モフモフキマグレイトハキマリモモドキ
わたしたちはすぐに歩き出さずに、しばらく見つめあった。
「ごめんなさい、この子が新しい糸を吐き出したの。」
少し遅れてきた妻は、手のひらを差し出した。その上には黒い毛玉が乗っていた。
「彼らも興奮しているのだろう。」
リーサは、ホテルの高い吹き抜けを見上げた。サングラスの縁が陽光を浴びて光る。
「ミセス・ヤマザキ。開会式、楽しみにしている。」
「ありがとう。」妻は軽く微笑んでわたしを見る。
「この人は、相変わらずぼんやりだけど。」
世界モフモフ会議が東京で開催されることは知っていた。今回は、人類とモフモフの共生がテーマだった。モフモフを使ったアートや、スポーツなどが考案され、披露される予定だ。妻も含め、周囲の研究者は盛り上がっていたが、初めてのことで、何が何だかよくわからない。
リーサから「お前も何か話すか、森下すぐる。」と一ヶ月前に連絡が来た。しかし、発表はせず、観客として参加するつもりだ、と返事をしておいた。
妻は、手のひらの毛玉を撫でた。
ほのかに潮の香りがした。
干潟の遠く平べったい海が、空の色を写している。青と銀色の波をかきわけると、貝と砂と魚が混ざり合う海水の世界があった。そこが網によってかきまぜられ、今まで誰も見たことがない黒々とした毛玉がからめとられた。
初めはただの黒い毛玉が見つかっただけだと思われていた。しかし、球体のある一点から体毛とは質が違う糸が吐き出される瞬間が目撃された。
彼らはやがて新しい生物として認められ、「モフモフキマグレイトハキマリモモドキ」と名付けられた。
思い返せば、このけむくじゃらの黒い生物を見つめたまま、何年も経っていた。
研究室の壁に沿って置かれた水槽の中に、彼らがひしめき合っていた。
水の中でゆらゆらと毛を揺らしていた。黒い野球ボール大の物体。黒々とした球体がわたしの目線をブラックホールのように吸収して離さなかった。酸素を送るポンプの細かい泡が、毛にまとわりついていた。
机の上にモフモフを置いて、眺めるのが習慣だった。
黒く生い茂った毛並みの中を指で探っていると、噴出口が見つかる。直径三ミリぐらいの小さなくぼみで、植物の葉が蒸散を行う気孔に形が似ている。それを見つけたら、周りの体毛をかき分けてピンやテープで止める。そうして噴出口を露わにし、見えやすい角度に固定しておいて、ただ待つ。
眺めていると、とつぜん糸を吐き出すことがある。その瞬間、退屈な時間を吹き飛ばす、強烈な快感がわたしのなかにあふれてくる。ゆっくりと少しずつ印刷されるように吐き出されるとき、水のように流れ出るとき、断続的に痙攣するように吐き出されるとき。どんな形であれ、その小さな命の脈動に打ちのめされて動けなくなる。吐き終わるまで、吐き出されたばかりの糸の艶めきを、ただただ凝視する。
吐かれた糸は、長さと太さをスキャナーにかけて調べ、記録する。
研究室のデータベースを見ると、これまで観察されてきた糸についての細かいレポートを読むことができた。まがりくねる糸から連想された一編の物語が、レポートの代わりに添えられているものもあった。
気まぐれに吐き出された糸に呼応するように言葉が蠢き、記録されてく。書いては読んで、読んではまた書いた。いつの間にか研究室の密やかな営みにわたしも加わっていった。
研究室のモフモフは板に挟まれて圧力を加えられていたり、紐で空中に吊るされていたりしていた。しかし、何をやっても糸を吐くペースの気まぐれさは変わることがなかった。そんな彼らに、痺れを切らしたのだろう。あるとき高田教授はモフモフがどこまで衝撃に耐えられるのか、実験してみようと思い立った。
教授は研究室の窓を勢いよく開け、身を乗り出して高さを確認した。
「君たち。下に行って、安全確保をたのむ。」
学生たちはひとり立ち上がると、もうひとり立ちあがり、教授の実験計画を聞き、メモしていった。そして、学校の倉庫と近くのホームセンターから道具をそろえた。
グラウンドに立ち、三階にある研究室の窓の下に三角コーンとポールで、二メートル四方の区域を囲う。飛散物があるかもしれないので、ビニールシートを敷く。駆り出された学生たちは、サイズが合ったり合わなかったりするヘルメットをかぶり、その場を見張る。
記録用紙にはこれから落とされるモフモフの名前と大きめの記入欄があった。
高田教授は、モフモフを持った腕を窓の外へ水平に伸ばし、
「モフィ、いきまーす。」
と号令をかけた。
学生たちがなんとなく返事をすると、十秒のカウントダウンが始まった。
ゼロで教授は手を離した。黒い毛玉が落ちる。かなりの音を立ててブルーシートに打ちつけられた。スマッシュされたテニスボールの打撃音のような音がした。
消えた、と思った。音の方を見てもそこにはもう何もなかった。しばらくしてポトリという落下音とともに悲鳴が上がった。男子学生の足元に、モフモフが転がっていた。どうやら接触があったようだが、モフモフは無傷だった。
「見たかー? 思ったより跳ねたぞー」
教授がメガホンで叫ぶ。その甲高い声に他の研究室の窓が苛立ったように閉まるのが見えた。
学生たちが、記録を取れていないことをバツ印のサインで上に示すと、教授はキャッチャーが守備に下がれと指示するような仕草で、手のひらを前に前にと押した。
さっき悲鳴をあげた男子が慣れた手つきで、回収用の竹かごにモフィを入れた。モフィは自分の毛を一房、黄色いビニールテープでまとめられ、そのあまりに「モフィ」と自分の名を書かれているのだった。
「モッフ、いきまーす」
教授はまたカウントダウンを始めた。ゼロで落とされた。
