動けなくなる。
 「カイ」
 サキさんはそうつぶやいただけで何も言わなかった。
 「サキさんが泣いているのを見るのは、これで二回目だ。」
 僕はじれったくなってそう言った。こちらを見つめてくるサキさんに、僕は言葉を続けた。
 「夜、布団の中で誰かを呼びながら泣いていました。冬の民の言葉で。」
 僕は何を知りたいのか。だからどうしたというのか。よくわからなかった。ただ、泣いているサキさんを見ないふりをしてしまうのが嫌だった。そのまま、何もできない自分が嫌だった。
 サキさんは少し黙って、観念したように口を開いた。
 「人は死んだら、クジラになって空の世界に昇ってゆく。」
 そうつぶやいて、サキさんはまっすぐ海を見つめる。クジラによって開けられた海のその先には真っ白な大地がどこまでも広がっている。
 「昔、すこしのあいだだけ、一緒に旅をしていた人がいてね。君みたいに髪が黒い夏の民の人だった。」
 サキさんは海を見つめたまま、しゃがみこんで砂の上に座った。僕は彼女のとなりに座る。
 「私が夏の民の言葉を話せるのは、その人に教わったからだ。」
 とても懐かしそうに、ゆっくりとサキさんは言葉を噛みしめる。
 「だから、君に言葉が通じたときはとっても嬉しかった。」
 サキさんは、目を赤くしたまま無邪気に笑った。僕はサキさんがそんなことで嬉しがっていたなんて知らなかった。冬の民と、夏の民の言葉が違うことすらも知らなかった。ついさっきまで、サキさんを喜ばせようとしていたのに。
 「私達の家族がいた旅団と一緒に旅をしていた夏の民の冒険家の人だ。その人と会うまで、私は夏の民のことを全く知らなかった。その人が冒険してきた話を聞くのがとても楽しかった。私もいろいろなことを知りたいって思ったよ。」
 サキさんにもそういった過去があると知って僕は不思議な気分になる。今まで知らなかったことが、なぜか申し訳ないことのように思えるのだ。
 「でも、あるときクジラの群れに遭って死んでしまった。」
 サキさんの声は急に、心がどこかにいってしまったかのようになる。
 僕は胸が苦しくなる。
 「夜、星が見たくて二人でキャンプを抜け出したのが悪かった。私だけ、助かった。」
 サキさんはそこから先は何も言えなかった。息をつまらせて彼女は泣いた。波の音のない浜辺にサキさんの泣く声だけが響いた。
 僕は、歯をくいしばって、彼女のとなりで動かなかった。動けなかった。かける言葉がみつからなくて、痛みも忘れるほど、自分の手をずっと握りしめていた。二人で、座ったまま海を見ていた。僕は何度も励ます言葉を探そうとした。同情する言葉を探そうとした。けれど、自分にその言葉をかける資格があるのかどうか、わからなかった。それが何よりもつらいことかもしれなかった。
「行こうか」
しばらく泣いたあと、サキさんは立ち上がった。ぼんやりしていたら置いていかれそうだったから、急いで僕も立ち上がる。
 最後に振り返った、海はとても穏やかに見えた。ぽつりと、頰に冷たいものが当たる。
 雪だ。
 サキさんは空を見上げる。僕も、灰色の空を見上げる。もしも、サキさんの大切な人が、そこにいるのなら。
手のひらに落ちる雪をサキさんは見つめていた。

 「今日はごめんね」
 夕方、二人で作った雪のキャンプの中でサキさんは照れくさそうにいった。
 「いやっ僕の方こそごめんなさい。変なことを聞いたりして。」
 僕は慌てて否定する。申し訳なくて顔を背ける。始めに見たときよりも、ランタンのろうそくがずいぶん短くなっているのが目に入った。
 「でも」
 僕は続けた。
 「どうして、サキさんが悲しんでいるのか、知りたかったんです。」
 「そうか、カイは優しいね」
 サキさんが、首を傾けて僕の顔をのぞきこんでいる。思ってもなかったのにほめられて、僕は頰が熱くなってくるのを感じる。

