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【小説】悪魔の落としもの 前編

【あらすじ】
 とある高校に養護教諭として赴任した能見ノエルは、『悪魔』と呼ばれる生徒の噂を聞く。
 曰く、苗字が悪魔っぽく、見た目も悪魔っぽい。そして、新興カルト教団『神々の落とし子』の跡取りであるという。
 あまり関わらないように。忠告を受けたノエルだったが、その生徒が保健室を訪ねてきたことをきっかけに交流を重ねていくこととなる。

※本作品はnote公式様主催「創作大賞2023」のイラストストーリー部門の応募作品となります。お題イラストは下記バナーからご確認ください。




1

 この高校には『悪魔』と呼ばれる生徒がいる。
 四月。新任の養護教諭として赴任した私が最初に教わったことは、噂話とも取れるような、冗談みたいな話だった。主な職場となる保健室の場所も、職員用トイレの場所もわからないままに連れてこられた新学期の始業式。開始を待つまでの間、広々とした体育館の隅に立ちながら、立派な顎鬚と真っ黒なサングラスが特徴の、厳つい顔をした体育教師の言葉に耳を傾ける。

「その『悪魔』には近づかないほうがいいですよ、能見先生」

 体育教師、名前は確か、飯田。飯田先生だ。年が近いからという理由で「色々教えてあげてください」と校長直々に申し付けられたと本人は言うが、大学を卒業したばかりの自分と同年代には失礼ながら見えない。

「悪魔、ですか」

 とりあえず、相槌を打つ。
 『悪魔』とは、大げさな表現だなと思う。また、生徒に使うべきではないとも思った。ただ、想像は止められない。悪魔という単語から、私は漫画に出てくるような凶暴な不良を連想する。威圧的で、厳つい顔をした不良生徒。
 そう、例えば……。

「ん、俺の顔に何かついてます?」
「何でもないです」

 それこそ、飯田先生みたいな。いや、いくら何でもこれは失礼すぎる。
 気取られないように、話を逸らす。

「えっと、訳を訊いても?」

 訳とは、何故その生徒が悪魔と呼ばれているのか、そして何故近づかないほうがいいのかという二つの意味を含んでいる。
 飯田先生は意味を汲み取って、「勿論」と前置きしたうえで話を続ける。

「まず第一に、名字が『出門』なんですよ」
「ええ……」

 出門、デーモン、悪魔と。小学生みたいなあだ名だ。思わず呆れたような声が漏らしてしまった。
 私の反応を面白がるように、飯田先生は大袈裟に言う。

「それでですね、驚かないでくださいよ……その生徒、カルト教団の跡取りなんですよ」

 何かの聞き間違いかと思った。でも、確かに聞こえた。

「……カルト教団」
「そうです。『神々の落とし子』って、聞いたことありません?」

 その名前には聞き覚えがあった。ネットかテレビか新聞か。
 強引な勧誘に始まり、詐欺や強盗、薬物や銃火器の密売。果ては殺人事件への関与が疑われているものの、明確な証拠はない。ほぼ黒に近い、グレーな宗教団体。
 それが、『神々の落とし子』。
 世のニュースに明るくない私が知っているのだから、多分相当有名なはずだ。そしてその出門さんは、教団の跡取りであると。確かにそれは少し怖いかもしれない。知れないが……。

「神々なのに、悪魔?」
「あー、そこまでは考えてないと思いますよ。要は、その教団が悪魔ぐらい恐ろしいってことです」

 なんと適当な。『神々の落とし子』がどれ程質が悪くても、それでも人を悪魔呼ばわりしていい訳はない。
 赴任して早々、この学校に対して少しの怒りと不安が湧いてくる。
 そんな私の心情を知って知らずか、飯田先生は三つ目の理由を挙げる。

「後はっすね。本人のファッションというか、センスが悪魔的というか……」

 ファッション。何の話?