夏の空によく通る打撃音と共に、モッフは空に跳ねた。「フラーイ」と誰かが叫んだ。カメラ班が、もう一度シャッターを切る。竹かごを持って、ひとりが落下地点に走った。モッフは吸いこまれるようにカゴに収まった。
写真をチェックすると、どうやら一回のバウンドで二階の窓の高さ付近まで飛び上がっていることがわかった。
腕で大きくマルの印を出すと、
「モフ太郎、いきまーす」と教授がメガホンで叫ぶ。カウントダウンが始まる。その声はだんだん乗ってきたようで、はしゃいだ女子高生のような声になる。
「さん、にー、いち、ぜろ!」
モフ太郎が二メートル四方のブルーシートの海にダイブする。一瞬、毛が太陽の光を反射して光るのが見えた。打撃音と共に、もう一度跳ぶ。シャッターが切られる。
竹かごを構えた学生がすぐさま走り出して、受け止める。拍手が上がる。そうして、モフ三兄弟に続き、次々とモフモフたちが飛び立っていった。しかし、モフ蔵だけは違った。彼は重力にしたがって落ちたところに、体操選手のように美しい着地を決め、バウンドしなかった。割れたり、埋まったりしているわけではないので、不思議だった。
「ついでに試したいことがあるー」
高田教授はモフモフを打ち出すための銀色のバズーカを持っていた。教授はモフモフをひとつ手に取ると地面へと砲口を向けた。
「もっと跳ねるぞ」
バズーカとメガホンの二丁構えで叫ぶ。学生たちはあとずさった。しかし、ひとり動かない影があった。
山崎さんだった。危ないと周りが言った。誰も動くことができず、彼女の様子を見ていた。他の人の声が聞こえていないかのようにうつむいたままだった。しばらくして彼女は窓の下のビニールシートの方にさらに近づいて、教授を見上げた。髪が揺れて下になびく。
「やめてください。」
彼女は大声で言った。そして腕を広げ三角コーンのポールを踏み越え、ブルーシートに立ち塞がる。
「モフモフがかわいそう。やめてください」
彼女の声を聞いて、教授はバズーカを取り下げた。
「わかった。実験中止だ。」
すると山崎さんは片付けを始めた。ポールを外し、コーンを重ねて束ねた。ひとりで布団を畳むように、ビニールシートを地面に折り重ねた。フライを取るために構えていたわたしたちの方に歩いて来ると、地面に積まれていたモフモフたちをひとつひとつ竹かごに戻した。それらを抱きかかえ、山崎さんは研究室に帰っていった。
「モフモフキマグレイトハキマリモモドキ」
あの生物のちゃんとした名前を彼女は言い終えて、息を継ぐ。
「……を研究しようと思ったのはなぜ」
曇ったコップの水面に氷が浮いている。台形に似た形をしている。頭は丸く山のようになって、下は平たく四角い。透明な麦茶の中に透明な氷が浮いている。流れのあるやわらかな透明と、時間の止まった静かな透明。氷ができる時に、閉じ込められた空気が小さな粒子になって見える。下のほうは透明な星座を描くように散らばって浮いているのだが、丸くなった台形の頭のほうには天の川のように集まって白くなっている。
その静かな空間を貫く大きなひびがある。
「小さい頃に見て、面白いと思ったから。」
問いかけられて頭は働き出すようであった。
「そうなんだ」
サバの味噌煮定食のサバの味噌煮の身を、山崎さんの箸が解きほぐした。サバの身はほぐされ、骨を取り外され、つままれ、皿の上から飛び立っていく。
「私、眠るのが苦手で。」
オレンジ色の電球の明かりが、食堂の白いテーブルを照らす。傷と汚れが見える。同時によく磨かれ掃除されている。
「でも、モフモフと一緒に寝ると安心するの。」
山崎さんはつぶやいて、手を合わせた。
彼女は先に帰って、わたしは研究室に残った。
夜が深くなったところで、高田教授がバズーカを持って研究室に入ってきた。手伝ってくれというので、研究室から出て隣にある教授の個室に移動した。
いつも見える机の前に畳一枚分ぐらいの大きさのコンクリート板が垂直に立ててあった。床にはブルーシートが敷いてあった。教授はそばに置いてあったモフモフを手に取った。軽く手の中で回したり、振ったりして糸を吐いているかどうかを確かめる。全体を球状におおう体毛を手ですくと、一本、長い糸がゆらりと垂れた。それを手繰り、ハサミで根元の方から切り離す。何本か体毛がはらりと床に落ちた。無言で渡された糸をわたしはポケットに入れた。
教授はバズーカを床に立て、モフモフを発砲する準備に入った。砲身にモフモフを詰め終わると、コンクリート板から五メートルほど離れた三脚にバズーカをセットした。
「やるぞ」
「はい」
教授は、指で三つ数える。その瞬間、耳を打つような爆発音がした。コンクリート板に、巨大な穴が空いたかのような黒々とした円があった。よく見ると黒く見えたのは穴ではなく、モフモフが強い衝撃により、何倍もの大きさに引き伸ばされたものだった。
「おおおーっ」
教授は小学生のような歓声を上げると、床に散らかった物やモフモフを跳ぶようにまたいで、コンクリート板に駆け寄った。近づくと、大きさだけ引き伸ばされて平べったくなったモフモフが張り付いている。野球ボールから、バランスボールほどの大きさへの巨大化である。教授は板に顔を近づけて、じっくりそれを観察している。よく見るとモフモフはじわじわと縮んで、厚みが増してきている。
気がついた教授が即座にわたしの手をつかんで板から引きはなす。わたしも走った。床に積まれている本の角に足の小指をぶつけた。振り返ったとたんにモフモフは鈍い振動音とともに、巨大化した大きさのまま板から飛び出した。そして、予測不能な三次元的な軌道を描き、狭い部屋の壁から壁へ弾んだ。わたしたちは頭を抱えて落ちる本や物から身を守った。
