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自分なりの感傷マゾと不幸のアイデンティティの話

分かった!!!!!!!分かったぞ!!!!!!

たぶん

僕が今感じている不足感、不満足感はこの感傷マゾのせいだったのかもしれない。さらに言えば、それに連動して存在しているのが不幸をアイデンティティにしてしまっている状態。去年あたりに、この不幸をアイデンティティにするのはやめようと誓ったのに心の見えないところで大きく根を張っていたようだ。

この上記のことが後天的なものであれば、僕はこれから幸せになれる余地はあるかもしれない。
今までの人生で身に降りかかってきた不幸を、感傷マゾマインドで合理化していたと説明がつく。防衛機制であり、一種の生存戦略であったと。

これがもし、先天的であるならば、幸せは諦めよう。

今までの人生でしてきた失恋が良い例だ。

失恋をするたびに落ち込み、不幸であることを実感する。気分が落ち込み、抑うつ的になる。そして、創作物などで描かれる虚構の愛に触れ、自身を気持ちよ〜く慰める。(感傷マゾ)

しばらくして元気になると、彼女がいないこと、童貞であることを様々な言葉を重ねて誤魔化かす(防衛機制)

自分はそういう人間なのだと諦観主義者のように振る舞う(不幸のアイデンティティ)

そして、また不幸のアイデンティティを餌に虚構の愛に触れて自分を慰める(感傷マゾ)

カスのスパライラルだ。

もしこの仮説通りに僕の心が動いているのであれば、どこか深層では望んだ幸福を得ることを拒んでいるのかもしれない。それか、体験したことのない望んだ幸福に対して未知の恐怖を感じているのかもしれない。

いや、しかしそんなことがあるのか。

現に今だって幸せになりたいと思ってる。
キャッキャウフフな人生を歩みたいと思っている。

愛を知りたいし、好きなコトやモノをしたい。触れていたい。自分の将来について満足した決断をしたい。これは僕の紛れもない意志だ。しかし、深層心理ではどこかで失敗し、僕がずっと不幸でいることを望んでいるのかもしれない。

感傷マゾ的な文学である、三秋縋の恋する寄生虫のような話になってきた
そうであったらどれだけ良いことか

考え過ぎて、疲れた。寝る。明日、顔を真っ赤にして見返す気がするが書き留めておかないといけない気がしたのできっと後悔はない。満満満足

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