「すいません、全然ぴんと来ないです」
「いや、そうとしか言えないんですって!」
 
 力説されても、見てみないことには……と考えて、思い当たる。そうだ、直接見てみればいい。今は始業式直前。この体育館に出門さんもいるはずである。
 いい考えだと思って、飯田先生に訊ねる。 

「その出門さん、どこにいらっしゃいます? 見ればなんとなくわかるかもしれません」 
「ああ、成程。確か今年はD組だから……あの辺りですね」

 飯田先生が指を差したのは二年生の列。出門、タ行ということで列の真ん中辺りを探すが、『悪魔』と称されるような見た目の生徒は見当たらない。

「あのピンク色が入った子です」
 
 指は指したまま、付け加えるように飯田先生は言う。
 確かに、二年D組の列の中にピンクで連想される生徒は一人いた。髪にピンクのメッシュが入っていて、それをトップにまとめている。今いる位置からでは列に埋もれていて後頭部と肩ぐらいしか見えないが、あの生徒が『出門さん』で間違いない筈だ。
 ……でも、あの子は。
 
「……女子?」

 口から、そう言葉が漏れた。
 体格や髪の長さ、何より学ランじゃなくてセーラー服を着ていること。僅かに見える特徴からは、その生徒の性別は女性にしか見えない。この学校の校則はかなり緩いで有名だが、性別に関係なく制服が選べるほどジェンダー意識が進んでいるという話は記憶にない。

「そうですけど」 

 飯田先生が、意外でした? とでも言いたげな目でこっちを見てくる。
 貴方のような屈強な男性をイメージしてました、とは言えない。
 
『あー、あー。テステス』

 何と誤魔化そうか考えていたところで、タイミング良く生徒会の役員と思わしき生徒が登壇した。今のは、備え付けのマイクのテストだろう。
 体育館の壁時計は九時を指している。始業式が始まるのも、九時だと聞いていた。

「そろそろ始まりそうっすね」 

 この話はまた今度、と最後に言い残して飯田先生が持ち場に戻っていく。小さく礼を言って、私も今から始まる始業式に意識を向けようとする。新人として気にするべきは関わるかもわからない生徒より、目先の仕事である。
 
「…………」

 意気込んでは見たものの、視線は自然と二年D組の方へ、出門さんの方へ向いてしまう。なんだかんだいいながら、飯田先生の冗談みたいな話は私の興味を惹くに十分な話題だった。
 『悪魔』という単語が頭を回る。理由は聞いたが、それでも彼女が何故そんなあだ名で呼ばれているか、私にはわからなかった。
 髪型は多少派手だが、それは私が言えた話でもない。ちゃんと対面すれば、納得できるものだろうか。
 そんなことを考えていると、出門さんのまとめられた髪がゆっくり揺れ、くるりと後ろを振り返った。

「!」

 目が合ったとか、そんなことはない。式典の最中にちょっと周りの様子が気になっただけのようで、直ぐに彼女は前を向く。
 それだけのこと、ほんの少し出門さんの顔を見ただけでも。
 綺麗な子だな、と。そう思った。

2

 始業式から三日が経過した。
 授業も本格的に始まって、養護教諭としての業務は加速度的に増えていく。保健室に来る生徒の対応を始めとした定常業務は勿論、来月の頭には保険だよりを完成させなければいけないし、新学期ということで備品の発注だったり細かい作業が多い。何よりの山だった健康診断が終わったとはいえ、この仕事量は中々に堪える。基本的に養護教諭が一人しかいないので、諸々の判断を自分でしなければいけないのが一番難しいところかもしれない。
 それでも何とか一日乗り切り、一息つこうとした十五時過ぎ。

「能見先生ってハーフ?」
「彼氏いる!?」
「その髪って地毛?」
「シャンプー何使ってる!?」

 私は、二人の女子高生から質問攻めに遭っていた。
 黒のウルフカットの子と、茶髪をポニーテールにしている子の二人組。名前は知らない。私が薄情という訳ではなくて、本当に初対面。リボンの色で、二年生であることだけ分かる。彼女達は放課後、保健室へやって来て、許可を取ることもなく椅子を引っ張り出して私の前に座った。
 そして、今に至る。