 「さみしいけど、私はね、さみしくない。」
 何かを宣言するようにサキさんは言った。
 「あの人のおかげで、私は学者になろうと決めたから。この世界のことを知ろうと思ったから。」
 そう語るサキさんの横顔を僕はずっと見つめていた。すると、サキさんが横を向いて僕を見つめ返してくる。その銀色の瞳から、目をそらせない。
 「あの人が歩いてきた道の続きを、私は歩いているから。その一歩はあの人とつながっていると思うから。だから私はさみしくない。」
 僕は、胸に言いようのない熱いものがこみ上げてくるのを感じる。
 「サキさん。僕もサキさんみたいに、外の世界を知りたいです。今日、サキさんが言ってた三年で島を渡る鳥を見たんです。サキさんの言っていることは本当だったんです。僕はもっともっと、たくさんのことを教えてほしいです。」
 話している間、自分の手が震えていることに気がついた。目から涙がこぼれそうになっていた。声が変にならないように、必死になりながら話していた。
 「そうか。」
 サキさんは、僕が言い終わるのを待ってゆっくりとうなずいた。
 カイ、聞いて。サキさんは僕のそばに身をよせる。
 「カイがそう思うなら、そうしたいようにして欲しい。この世界はどこまでも広くて、私たちはどこまでも行ける。私は君が行くべきところへ歩んでいくことを応援したい。」
 「はい。」
 僕はすっかり嬉しくなって、強くつよく、うなずく。今日のこと、サキさんが話したことを絶対に忘れないと誓うように。
 「じゃあ、お守り巻こうか。」
 サキさんが言う。
 僕は足を差し出す。左足、そして右足。
 「サキさんのも」
 僕はお守りを受け取って白い足に巻いてゆく。
 今日は、この二人だけの空間がとてもちっぽけにとても温かく感じた。

 「おやすみなさい。」
 サキさんがランタンを消す。
 布団の中で、息をひそめる。
 「カイ。」
 耳元で、サキさんがつぶやく。僕は彼女の胸の前で抱きしめられる。
 「何ですか。」
 「明日、村に帰ろうか。」
 「はい。」
 僕は、胸の前の手に自分の手をそっと重ねてみる。
 柔らかくて、しっとりしている手。
 「何、カイ」
 「あの、サキさん。」
 僕ははじめて、サキさんの方へ体を向け直した。
 「サキさん、大好きです。」
 僕は言った。
サキさんは何も言わずに僕を抱きしめた。いつもより強く。温かさに包まれて、僕は目を閉じた。

目が覚める。今日はいつもと違う朝だと、体が覚えている。何か特別な意味がある朝だと。今日は村に帰る日だ。キャンプに足元から、朝日が差し込んでいる。サキさんの顔を見るといつもと変わらずに、おはようと言った。僕もおはようと言う。正常に動いている。特別な意味を乗せて、一日が始まる。
僕たちは朝食を終えた。僕は暖かいスープの表面に愛おしいものを見ていた。静かな時間が優しく僕を包んでいたように思う。サキさんにとっても、そうだっただろうか。
 お守りを氷の上を歩くためのものに付け替える。寝るときの毛皮のようなものから、ミサンガのような紐のものへと。自分の利き足の方から、氷の上の一歩を始める。氷の上は海の世界と、空の世界のつなぎ目だから気をつけて歩くこと。サキさんがそう言っていた。私は私を保っていなくてはいけない。自分が生きている世界に。
 そういった教えが本当に素直に心の中に響くようになった。僕に、まっすぐな勇気をくれるものだ。
 浜に出て、しばらく海の方を見る。まるで、砂浜と海の境界がなかった。雪が積もった砂浜は、そのままの白さで海へとつながっている。空が青く澄んでいて、クジラが砕いた海面がきれいにその色を表している。まるで本当にその先に別の世界が広がっているかのように、透明な水に光が差し込んで神秘的な深みをたたえていた。
 サキさんは穏やかな目で、深い海を見ていた。そしてしばらくして、歩き出した。僕も後を追う。浜の砂の感触が終わる。雪の奥で、しっかりとした大地の感触を感じた。これがどこまでも続いている。島と島をつなぐ道。その一歩を僕は歩き出した。
 景色は、島の中と全く違う。視界が広く、空が近い。前を見ると、白い大地と、青い空がぶつかる線が横にまっすぐに伸びていた。そして近くに見えるもう一つの島が、僕が帰る場所だ。
 クジラが開けた穴は、島一つ分ぐらいあるだろうか。身が震えるほどの大きさだ。僕には想像のつかない力を感じる。ゆらゆらと揺れる水面が、動かない氷の地面と対照的である。サキさんは、その分厚い氷の断面が見えるところまで歩いていった。よく見ると断面には層ができている。
 「雪層、と言ってね。冬になってから今までに降った雪の記録が、大地に刻まれている」
僕はクジラが開けた穴の淵にしゃがんで、白くて儚い線が積み重なっているのを見た。すぐそこは海面がゆらめいている。教えられなければ、見落としてしまいそうなものだ。層はそれぞれ、少し青みがかかっていたり、また乾いた骨のような白があったり、同じ白はどこにもなかった。自分が立っている氷の上に、こんなにも深い意味があるとは知らなかった。