散々暴れ回ったあと、モフモフはふわりと音もなく床に着地した。大きさもさながら普段より黒々とした不気味な迫力が増していた。
わたしたちはモフモフを板に撃ち続けた。夜の大学の校内に、砲撃音が断続的に鳴り響いた。巨大化したモフモフがひとつまたひとつとコンクリートに打ち込まれ、壁に突撃し床に転がる。足の踏み場を奪っていく。
最後のモフモフを撃ち終わった時、研究室の中は黒々とした毛玉に埋め尽くされていた。本棚や机を覆い隠すほど、天井付近まで積み重なっていた。まるで、巨大な生物の内臓に入り込んだかのようだった。
高田教授は実験終了と告げた。それからおもむろに床に転がっているモフモフを二、三匹並べてベッドのようにその上に寝転がった。
教授は「おつかれ」と言って目を閉じた。
わたしは、学生たちの研究室に戻った。誰もいなかった。窓の外は白くなっていた。
しばらく座って考えていても、何も思いつかず眠る気にもなれなかった。その代わり、腹が減った。食べられる場所を探そうと思った。
大学の校内は静かだった。ズボンのポケットにモフモフをひとつ入れて歩く。山崎さんと食事をした食堂があった。ガラスのドアには学生に向けたささやかな断りと連絡事項を書いたプリントがセロハンテープで貼り付けられている。
ガラス張りの窓から、電気が消えた内側と整列された机と椅子が見えた。
校舎のコンクリートは新しさを失ってぼんやりと朝の光に融けていた。何千何万回と見たものが、今日見てもやはり今までと同じようにそこにある。徹夜した朝も変わることなく校舎は校舎だった。
グラウンドは静かに開けていた。いつの間にか降った雨でしっとりと濡れていた。モフモフをそこに転がしたらどうだろう。深緑の人工芝の上に黒い毛玉が転がっていく。鮮やかな景色が思い描かれた。
誰もいないグラウンドに降りていって、誰も守っていないサッカーゴールにモフモフを投げつけた。繊維が擦れる音が朝の空気を走っていった。
サッカーゴールの白い網に受け止められたモフモフはふさりと人工芝の上に落ちた。あまり転がらなかった。わたしは歩いてサッカーゴールの中に入った。そして、モフモフを拾うと朝食を食べてもいいような気がしてきた。
校門を出て坂を下る。自動的に足が動いた。朝日は雲のない空を遠くまで照らしていた。今からでも暑くなる気配がする。歩きながらポケットに入れたモフモフの感触を味わっていた。
駅前の商店街はまだ大半の店が閉まっていた。
ファミリーレストランの自動ドアの前に立ってから、モフモフを店内に持ち込んでいいのかどうか迷った。しかし、ドアが開いた時には、席に案内されていた。
席に着いてメニューを開くと、ハンバーグが食べたくなった。注文をすると、五分くらいで来た。
厨房に戻っていくウェイターの後ろ姿を見て、ポケットの中で蒸れそうになっていたモフモフをテーブルの上に出した。重力に従うつもりなのか、逆らうつもりなのか、体毛が思い思いの方向にうねっていた。
食堂でこのようにモフモフを見つめながら昼食を食べていたら、そばを通りかかった学生が、モフモフの不気味さに悲鳴を上げて定食の盆をひっくり返したことがある。騒がしい食堂がモフモフひとつで凍りついた。わたしは非難の目に耐えながら、黙々と食べ続けた。そうする他なかった。食堂のおばさんがカウンターから出てきて床を片付けていた。落とした学生は「すみません」と言いつつ、列に並び直した。食堂はまたいつものように学生たちの声が響き始めた。
すぐに戻ってしまったのがなんとなく悲しかった。わたしだけ、そこから戻れていないような気がした。
ハンバーグをかみしめると、美味しかった。
ふと顔を上げると、向こうの席にこちらを見つめている視線があった。
サングラスをかけたショートカットの女性が向こうの席に座っていた。
全身黒いボディスーツをつやめかせ、アイスコーヒーが入ったグラスを持ち、足を組みながらストローで飲んでいた。まるで、彼女の体にとって必要な成分を摂取しているかのようだった。彼女は微動だにせずわたしを見ていた。大きな丸いサングラスは、蝶の複眼のように見えた。赤い唇がストローから離れると、わたしはすかさず視点をモフモフに戻した。
彼女はわたしではなく、この珍しい毛むくじゃらの球体を眺めているのだ、と思おうとした。しかし見られている感覚は消えない。わたしは急に固く感じたハンバーグとライスを飲み込みながら、ここから逃げることを考えた。
彼女が席を立った。その行き先がドリンクバーに新しいコーヒーを汲みに行ったのだと確認すると、すぐさまわたしは残ったライスをかきこんだ。
しかし、立とうとすると彼女は既にわたしの前の席に座っていた。右手にはストローが刺さったアイスコーヒー、左手には鮮烈な緑色をした発光する液体があった。
「メロンソーダはいかが」
やけに丁寧な口調で、彼女は言った。
わたしは黙って目の前に置かれたメロンソーダを無視した。
彼女も丸いサングラスをこちらに向けたまま動かなかった。おしろいを塗ったような真っ白な顔に原色の赤い唇。ショートカットは顔ぎりぎりの所で丁寧に切られていて彼女の顔の輪郭と一体になっていた。
「グレイト」
彼女は言った。
「この生物の秘密を知りたくないか、少年」
彼女はマジシャンのように手首をスナップさせてテーブルの上のモフモフを指さした。そして、もう片方の手でボディスーツのジッパーを首元から少し下ろすと、胸から警察手帳のようなものを出した。
革張りで縦に開く。表面に金色でモフモフのような毛玉を模した紋章が入っている。
「WMOのリーサだ。よろしく。」