「ね。髪、触ってみてもいい?」
「ちょ、ちょっと待って」

 勢い良く質問を投げ込んでくる彼女達に、待ったをかける。それから胸に手を当てて、深呼吸を一つ。……余りの勢いと急な展開に驚いたが、要は新しくやってきた養護教諭のところに、興味本位で遊びに来ただけのことだろう。なんてことない、と息を落ち着かせる。 

「えーと、まず。ハーフなのは合ってる。母がベルギーの生まれなの」

 とりあえず最初の質問に答えると、彼女たちは大袈裟に「おー」と声を上げた。とてもいい反応をするので、可笑しくて少し笑う。
 能見ノエル。それが私の名前。日本人の父と、ベルギー人の母との間に生まれた。比較的珍しい生い立ちかもしれないが、生まれも育ちも日本で、日本語しか話せない。 

「じゃあやっぱ、その髪は」
「うん、地毛」

 答えながら、腰まで伸びるブロンドの髪を一房掴んで、顔の高さまで持ち上げる。母から受け継いだ髪の色は誇りだが、日本の血から来る顔立ちから、染めていると勘違いされることもある。それに何より、目立つ。
 私がこの学校の採用試験を受けたのは、髪色自由という校則があり金髪であっても奇異の目で見られづらいだろうという目算があったからでもある。……今の状況からして、ちょっと見通しが甘かったかもしれないが。
 それはさておき、回答を続ける。 

「あと、彼氏はいません」
「成程!」 

 恥ずかしさを堪えながら答え終えると、茶髪ポニーの子がスマホを取り出し、物凄い速さで操作し始めた。もしかして今、私の個人情報が拡散されているのだろうか。止めたいが、なんか怖い。
 どうしようか、と悩む暇もなく今度はウルフカットの子がじっと私の顔を見ながら言う。

「先生は何で、保健室の先生になろうと思ったの」
「え? 何でって言われても……」
「先生ならモデルとかできそうじゃん」

 私にモデルが務まるだろうか、という話はともかく。理由ならある。きちんと受験勉強して、試験勉強もしてやっと就けた職業だ。なんとなくでなれる職業でもない。
 ただ悩ましい。正直に話すか、それとも。少し悩んで、私は口を開く。

「……これは私が小学生の頃の話なんだけど。当時好きな男の子がいてね」
「ほう」
「ほほう」

 二人揃って、グイっと顔を近づけてくる。効果覿面。

「勇気出して告白したんだけど、振られちゃった」
「何で!?」
「……好きな人が居るからって」

 できる限り悲しそうな表情を作ってそう答えると、二人は興味を一層惹かれた様で、揃って大きく頷いた。

「それでね、その好きな人っていうのが、私が通っていた小学校の養護教諭の先生だったの」
「つ、つまり」

 茶髪ポニーの子は、映画のクライマックスでも見てるのかというぐらい固唾を飲んでいる。
 ここまで反応が良いと困惑するが、構わず続ける。

「そう。小学生の私は誓った。いつか養護教諭になって、あの人を振り向かせる女になるって」

 なんちゃって。
 言うまでもなく、全部作り話だ。そんなくだらない理由で養護教諭を志した訳ではない。まさか信じられてはないだろうと思いつつ二人を見ると、何故だかうんうんと頷いていた。

「成程ねー。まあ、白衣を着てる女が一番エロいもんね」
「確かに!」
「た、確かなの?」

 はぐらかそうと思っただけなのに、信じられてしまった。今さら本当のことを話しても白けるだけだろうが、それでも訂正すべきか。私が迷ってるうちにも、茶髪ポニーの子がまた新たに話題を広げようとする。

