メモについて
メモを取り始めたのは、最近のことだ。最近も最近、ここ一週間のことだ。書くこと以外のやることが多すぎて、書かずに寝る日が続いていた。
やらねばならぬことのあいまにメモを書いた。それは散歩中だったり、読書中だったり、人を待っている時だったりする。立ち止まってiphoneのメモアプリに記録する。
書かれた言葉は小説の始まりになりそうだし、流れの一部になりそうだ。それを元にエッセイを一つかけそうでもある。書かれそうな文章を想像して、
でも実際に書くのは面倒なんだよなぁ、と思いつつ、信号が青になるので歩き始める。歩いたら頭がゆるんだところに文章が浸食してきて音楽のように言葉が流れ始める。
書かないと消えてしまう。わかっているけど、歩きながら書くことはできない。なるべく書くことに向き合っていたいけれ度、散歩中は書かない。
書くことの再現性のなさに驚いたことがある。自分が一年か二年前に書いた小説の草稿を見て、「もうこれは今の自分には書けない」と感心する。
作品といえば、その人のものというイメージがある。本屋に行けば、本の背にはちゃんと著者名が書かれている。けれども、わたしにとってはわたしが書いたものは、もう今のわたしには書けない何かであり、過去のわたしがそのときの偶然性も含めてなんとか形にした、わたしのものとは言えない不思議なものだ。
メモに頼るようになったのは、今までその場の勢いを感じ取ることに躍起になっていたが、白い画面を見てうんうんうなるつらさから、体が逃げ始めるようになった。
そんなに根気よく机に座らなくても、スマートフォンから流す音楽をえらぶように、メモに書かれたアイデアから、今日、書く文章をえらぶ。
そのときに聞こえてきた文章を、力を抜いて書く。そんなつくりかたもありだなぁ。と思い始めている。なぜなら作りたいだけではなく、作り続けたいからだ。
書きながら生きていること、日常のあらゆることが言葉になるかもしれない可能性を気にしながら、生活すること。
それが文章を書くことの一番の楽しみだと思う。焦らないで書くことを纏う。そんなイメージで書くことと作ることのエッセイを続けて行きたい。
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