わたしは逃げ出そうとして伝票を持って立ち上がった。その瞬間、彼女の手がわたしの手を引っぱって止めた。掴まれたわたしは前につんのめった。彼女は立ったまま動かない。握られた手首にアイスコーヒーのグラスで冷えた手の感触が伝わってくる。サングラスの一番深い黒の部分で、目がまばたきをした。
「生田坂にモフモフが出た」
ある時、高田教授が言った。研究室のキーボードを叩く音とペンを動かす手が止まった。
あぜんとする学生の目を覚ますように
「さっさとしなさい。坂、止まっているんだぞ、モフモフのせいで。」
と教授は急かした。
生田坂とは、登校するときに必ず登らなくてはいけない坂のことだ。大学は高台の上にある。斜面には林があり、都会では見られない生態系が形成されている。
研究室棟を出て坂に向かう。白衣と長ズボン。虫取り網と竹かご。録画用カメラを携える。
生田坂の周りには警備員がついて、坂ではなくエスカレーターを使用するように通行人を誘導していた。坂があまりにも急なため、近年設置されたものだ。
高田教授は教員証を示し「モフモフ研究者の高田です。」と警備員に告げた。わたしたちも学生証を見せると、通ることができた。坂はコンクリートで舗装されているが、脇道はすぐ林だ。土がむき出しになった地面を踏むことになる。林に入った途端、ぽとりと木の上から黒いものが落ちてきた。悲鳴が上がる。教授は「落ち着け、モフモフだ!」と声を張る。「採取!」の掛け声で見つけたモフモフを竹かごに入れていく。
「まずは頭を守れ」
おのおの持っているもので頭を覆う。まさかモフモフが上から来るとは思っていなかったので、ヘルメットを忘れていた。虫対策ぐらいしかしていない。
山崎さんは虫取り網を持ちながら林の上を見ている。木々の葉が重なるところに黒い粒々がいくつも見える。
「教授、ここを見ると、生えているというより乗せられたという感じがします。」
「ドローンが要るな……」
教授は望遠鏡で上を確認する。
「カメラ班、一旦戻ってヘルメットとドローンを頼む。作戦を練り直す。」
カメラ班が戻るのを待って坂の上に斜めに集まって座る。
しばらくして、カメラ班が持ってきたドローンをPCに繋げる。アスファルトの表面の画像が、ディスプレイに映った。教授が「OK」と言うとカメラ班がリモコンでドローンを打ち上げた。アスファルトが遠くなり、PCの周りでうずくまっているわたしたちが見えた。そして坂の林の景色が映る。
林全体が黒々としていた。木々がカビついたようにモフモフの群れにからめとられている。空中から見ると木々にびっしり黒いものが付いている。登って捕獲するわけにもいかない。
「こんなにいっぱい。」
山崎さんの目は輝いていた。
「そもそも、このモフモフはどうやって来たんでしょう」
教授は目を閉じて考える。
「わからない。ただ、アマゾンで発見された事例とよく似ている。」
ドローンでひととおり生田坂の林を見終わったあと、もう一度ヘルメットをかぶって地面に落ちたモフモフを採取する。研究室に戻ってそれを見る。何の変哲もないモフモフだった。
その日は、雨と風の夜だった。早く寝たのに、いつもより遅く起きた。電車に乗ると朝の早い時間より混んでいた。通学路にはカバンを持って歩く学生たちがたくさんいた。
生田坂の前には昨日と同じように警備員が立っていた。わたしは坂を見た。いくつものモフモフが雨に濡れた毛をぐっしょりとさせて、坂の下に散らばっていた。
どうにか、坂の方に行ってみたいと思った。
警備員にモフモフを研究しているのですが、と言った。声をかけられるとは思わなかったようで、帽子をかぶって立っていた中年の男性は目が覚めたようにこちらを見た。
「入ってもいいですか」
返事はなかなか返ってこなかった。他の学生たちはエスカレーターに登っていく。坂では清掃員が、鉄製のゴミ拾いでモフモフをひとつずつ拾ってゴミ袋に回収していた。
もう一度「いいですか」と聞くと
「気をつけてください。」
と言われ、通された。
雨で葉が散らばって、モフモフがいくつも落ちている。ぐっしょりと濡れたモフモフをひとつ手に取った。水を大量に含んでいて重い。毛が濡れてまとまり、みじめな姿だった。にぎると冷たい水と毛の中に手が包まれていく。雨水が手を伝って、腕も濡れた。
坂に転がっているモフモフは懐かしくて泣いているように見えた。
坂の中ほどに、ひとり黒い影が立っていた。それはあの時に見た丸サングラスの女性だった。モフモフを掲げて持って、手と腕を濡らしている。真っ赤な唇ときっぱりと顔を縁取るショートカットが煙の向こうに見える。煙草を吸っている。だが、呼吸しているようには見えない。黒いボディスーツに包まれた身体はマネキンのように形を保って動かない。
わたしは立ち止まった。
「森下すぐる。お前の論文は調べさせてもらった。」
彼女は煙を吐きながら言った。そっけないと同時に、とてもなれなれしい。
「お前、モフモフについてどう思っている?」
彼女のつぶやきは質問になった。モフモフの「モ」を強く言う独特な言い方だった。
「どうでも良い生物だと思っている。」
わたしは言った。
「ドウデモイイ?」
彼女はわたしの言葉を音のまま繰り返した。
「どうあっても良い。どこに住んでいても良い。一生、糸しか吐かなくても良い。気まぐれでも良い。不気味に思われても良い、たとえ……」
「もういい。わかった。」
わたしをさえぎって、彼女は言った。
「お前はモフモフについてもっと知りたいか? モフモフの秘密を受け入れるか?」
「どうでも良い。」
とわたしは応えた。
「……じゃあ来い。」
彼女は持っていたモフモフを地面に投げつけた。そしてその濡れた手でわたしの手首を掴んだ。手がそこで切り落とされたかのように、冷たかった。そのまま、彼女はわたしを裏返すように引っ張った。投げられたモフモフが、坂を下るように転がっていった。