「ところで、使ってるシャンプーは……」

 言葉の途中で、がらりと音が鳴った。セラミックのスライドドアが開く音。その場にいる全員の視線が、一斉に音の方へ向く。
 ウルフカットの子は短く「げ」と漏らした。
 茶髪ポニーの子からは、確かに小さな舌打ちが聞こえた。
 視線の先にいたのは一人の女子生徒。その姿を、私は覚えている。特徴的なピンク色のメッシュに、鼻筋の通った端正な顔立ち。『悪魔』と呼ばれる、カルト教団『神々の落とし子』の跡取り。出門さんが、そこにいた。

「失礼しまーす」

 間の抜けた挨拶を発しながら、出門さんが保健室に入ってきた。要件を訊こうとして気づく。胸元まで上げた彼女の人差し指には血が滲んでいる。どうやら、指の傷が訪問の理由らしい。患部の指先が少し濡れているから、既に水で洗ってはいるはずだ。であれば、次は消毒が必要となる。
 席に案内しようと立ち上がると、同時に二人組も立ち上がった。

「私達、もういくね」
「じゃあね、ノエル先生」

 それだけ告げて、二人は保健室を出て行く。訪れたときと同じように、彼女たちはあっという間に去っていってしまった。私は小さく「またね」と声をかけるので精一杯だった。彼女達は結局名乗らなかったので、名前もわからないまま。

「先生。どうかしたの?」
「……いや、なんでも」

 呆気に取られていたところに声をかけられて、我に返る。
 保健室に来た人を拒むことは決してないが、彼女達には怪我も病気もないのだから引き留める理由もない。でも、目の前にいる出門さんは小さくとも怪我をしている。優先順位は考えないといけない。

「じゃあ、出……ここに座って」

 気を取り直して空いた椅子に座るよう勧めると、出門さんは空席になった二つの椅子の片方に背負った鞄を置き、もう片方に座った。
 名前を訊いてもないのに呼びかけてしまったが、気づかれてないだろうか。そんな心配をしつつ、私も出門さんの正面に座り、デスクにあるガーゼと消毒液、絆創膏を取り出す。
 手当自体は直ぐに済んだ。既に血は止まりかけていて、然程傷も深くなかったので消毒し、絆創膏を巻くだけでよかった。跡が残ったりなんて心配もないだろう。

「はい、おしまい。絆創膏が汚れたりしない限りは暫くそのままにしておいて大丈夫だよ」
「……ありがと」

 出門さんはぼそりと礼を言うと、絆創膏が巻かれた指先をじっと見つめる。それから、

「ところで、先生。本当のところは?」
「え?」

 そう訊ねてきた。私は何のとこかわからず、素っ頓狂な声を上げた。
 私の察しが悪いと思ったのか、出門さんが軽く首を傾げる。

「どうして養護教諭になったのかって話。さっきの、嘘でしょ」

 聞いていたのか。ひそひそと話していたわけではないから、放課後で人気の少ない廊下まで響いていたこと自体は不思議ではない。あの話を嘘だと思われることにも。正直、何故あの二人は騙せたのかは疑問に思うぐらいだ。それでも、こうもはっきりと嘘であると断じられるのは何故だろうか。面と向かって話していたわけでもないのに。
 私は、確かめてみることにした。

「なんで嘘だって思ったの?」

 訊くと、出門さんは経った今治療した左人差し指を前に出す。

「エロ目的でなったにしては、貼り方が丁寧だなって」
「……ふっ」

 回答を聞いて、思わず吹き出す。成程、男目当てならもっと仕事は雑だろうと。私自身はエロ目的なんて言ってないけど、別に理由があることは正しい。

「どう先生、合ってる?」
「大体は」

 落ち着いてから顔を上げると、したり顔の出門さんが私の顔を見ている。どうやら、私が本当の理由を説明するのを待っているようだった。
 仕方がない。先に質問をしたのは私だ。

「小学校の時ね、保健室登校だったの」
「何かあった?」
「いじめられてた。理由ははっきりしないけど、多分この髪だと思う」

 髪を一掴み掬って、また元に戻す。
 今となっては羨まれたり、褒められることも多くなったが、かつての私にとって、この髪はコンプレックスでしかなかった。周囲と違う特徴は、集団から省かれる要因となる。次第に悪意はヒートアップし、やがて私は教室に入れなくなった。鋏の切っ先は、今でも恐ろしい。濡れた上履きの履き心地の悪さは今でも覚えている。