サキさんと、歩調を合わせて僕は歩く。あまり話はしなかった。僕は何かを話したいような、そうではないような気持ちでずっと横を歩いている。そうしているうちにだんだん島が近くなってきた。
いつしか、僕は言葉はいらないと考えるようになっていた。まっすぐ前を見て歩くサキさんの横顔を見る。静かなのに心は柔らかくて、つねに動いている。サキさんも同じ気持ちだろうか。案外僕と同じようなことを考えているのかもしれない。はるかに、想像もつかない深いことを考えているのかもしれない。けれどもとなりを歩く彼女の気配がどこか心地よかった。ずっとこうして歩いていたいとも思った。
いつしか、見たことのある景色が見えてくる。一歩を積み重ねてゆけば必ずどこかへ辿りつく。
季節は違うけれど、あれは毎年魚を取りに行く浜だ。道はつながっている、そう思った。あれだけ日常から離れた世界を感じても、こうしてここに帰ってこられるのが少し信じられない。
 僕たちは、浜に立った。再び雪の奥で砂の感触が戻ってくる。木々の匂い。覚えている。サキさんは黙って浜の景色を見ていた。そして僕を見る。
 僕は言うべきことを言う。
 「ここから先は一人で帰ります。長い間どうもありがとうございました。」
 サキさんは、「無事にここまで来れてよかった。」とだけほほえんだ。彼女は僕に帰るべき所があると言っているようだった。そしてサキさんには行くべきところがある。だから僕は何もききたくなかった。きかなかった。
 「サキさん、さようなら。」
 僕は言った。
 「カイ、元気で。」
 少し笑って、サキさんは手を振った。銀色の髪を揺らして、歩いていった。白い大地がどこまでも続いている。