坂の下には車が停められていた。彼女はドアを開けるとわたしを助手席に座らせ、運転席に乗った。
車の中は嗅いだことのない匂いがした。
彼女は車を発進させた。わたしはいつの間にか眠くなって、柔らかい車のシートに身を委ねていた。
山崎さんたちはどうしているのだろうと思った。運ばれているあいだに、きっと大丈夫だろうと心のどこかで結論づけたような気がする。
「着いたぞ。」
パチンと右頬を打たれる。すぐに意識が回復した。丸サングラスの顔が息の匂いとともに遠ざかって、車のドアを開ける。車の外は灰色で風景と言えるものはない。足元には白線が車に沿って引いてあり、駐車場だとわかった。
彼女の名前が思い出せなかった。一方で、教えたわけではないのに彼女はわたしの名前を知っていた。
「森下すぐる。歩け。」
彼女は足音を立てずに進み出した。
エレベーターに乗り、さらに下った。
ドアが開くと、薄暗い空間が広がっていた。ATMのような機械が等間隔に置かれている。
赤い絨毯からは、雨の匂いをかき消すような穏やかな匂いがした。並んだ機械のうちひとつに向かっていく。彼女は首の下のジッパーを開くと胸元から手帳を出した。それを機械にかざした。
「リーサさん、お帰りなさいませ。」と機械から音声がした。
「この間の分、千八百体分は無事に産まれた。新しく二千体、頼みたい。」
リーサは機械に語りかけた。画面には一切ボタンが出てこないので、外から見ると何が起こっているのかわからない。
「わかりました。二千体分のシリンダーを出します。そして行先もそちらに書いてあります。前回のシリンダーはお返しください。」
取り出し口の小さな窓が開く。
リーサは腰のあたりに手をやると、ホルダーから透明な管を出して、取り出し口に入れた。しばらくすると新しいシリンダーが出てきた。リーサはそれを受け取り、腰のホルダーにしまう。
「これで終了です。」
と合成音声が言った。
わたしはリーサのサングラスの奥に視線をやった。
リーサはシリンダーを腰のホルダーにしまうと、ジッパーを首元まで戻して歩き出した。
車は進む。
「次はどこに向かっている?」
いつの間にか、彼女の口ぶりが移って、ぶっきらぼうになってしまった。リーサはハンドルを握りながら「シリンダーがベルリンを示している」と言った。
灰皿には、わたしがいないあいだに吸われたいくつもの燃え殻が残っていた。車のフロントには見慣れた毛玉を生やした生物が、一匹置いてある。
やがて開けた場所にたどり着いた。もう一台車が止まっている横に、リーサは車を停める。車の外は、夕暮れの空が何にも遮られずに、雲に彩られていた。風はほとんどない。
リーサは歩き出す。進む先に、飛行機があった。
タラップを登ると、スーツを着たドアマンが入り口で待っていた。「おかえりなさいませ。」ときれいにお辞儀をする。
リーサは頷きだけであいさつすると、機内の柔らかい床を踏んでいく。
「森下様。どうぞ。」
手で示されて中に入っていく。中はリビングのように、黒い絨毯の上に黒いテーブルやソファが配置されている。
一番奥にドアがあり、リーサはその前に立ってわたしを待っていた。
「会長だ。失礼のないように。」
わたしがひとつ呼吸をするのを見届けて、リーサはドアに手を触れた。電子音のノックが響いて、ドアがスライドして開いた。
もうひとつ黒い部屋があり、奥に人が座っていた。絨毯の毛は黒々として一段と長く、フサフサしていた。椅子が回転して、部屋の主がこちらを向く。髪の毛が豊かに顔の周辺から周りの空間に広がっている。着ているものはゆったりとした浴衣のようなものだった。
「ようこそ。リーサ、森下君。座ってください。」
彼は前のソファーを指し示した。わたしたちはそれに従う。
「はじめまして、私は茂木繁。WMO日本支部会長だ。」
「はあ。」
そんな説明をされてもわかるものではない。リーサが何も言わずにここに連れてきたので余計に混乱している。
「モフモフの研究は進んでいるかね。」
「ええ、毎日少しずつ糸を解析しております。」
「ほう、糸か。なぜ糸なんだい?」
「糸の太さと細さのうつりかわりを分析しているのですが、それを振動の強さと弱さに機械的に変換すると音楽のようになるのです。」
「なるほど、その糸から出る音楽とはいったいどんなものなのかね?」
茂木会長はいたって丁寧な言葉遣いで尋ねた。
「ジャンルで言えば何?」
リーサが軽くはさみこむ。
「ジャズに似ております。」
私は言った。
「ふむ。」
茂木会長は顎に手をあて、もう片方の手で自身の豊かな髪の毛を撫でた。
「気まぐれだからジャズ?」
リーサは言った。僅かに疑問文として語尾が上がった。
「結論は付かないだろう。なにせ気まぐれだからな。」
会長は言った。
飛行機の中で夜を過ごした。目が覚めると暗い機内に太陽の光が差し込んでいた。リーサは目の前の席で煙草を吸っていた。その煙の匂いで起きた。
わたしが体を起こすのを見るとリーサはブラインドを上げた。雲海の上の青空が見える。
席を立ってトイレに行くとドアマンと会長に会った。どちらも「おはよう」とあいさつをしてくれた。
席に戻ると、朝食のパンとスープ、それからスクランブルエッグとソーセージがわたしたちの間の低いテーブルに置かれていた。リーサは背中を曲げ、猫のように食べていた。
飛行機が着陸した。着いたところも私用の空港のようだ。車が用意してあって、乗るとリーサがわたしの肩をシートに押し付けた。吐く息から煙の匂いがした。腰のホルダーからアイマスクを取り出してわたしの目を覆う。