「不登校じゃなくて、保健室登校だったんだね」
「そうだね。学校には行かないって選択肢はなかった……というか親にバレたくなかったから」
「あるあるだね」

 あるある、か。
 出門さんの言葉を聞いて思うことはあるが、今は置いておこう。

「大体二年間ぐらい保健室登校をしてたかな。その時の先生が良い人で、本当に救われて……自然と、私もそうなろうって思った」

 先程の作り話は、自分でもおかしいと思うぐらいでたらめな話だ。好きな人なんていなくて、当時の同級生は全員嫌いだった。勿論美人の養護教諭はいない。それでも、優しい養護教諭の先生はいた。定年間近の、何でも話を聞いてくれた優しい先生が。……美人はいない、は失礼か。

「さっきも、正直に言えばよかったじゃん。立派な理由でしょ」

 話を聞き終わった出門さんは、不思議そうな口調で言った。まあ、その通りではある。別に後ろめたい理由でもないし、態々嘘をつくよりかは、あの二人にも正直に話してもよかった気もする。

「そうだけどね。でも、そんな話を聞きたいかなって。あの二人、どう見たって雑談しに来ただけのように見えたもの」
「へー。気を使うタイプなんだ」
「この学校では新人だもの。先輩には気を遣わなきゃね」
「ふへ」

 私の冗談に、出門さんが小さく笑う。初めて見る彼女の笑顔は年相応に見えた。少なくとも、『悪魔』なんてあだ名は似合わない。

「……じゃ、そろそろ行くね」

 満足したのか、出門さんがリュックを引っ掴んで立ち上がる。
 その時、私の目線は出門さん本人ではなく、彼女が持ち上げたリュックの方へ向いた。黒の、小さなリュック。入ってくるときは気が付かなかったが、表面に蝙蝠の羽のような大きな飾りがついている。……いや、これは多分、蝙蝠じゃなくて。

「あ」

 思わず声が出る。私はその時になってようやく、始業式の時、飯田先生が語ったことの意味を理解した。
『本人のファッションというか、センスが悪魔的というか』。
 リュックについた飾りは、恐らく悪魔の羽をイメージしている。彼女が『悪魔』と呼ばれるようになった最後の要因は、つまり。
 ……キャラ作りしてる?

「先生、何?」
「……そうそう! 忘れてた! この来室記録を書いてもらわなきゃいけないんだった」

 私の声に反応した出門さんに、バインダーでまとめられた来室記録表とボールペンを差し出す。来室記録表とは、保健室で手当てを行った生徒の名前と、実際の処置を記録しておくためのもので、統計として担任や管理職との共有のために使ったり、もっと根本的に私が仕事をしたかの証明でもある。
 咄嗟の誤魔化しにしては上手い言い訳ができたというか、実際に忘れていたので丁度良かった。……思い出せて良かった。

「クラスと名前に、保健室に来た時間。傷病名と、あとは原因ね。状況とかはできればでいいよ」
「はーい」

 バインダーを受け取った出門さんは立ったままの姿勢で書き始めたが、途中でペンを止める。

「ねえ、先生」
「どうしたの?」
「保険室って、何もなくても来てもいいの?」

 恐る恐るといった口調で、出門さんは言った。
 聞いた私は思い出す。出門さんが教室に入ってくるなり、不快感を露わにして、逃げるように去っていった二人のことを。私がいじめのことを親に知られたくないと言って、出門さんが「あるある」と評したことを。
 あるある、共感を意味する表現。……考え過ぎだろうか。
 まあ、例えどんな理由でも、答えは端から決まっているのだが。
 大きく頷きながら、答える。