 見慣れた道を僕はいつしか走っていた。何かを振り払うように夢中で走った。記憶のピースが次々に噛み合って行く。村のみんなの気配が思い出せる。今頃みんなは何をしているのだろう。ほんの少し前までは、考えもしなかったことが一斉に流れ込んでくる。
 走り疲れて歩く。足が痛い、昼からずっと歩きっぱなしだ。こうしてずっと歩いていると、道は暗くなってきた。当然だ、と思う。夏の日に浜へ下りていくのはほとんど一日がかりだったから。一人きりでこうして何時間も歩いていると、たくさんの発見がある。走るよりも歩くほうが、ずっと長く進んで行けること。景色の一つ一つが目に入ってくること。僕の住んでいる島の木々は冬でも青々と葉を繁らせているものが多い。あとは小さな動物たちが駆け回っていること、冬でも冬眠しないサルとかが木々から顔をのぞかせている。冬の間、彼らは何を食べているのだろう。よく見ると、派手ではないが茶色い木の実が沢山、道端に落ちている。サキさんといた島とは、木の実の色も、地面の色も違う。
 サキさんは今頃どこいるのだろう。僕は歩きながら、考える。考え始めると止まらなかった。サキさんとどんな話をしたか、出会った日から、今日まで全部思い出せる。どんな顔をしながらどんな事を言っていたのかも覚えている。僕は歩くことしかできなくて、歩幅を広げた。もっと速く。僕は走り出した。
 村の入り口に着いた時にはもう、真っ暗になっていた。
 「ただいま。カイが帰ったぞ!」
 僕は叫んだ。
 もう一度、ただいま、と叫んだ。
 いつしか家々から、寒そうに人々がぞろぞろと出てきた。
 「お前、カイか、本当にカイか。」見知ったおじさんが言う。
 「はい。」
 「カイ、どこにいたの。みんな死んだと思っていたのよ。」
 「おーい、カイが帰ってきたぞ!」
 僕はみんなにもみくちゃにされながら家に着いた。
 お父さんは心配したぞ、と肩を叩いた。妹が、持っていたコップを床に落とした。
 お母さんは僕を見るなり、足から崩れ落ちて泣いていた。

 あれから、僕は村のみんなにたくさんのことを聞かれた。十日間ほど僕はいなくなっていたようだ。その間、何をしていたのか、どこにいたのか、何を食べていたのか。などなど、村の人たちの興味は尽きなかった。僕はあの、サキさんといた時間をうまく語ることはできなかった。冬の民と会って助けてもらった、と言っただけだ。みんなは冬の民がどんな姿をしていたか、どんな顔か、と根掘り葉掘り聞きたがった。僕は言いたくなかった。彼らが知りたいのは冬の民がどんなものか、と言うことだけで、サキさんのことをいくら言っても通じないだろう。
 サキさんとの思い出は結晶のように心の中にしまわれている。ひとつ変わったことと言えばそれくらいだ。あとは、日常の中で僕は当たり前に生きて、当たり前に生活している。

 それから、また何年かが経った。

 家の庭に、あの人からもらった木の実が小さな木になって、実をつけていた。僕は一粒とって口に入れる。懐かしい味と香りが広がる。僕は目を閉じて、記憶ごとそれを味わう。
 世界はつながっている。と思う。あの時、気が付いた事実をもう一度、噛みしめる。
 夏になれば夢のように白い大地は消えてしまう。思い出は過去のものになる。けれど、僕はあの人と同じ世界に生きているのだと、強く信じるようになった。今までこんなにも誰かを強く確かに感じたことはない。

 ある冬、村の図書館で本を探していると声をかけられた。
 「カイ、お前、冬の民と会ったと言ったな。」
 僕は何を昔のことを今更と、振り返る。声の主は、白い髪をしたおばあさんだった。僕のことなど気にせずたたみかける。
 「お前の、その足の紐、冬の民がするものじゃ。」
 「なんで。知ってるんですか。」
 おばあさんの目を見る。それは、あの銀色だった。
 彼女の後をついて本の森を歩く。すっかり入り浸ってもう配架をほとんど覚えてしまった。メルやシャン達と離れて一人で本を読むことに抵抗がないわけではない。二人とはいまだに仲がいいし、いつも一緒に登校している。ただ、自分が知りたいと思っていることを、他の人たちは何も知らなかった。中学校を卒業して、高校生になっても学校の先生は何も大切なことを教えてくれる気配がない。むしろ、数学や難しい道具の作り方ばかりで何か的外れなことを教えられている気がするのだ。今日もメルに宿題が終わっていないと言い訳して、ここに本を読みに来ていた。
 図書館のずっと奥の部屋に僕は案内された。静かな、部屋だった。もちろん今まで一度も入ったことがない。
 「働き盛りの青年が、水も作らずに調べ物とは。」
 おばあさんが、毒づきながらランタンを掲げる。ほこりっぽい部屋には、大きな革張りの表紙の本が何冊も積み上がっていた。ひどく古びていて、読めない字もあった。
 「お前の知りたいことはこれじゃろう。」
 おばあさんは、奥の本棚から難儀そうに本を取り出した。ほこりを払って僕に差し出す。
 そこには『島史』とある。
「村の歴史書じゃ。」
「村の歴史は、じいさんが教えてくれたのでは。」
僕は不思議に思う。もっとものすごい本を見せてくれるかと思ったのに。
「もっと昔の、じいさんが生まれる前の。」
 かっかっか、とおばあさんが笑う。ちょっと座れ、と古びたじゅうたんを指差した。僕はあぐらをかいてそこに座る。おばあさんは、床に正座して大きな本を広げる。パリパリと古い紙が音を立てて開かれる。
 「実はな、私のおばあさんは冬の民だった。」
 「え、」
 僕は驚いた。
 「この村は夏の民と、冬の民が拓いた村なのじゃよ。」
 おばあさんは、また笑う。
 「知りたいか。」
 僕はうなずく。
 「ここに冬の民の言葉で書かれた本もある。読みたいなら、勉強しい。」
 どさりと、僕の目の前で本が何冊も積み重なる。