「一応、目隠しする。拒否権はない。寝ていればいい。」
次に目を開けると石造りのホテルがあった。入ると、ロビーでは色々な人が聞き取ることができない言語で話していた。
「都合上ダブルの部屋をとった。先にシャワーを浴びろ。時間まで休め。」
拒否権はなさそうなので従うことにする。
シャワーから帰ってきたリーサはボディスーツではなく、バスローブを着ていた。しかし、動作は全く変わらず、サングラスも外さず、煙草を吸いながらモフモフを撫でていた。何も話しかけないリーサにわたしは何も言えない。リーサは横になって寝た。わたしも寝た。飛行機で寝たばかりだと思ったのに、疲れたのでよく眠れた。
起きたら夕食の時間だという。
食べ終えると、リーサはウェイターにチップを渡して席を立った。ホテルのロビーを抜け出て外へ出る。
リーサは腰のポーチから透明なシリンダーを取り出して月明かりにかざした。
「ついて来い。」
歩いて行くと森にたどり着いた。街灯はほとんどない。リーサは歩き続けた。
森の中に湖があって、そこで明るくなった。月の光を受けて水が光る。
リーサは水辺に立ってシリンダーを取り出し、注射器のようなものにセットした。そして針を水中に入れ、ピストンを押した。水面が静かに泡立つ。
「明日にはここにモフモフが生まれている。」
わたしは言葉を失った。
次にリーサは近くの木に歩み寄ると、皮に針を差し込み注射針のピストンを押した。そして針を抜く。
「木の幹に打つと、吸い上げられた水によって木全体に素子が行き渡り、木の実のように生える。見覚えないか。」
わたしはまだ、何も言えなかった。
「モフモフには神秘も何もない。私たちはどこから来て、どこへ行くのか。人類の問いは彼らには無効だ。」
暗闇の中でリーサのボディスーツは少し光っていた。
「つまりモフモフは、人の手によって生まれた人工生物。そしてWMOは彼らを世界中に広めるための機関。」
リーサはわたしに注射器を手渡した。注射器は拍子抜けするほど軽かった。
黒い繭が、球体をかたどって机の上に置かれていた。手に持つと中に生命のもつ一種の重みが感じられた。モフモフの糸の吐き方は気まぐれなのだから、繭のような構造物を作ったとしてもおかしくはない。こうして実際に作られ、机の上に存在している以上、納得するしかない。
繭を最初に発見したのは、山崎さんだった。彼女が世話をしているモフモフがこうなった。彼女は忙しそうにノートに鉛筆でその繭の様子を記録していた。わたしも教授と一緒になって写真を撮る。使い切りカメラのフィルムを巻いて、別のアングルを探す。
繭は、所々太さや細さが異なった糸で構成されていた。もともと野球ボール大のモフモフが繭をまとってバスケットボールほどの大きさになっていた。
「中で生きているのか、死んでいるのか。」
高田教授は言った。
「こんな大量のエネルギーが必要な行為を一晩に成し遂げたら、今後はもう何もないかもしれない。」
研究室には何年も糸を吐く様子がなく、生きているのか、死んでいるのかわからないモフモフもいた。
「しかし、この子がどれだけの量のエネルギーを持っているか、これだけではまだわかりません。」
結局、この繭をどう研究するか、高田教授は山崎さんに一任すると言った。
山崎さんは少しずつ繭の糸を剥がす。わたしは繭の方を持って、剥がしやすいように向きを調整する。ピリピリと小さな音を立てて糸が解けていく。両手で繭を持って、少しずつ時計回りに回す。山崎さんは、糸を棒に巻き取ってゆく。
繭が解かれていく。糸を全て取り去る。中にはなんの変わりのないただのモフモフキマグレイトハキマリモモドキが入っていた。わたしと山崎さんは顔を見合わせた。
それから山崎さんは細い糸を繋げて、一本の繊維を作る。それで服を作るのだという。
黒い海。車の窓から見える景色は、異様な穏やかさに満ち満ちていた。モフモフの海。一面に浮かんだモフモフは太陽の光をよく吸って、ほかほかと波に揺られていた。
「どうだ、調子は。」
リーサがハンドルを握りながら、聞く。
「まあまあ。」
わたしはそう応えた。
車が海岸沿いの道をカーブする。体が揺れる。
「もうじき、世界がモフモフで埋め尽くされる。」
山並みの隙間から、空が見えた。わたしはうなずいた。
すると急に黒いものが道にうずたかく積まれているのが見え、車はそれにぶつかった。リーサがブレーキを踏み、車が止まる。目の前には黒い毛玉が運動会の大玉ほどの大きさになって、立ち塞がっている。
リーサは舌打ちして、ドアを開けて車を降りる。わたしも続く。
車輪にモフモフが入り込んでいた。衝撃によって膨張する性質によって引っかかって取れない。仕方なく、レッカーを呼ぶ羽目になった。
リーサは車の後ろに回って、トランクを開けた。アイスボックスが置いてあった。その中に、ハーゲンダッツのクリスピーサンドの箱がぎっしり詰め込まれていた。
彼女は袋を破いて咥えると、しゃがみ込んで発煙筒を立てた。
「お腹空いたのか。」
わたしは聞いた。彼女は首を振って、立ち上がった。
「心が満たされればいい。」
リーサは歩き出した。
浜辺に出た。彼女は迷うことなく、靴を脱ぎ捨て砂浜を踏み、モフモフの海に進んでいく。黒いボディスーツとモフモフは同じ色だと思った。
リーサは首元のジッパーを深く下ろして、スーツを脱いだ。突然白い背中が現れる。そのまま、どこかに還っていくように海に入っていった。頭から黒い波に潜る。
わたしはそれを必死に追いかけた。着ていた服が全部濡れた。波とモフモフが何度も顔を打ちつけ、わたしの息を塞いだ。
そばによると、彼女は握りしめていたサングラスをかけ直し、空を見た。モフモフにまみれながら空を見ていた。わたしは波に押されながら、立っていた。