「うん。十七時までなら空いてるから。いつでも来てね」
「やった」

 ぱっと笑顔になった出門さんが、来室記録を一気に書き上げて、バインダーを私に手渡す。

「じゃあ、さよなら。先生」
「はい、さようなら。気を付けて帰ってね」

 私に手を振りながら、軽い足取りで出門さんが保健室を出ていく。その背を、手を振り返しながら見送った。
 ドアが閉まる音がして、途端に保険室内は静かになる。残ったのは、出門さんが書いた来室記録。彼女の下の名前はまだ知らなかったなと思い、来室記録表に目を落とし、丸っこい文字を読む。
 クラスは2年D組。名前は『出門 鈴』。来室時刻は15:35。傷病は切り傷。原因は「うっかり」。
 ……うっかりて。

3

 それから、出門さんは頻繁に保健室に出入りするようになった。具体的には、保健室の開いていない土日以外のほぼ毎日、放課後の一時間から二時間程度。過ごし方は様々で、本を読んだり、宿題をしたり。
 いつでも来ていいと言ったの私だが、流石に毎日のように来ることには面食らった。ただ、授業をさぼっているわけではなさそうで、私の業務に支障が出るようなこともなかったので特に何かを言うことはない。 
 実際のところ、時々交わす出門さんとの雑談は良い息抜きになっている。放課後になると時計を見てしまう私がいることは否定しない。
 その日も、出門さんは放課後に鳴って直ぐ保健室にやってきた。部屋の中央に置かれた長机に突っ伏し、顔だけ横に向けてスマホをいじっていた。十分程そうしていたが、やがて飽きたのかそのままの姿勢で声をかけてくる。

「先生って、普段なんて呼ばれてるの? 友達とか、他の教師とかに」
「篤史」
「は?」
「な、なんちゃってー」

 通じなかった。ジェネレーションギャップというやつだろうか。ごく最近まで現役だったはずなのに。
 誤魔化すように、慌てて言い直す。

「先生とかには普通に能見先生とかかな。気安い仲だとノエルって呼ばれることが多い気がする。やっぱり珍しいし」
「ふーん」

 言いながら、以前私を質問攻めにした二人組の片割れ、ポニーテールの女子生徒に『ノエル先生』と呼ばれたな、と思い出す。あれから大体二週間。以来、彼女達は保健室には来ていない。若者の興味なんて気まぐれだろうし、まあそんなものだろう。
 呼び名と言えば。

「ねえ、出門さん。そのリュックとか、スマホについているアクセサリってどこで買ってるの」
「ああ、これ?」

 出門さんは身を起こし、スマホを持ち上げる。じゃらりと、ビーズが鳴る音。ピンク色のスマホケースには、悪魔を模したマスコットキャラがたくさんつけられている。
 スマホには悪魔っぽいアクセサリ、リュックには悪魔の羽。それだけじゃなく、筆箱だったり彼女の身の回りのアイテムには悪魔をモチーフにしたもので溢れている。それらを持ち歩かなければ、少なくとも『悪魔』なんて呼ばれ方はされないんじゃないか。
 そう遠回しに探る私の質問を、出門さんは一笑に付した。

「先生。そんな回りくどい言い方しなくてもいいよ。そんなの持ってるから悪魔って呼ばれるんじゃないのか。……そう訊きたいんでしょ?」

 まったくもってその通りだった。
 気遣いのつもりが裏目に出た。そもそも、ただの好奇心で踏み込むような話ではなかった。自分の浅慮を恥じるしかない。

「……ごめんなさい」
「良いよ別に。だってわざとだもん」

 つまり、出門さんは悪魔のアイテムを身に纏うことで自分から悪魔と呼ばれるように仕向けていると。キャラ作り、というとおかしく聞こえるが、最初に顔を合わせた時に私がふと思った冗談みたいな話が、本当のことの様に思える。

「理由、気になる?」

 私の困惑は表情に出ていたようで、出門さんから訊いてくる。
 気にならないといえば嘘になるので、頷く。

「話せば長くなるけど、それでもいい?」
「教えてもらえると嬉しいかな」
「そ。じゃあまず……そもそも『悪魔』ってあだ名は二代目なんだよね」

 二代目。誰から、受け継いだということだろうか。……あだ名を?