 この世界は、どこまでも広くて私たちはどこまでも行ける。
 あの人の声が、心の中で鳴り響く。

 「カイ、起きなさい。」
 部屋にお母さんの声が響く。そうだ、今日は。僕は頭を働かせて思い出す。海開きの日だ。冬が終わって、海が青色に変わってゆく。
 階下に下りてゆくと、朝ごはんは質素である。でもみんなの顔は晴れやかだ。
 「これで漬物は今日で最後かあ」
 妹が嬉しそうに、苦手な料理(冬の保存食)を食べている。
 「カイ、ちゃんとお魚とってくるんだよ。」
 「はーい。」
 真に受けるでもなく、僕は返事をして席に着く。

 「おはよう、カイ。」
 メルが家の前に立っていた。すぐにでも泳げるような格好だ。昔から、海開きの日はそうと決まっている。メルはもうすっかり大人びた引き締まった体をしている。まだ日焼けしていない肌が、少しまぶしい。
 向かうのは、学校ではなく海だ。
 「おっす。」
 途中でシャンとも合流した。何やらまた女子のことを話している。僕は横目に一人、何かを考える。
 今日は海開きの日でも、特別に僕らが主役だ。成人として認められるための大事な儀式みたいなものだ。僕たちが、魚を一匹だけとってきて、それを村の神様にお供えする。それをして初めて僕たちは大人と、認められるのだ。
 大人かあ。と僕は終わってもいないのに勝手に感慨深くなる。
 何が自分を大人にさせるのだろう。何も特別なことはない。日々の積み重なりが、こうして僕を運んで行ったのだろう。

少し、あの人に今の自分を見せてあげたくなった。
僕は足を止める。
「あ、忘れ物。」
「はあ?」
 メルが思いっきり顔をしかめる。
 「絶対戻ってくるから」僕は叫ぶ。

 あの道を走る。何年か前のことが、はっきりと思い出せる。心の奥から、喜びのようなキラキラした気持ちがこみ上げてくる。木々の間を抜けて走る。あの日、いつか通った秘密の道だ。林の奥の岩肌に、僕を待っていたかのように、小さな穴があった。だいぶ狭く感じる。
僕は洞窟に身をねじ込む。
結局、僕はあの人に会いたいのだ、と知る。今までそのためだけに、もがいてきた。本のページをめくって、魚をとって、朝起きて、学校に行ってきた。ただ一生懸命生きてきたと、あなたに伝えたい。こうして生きていること。あなたのお陰で、ここまで来たのだと伝えたい。そんな単純なことなのだ。
光が差す。切り立った足場に僕は立つ。目の前には青く透明な海がキラキラと広がっている。水平線は綺麗なカーブを描いて、大空を吸い込んでいる。思いっきり息を吸って吐く。見上げた空には、一匹、鳥がどこかへ向かって飛んでいた。
どこまでも続く海へ、僕は飛び込んだ。
〈了〉

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