リーサはモフモフをひとつ握って、空にかざした。遥か先の水平線まで、黒いモフモフのコロニーが続いていた。
「私は、世界を無意味なもので埋め尽くしたい。お前も手伝ってくれるな。森下すぐる。」
わたしはリーサの持つ黒い毛玉の輝きを見た。
長い糸。短い糸。太い糸。細い糸。曲がりくねる糸。真っ直ぐな糸。一生をかけて、気まぐれに。彼らは糸を吐き続ける。糸が折り重なり、結ばれ、ゆらゆらと揺れる白い光を湛えながら、いくつもの曲線を織りなす。
「もうそろそろね。」
妻はモフモフの糸で編んだドレスのスカートを丁寧にさばき、ベッドに腰掛けた。窓の外を見る。
ホテルの部屋は八階で、黒々とした都市の風景が見渡せた。気球のような巨大なモフモフがいくつか浮いているのが見えた。増えすぎたモフモフを宇宙に逃すための圧力処理場から迷い出たものだろう。
わたしは荷物を置いて散歩をすることにした。
新国立競技場の周りにはいくつものモフモフと人が祭りの前の興奮と熱気を孕んで、開会を待っていた。モフモフ反対派のデモがあったようだが交通規制などによって鎮圧されたらしい。
熱気に気圧されて気晴らしもできず、ホテルに戻った。妻はベッドに横になったまま、ぼんやりとしていた。
「やばい。緊張してる。」
逆に力が入らなくなったのか、目の焦点は合わず、体も力が入っていない。
「大丈夫。君ならできる。」
わたしはベッドの頭の近くに腰掛けた。
「断ったくせに。」
「君にはやるべきことがある。」
妻は不満そうだったが、わたしは負けないように言った。
しばらく話をしたら落ち着いたのか、妻は起き上がった。時計を見て支度を始めた。その動きにはもう迷いが無かった。
開会式の準備に向かった妻を送ると、わたしは部屋をしばらくひとりで眺めていた。会議の間、滞在をするのにふさわしい立派な部屋だった。リビングとキッチンがあり、寝室にはクローゼットが付いていた。
まだ何も服が入っていない。わたしはその中に入って、息をした。匂いがした。その途端に、懐かしい想いに駆られた。そしてドアを閉じると、クローゼットの中は何も見えなくなった。
しばらくその暗闇を味わっていると、自分が何を考えているのかわからなくなってきた。息を吸って吐いた時には、懐かしいメロディと歌い出しの歌詞が口から出てきた。わたしは歌い続けた。
幼い頃、わたしの家で思い切り声を出せる場所はクローゼットの中だけだった。それも口を押さえていないと外に漏れ出てしまう。しかし、どうしても思い切り声を出して歌いたかった。口ずさむのではなく、思い切り。この声は誰にも聞かれていないと安心してはじめて、歌うことができた。
母の好きだった歌を思い出した。なぜか好きなのだという。理由はよくわからない。母が好きだったから、わたしも好きになった。
口を押さえて息をすると苦しかった。でも、苦しければ苦しいほど良かった。歌っているうちに涙が出た。
泣こうと思って泣けなかった。自分に泣く資格があるとは思わなかった。だから、涙も懐かしかった。
午後八時、競技場からモフモフが打ち上がる。スタジアムの屋根の上に設置されたモフモフ砲から、高圧力で込められたモフモフが射出される。空に打ち上げられたモフモフは圧力の変化を受けてふくらみ、安全な速度でゆっくりと地面に落ちてくる。
数万人の観客で埋め尽くされたスタジアムに、黒い雪が降る。
ある観客は手をのばし掴もうとする。大きくなりすぎたモフモフは夕方が終わったばかりの空にどこまでも高く飛んでいく。
「私の発明が、こんなところで役に立つとは」
関係者席で高田教授と隣になった。彼女は嬉しそうに空に手を伸ばす。久しぶりに会っても、好奇心に満ちた無邪気な笑い方は変わらない。
そして音楽が始まり、グラウンドに明かりが点いた。
中央に、一つの小さなベッドが置かれている。灰色の床に、ベッドだけがあった。そこに、一人の少女がとぼとぼと歩いていく。
少女は眠らなければいけない。でも、眠れなかった。
ベッドの周りが黒々とした不穏な光に照らされる。少女は怖かった。少女は地震が怖かった。戦争が怖かった。病気が怖かった。大切な人が死ぬのが怖かった。世界が見えないところで荒れ果てていくのが怖かった。
眠れない。ベッドの上で少女がうなされている。グラウンドで踊るダンサーたちが胸をかきむしる。頭を抱える。やがて、言い争いが起こる。取っ組み合いになる。嘲いあい、罵り合いが日常茶飯時になる。
昼と夜がぐちゃぐちゃになる。起きるべきでない時に目が覚め、眠るべきでない時に、起きていられない。ベッドの周りで大人たちが立って彼女を見下ろす。何かを話し合っているが、彼女の耳にはただうるさいばかりだ。彼女はベッドの中に深く、深く深く潜る。何も聞こえない所へ、誰も見ていない所へ潜る。
会場が真っ暗になる。永遠に続くかのような沈黙と闇。息をする音が聞こえる。
僅かにベッドのあたりが照らされた。そして彼女の枕元に誰かがそっと何かを置いた。彼女は、気がついて目を覚ます。それはただの黒い毛玉だった。何でもないただの毛玉だった。
「これを置いたのは、誰?」
彼女は起き上がり、ベッドの周りを見回す。暗闇の中にもうひとつ明かりが点く。少年がそこに立っていた。
「これを置いたのは、僕だよ。」
笑っていた。少女はそれを見つめ、毛玉の感触をもてあそんで安心する。
「僕にも渡して。」
少年が手を広げて示す。少女は軽く毛玉を手渡す。ひとつ何かがつながる。
少年が毛玉をトスする。彼のとなりにはもうひとり仲間がいた。その仲間も少女に笑いかけて毛玉を渡す。
もうひとつ、小さな明かりが点いた。
