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擦り切れるまで書く

書くって何だろう。書き始めてから疑問に思っている。わたしは何が書きたいのだろう。書きながら考えているから迷走する。どうやったら書けるのだろう。未だに分からないから、書き始めるしかない。書いている内に分かる、と思っていた。書き続けている内に、何も考えずに書くことに夢中になれると。けれどもそんな、夢想は叶わなそうだ。書いたあとにも、考えて瞑想している。
書くことはどこか不自然だ。消えてしまいそうなものを消さないようにして、忘れてしまいそうなことを忘れないように書き残す。この世界では起こりえないことを、小説の世界で実現する。そして、書いているわたしは現実と書く世界の狭間の中で迷っていつも、書くことについて考えてしまう。読んでいるだけの内は良かった。与えられた本を読んで、その中で夢中になっていれば良かった。けれども、書き始めてからわたしは戸惑って、恥ずかしくなる。けれども言葉を前に出さないと進めない。書かなければ良かったと後悔したことはない。いつも必ずどこかにたどり着くから。
仏教の中に好きなエピソードがある。仏陀の弟子の中に頭が悪い弟子がいた。彼は、頭が悪くほかの弟子からも馬鹿にされていた。彼が、仏陀に相談すると、仏陀は彼に一本のホウキを渡して、「ただひたすら、これを持って掃除しなさい。掃除するときは、塵を払え、身を清め、とひたすら念じなさい。」と伝えた。
弟子はそれをちゃんと守った。頭が悪かったから、ひたすら「塵を払え、身を清め」とだけつぶやいた。ほかの弟子もそれを見て馬鹿にしていたが、弟子はひたすらにホウキで掃き続けた。
そのうちにホウキがすり切れて、弟子は掃除ができなくなった。そのときに、すべてのものが無常であるという、仏陀の教えを悟った。

ホウキがすり切れることで、悟る。書くことももしかしたら、この書く道具がすり切れるまで書くことで、何かを分かることがあるかもしれない。わたしが今、打っているキーボードも、持っているペンもいつかは壊れて書けなくなる。そのときに、書くとは何かを気づくかもしれない。その気づきは、頭が一番悪い弟子にも気がついたように、頭の善し悪しを超えた理解のはずである。わたしは今理解しようとしている過程にあって、ただひたすら、書くこと、それを念じることしかできない。
書いているこの身体もいつかは死ぬ身である。そうしたら生きている限りは分からない話なのかもしれない。書いている本人さえも、生きていることをすり切れるまで続けなければ、わからないかもしれない。

書くことにおいて、重要なのは、どうやって書くか、いつ書くか、と言うことではない。そして、誰が書くか、と言うことでもない。ぽっと生まれてきたわたしが書き始められたように、そして、いつかは書かなくなるように、誰、と言うのも関係がない。道具もいつかは朽ち果てるし、言葉も変わっていく。その中で、書くという動きだけが残る。書こうとしてどこかへ進んでいく動きだけが残る。

参考
周梨槃特のエピソード

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9

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