試しに少女は、何も見えない暗闇に毛玉を投げてみた。ベッドから飛び出した毛玉を小さな光が追う。灰色の床に落ち、転がる。そして、止まる。
もうひとり少女がベッドのそばに現れた。駆け寄って毛玉を拾う。つながった。やっぱり誰かいた。拾った彼女もベッドにボールを返す。少女はひとりではなかった。夜を照らす光が、大きくなる。するとベッドを囲うように仲間が立っていた。笑っている。あるいは少女と同じように、考えている。彼らは毛玉を回し合う。穏やかで満ち足りた手つきで。時々、落とすこともある。しかしすぐに誰かが拾う。
少女はいつの間にか、ベッドから降りて輪に加わる。
またひとつ明るくなった。輪にまた新しい仲間が加わる。大人もこどもも、いろいろな仲間が。輪がまた大きくなる。
手から手へ。毛玉が渡される。少女も笑っている。気付くと薄ぼんやりと周りが見える。ベッドの周りの他にも、いくつもの輪がある。それぞれの輪でも毛玉を回して遊んでいる。大きくなる。輪が重なり、ひとつになる。
世界が回り始める。少女は、いろいろな人から毛玉を受け取る。いろいろな人に毛玉を渡す。それを繰り返すうちに輪はグラウンド全体を囲う大きなものになった。
少女は笑っていた。
そして競技場全体に明かりが点く。観客席でひしめき合って座るわたしたち、ひとりひとりの顔が見える。となりに座る人。向こうに座る人。笑う人、固唾を飲んで見つめる人。わたしたちは、見ている。見つめあって、共にここにいる。
夜をひとつ、ひとつだけ越えた。
少女はボールを受け止める。渡す。その毛むくじゃらの柔らかい感触を確かめる。それだけだ。それでも、確かに安心する。
観客席に向かって、巨大な毛玉が打ち上げられた。観客たちは空に手を突き上げて、別の観客の上へと回す。いくつもの玉が弾んで踊り出す。笑い声と歓声が、鳴り響く音楽に混じり合う。
うまく眠れなかった彼女は、ささやかに毛玉をつかむ。
そうして新しい日常を、眠れるようになる。
夜が来た。もういちど暗くなる。それぞれの人が、息をしている。耳を澄ませている。その豊かな沈黙を、わくわくしながら、味わっている。待っている。
そして、新しい朝が来た。世界のはじまりを告げる祝砲が上がる。色とりどりの毛玉。名前のついた色はない。さまざまな色が、何度も混じり合った色。こどもが自由に絵の具を混ぜたような、それでも特別な色。わたしたち、ひとりひとりに毛玉が降る。
そしてスタジアムの中央に、歩く人影がある。
「開会おめでとう。」
公演台に立ったリーサが高らかに、宣言した。
式の後、私よりも二時間ほど遅れて帰ってきた妻はそのままベッドに倒れ込んだ。
「少し休憩する?」と聞くと、「今でいい」と彼女は言った。
わたしは小さな機械をポケットから取り出した。それに振動を感じるための丸いスピーカーにつないだ。
「開会式、とてもよかった。」
「ありがとう。」
妻は肩の方にある糸口を指して、「ここ」と言った。その糸を引くと、するりと糸は抜けて、ドレスの織り目が少しほどかれた。糸口を白い機械に噛ませ、もう一度引くと、糸の太さや細さに反応してスピーカーがさざなみのように振動した。
妻は小さくうなずいて、それに手を乗せる。
「モフモフの声が聴きたい」
あの頃の研究室で彼女は言った。あの大きな繭を全てほどききった後のことだった。わたしは糸を引き続けた。妻の手や体から伝わってくる振動も重なって交響曲のような豊かなハーモニーになった。
「ねえ、生まれて一番最初の記憶って覚えてる?」
いつの間にか、わたしの頭の中にぼんやりとした映像が流れ出していた。
「テレビの中でビルが黒い煙を出して、燃えていた。薄暗い画面だった。」
「私も。」
妻は言った。
テレビからの音はあまり聞いていなかったと思う。そのかわり、大人が周りで話していた声を覚えている。朝のニュースの時間で、両親は仕事の準備であわただしくしていたのだろう。
小学校五年生ぐらいになって歴史を学び、なぜビルが燃えていたのかがわかった。
それから間もなく大きな地震があった。緊急事態を知らせる青い画面を覚えている。ずっと続くと思っていた学校が休みになった。塾の勉強をしながらゲームをしていた。
大人になってすぐ、疫病が流行した。今までと似た何かが起こっていると思えた。ドラマや小説の人物も皆、マスクをつけていた。何が正しくて、どうすればよかったのか。答えはなかった気がする。
ひたすら家の中の記憶が残っている。いつもいた家といつも散歩していた道と、そのそばの海。似たような色が何度も重なって、ひとつのぼんやりした記憶をつくっている。
「もううんざりなんだ。」
リーサがどこかでつぶやいていた気がする。
「世界が暴力によって変わっていくのが。わたしとは関係のないところで変わっていくのが。」
「まぶしかった。」
妻が言った。
「この子たちはただ呼吸をして、糸を紡いで、生きているだけ。」
彼女は枕のそばに置かれたモフモフを撫でた。ドレスは、一本の糸に解かれた。二度と同じ形になることはない。
「私、モフモフがあるから、生きていける。」
「どうして?」
「何があっても彼らはそこにある。そんなふうに生きていけると思うから。」
「ずっと」
リーサはハンドルを握って前を向いたまま言った。
「ずっと、同じことの繰り返しだ。」
波際でいくつものモフモフが揺れた。隣が揺れてはその隣が揺れる。次々と浜に打ち上げられては波に引き止められ、また海に帰っていく。改良されたモフモフは吐き出した糸から新しいモフモフを生み出す増殖機能を持つ。彼女がかつて願ったように、彼らはやがてこの星を、穏やかに埋め尽くすだろう。
「でもそのうちに自分が好きになったんだよ。」
彼女は微笑んだ。