「あたしの父親。……カルト宗教の教祖やってるのは知ってるよね。その人が学生の時にクラスメイトからそうあだ名をつけられたらしくて。由来はわかるよね。出門だからデーモンって」
「……ふざけた理由だね」
「本当にね。それで、呼ばれるだけなら良かった。問題はその後。父親は、本当に悪魔みたい扱いをされるようになっちゃった」

 悪魔みたいな『扱い』とは何だろうか。悪魔みたいな『行動』ならなんとなく理解できる。人を騙し、陥れ、傷つける。
 そんな『悪魔』に対して、人々はどんな扱いをするだろうか。
 一瞬考えてから、答えを出す。

「悪魔になら、何をしてもいいと。そうなってしまったのね」
「そういうこと」

 悪は正義によって罰される。悪への攻撃は正当化される。
 そんな空気ができてしまった。クラスという、逃れるにはあまりに狭い空間の中で。その苦しみを想像することはできないけど、ただ心苦しい。
 出門さんは続ける。

「やがて、父親はこう考えるようになった。私は生まれてくる世界を間違えた。いいや、生まれ落ちたこの世界こそが間違っていると」
「……それは」
「はっきり言って被害妄想だよね。いくらなんでもさ。ヤバいのは、大人になって、子どもを持つ年齢になってもその妄想は治らなかったこと。そしてとうとう、間違った世界を正すことを題目に掲げて宗教まで作っちゃった。それで、その名前が……」

 出門さんは一旦、言葉を区切る。それから、嘲るように笑いながら言う。

「『神々の落とし子』だって。何じゃそれ」

 落とし子とは、配偶者以外の女性に産ませた子どものこと。その言葉の前に『神々の』とつけることが何を意味するか。
 ……自分は、神が誤って産ませた子どもであると。そんな意味だろうか。
 ここまで聞けば、彼女の意図が何となくわかる。
 確認するように、もう一つ問いを重ねる。

「貴方は、お父さんのことが嫌いなの」
「そりゃそうだよ、あんな犯罪者共……ああ、いや。まだ違うか」

  その回答に、私は安堵を覚えた。
 『神々の落とし子』にまだ警察の手が及んでいないのは、明確な証拠がないから。何故証拠を掴めないのかと言えば、教団が関わったとされる事件の実行犯達が揃って完全黙秘を貫くため、その繋がりを確定できないからと聞く。
 恐ろしいと思う。犯罪を厭わない信仰も、それを強いる強制力も。彼女が、それらをまとめて「嫌い」と言ってくれたことだけは、少し嬉しい。
 そして、ようやく確信を持てた。満を持して答え合わせをする。

「貴方は、名字を呼ばせないために『悪魔』になった」
「それで?」
「『出門』も『悪魔』も、貴女の父親から受け継いだもの。でも、『悪魔』というあだ名は父親が嫌ったものだから。それを呼ばせるということは」

 私がそこまで言うと、出門さんがにこりと笑ってから。

「父親への嫌がらせ。悪魔の娘は、やっぱり悪魔だろって突きつけてやりたかった。……なんちゃって。つまらない理由でごめんね?」

 名字とは、生まれる前から決まっていた、親から最初に引き継ぐもの。親が望んで受け継がせたもの。そう呼ばれたくない理由は理解できる。
 再び、女子生徒二人組のことを思い出す。あの日私が浮かべた想像はきっと気のせいじゃない。彼女のこの学校における扱いは、質の悪いあだ名がついてるなんてレベルじゃないはずだ。

「…………」 

   きっとこの問題は深刻で、私が直ぐにどうこうできる問題ではない。だから、今気にすべきはそこじゃない。
 彼女の望むようにする。『出門』だなんて、二度と呼ばないようにする。
 立ち上がって、机に突っ伏したままの彼女と視線を合わせる。

「そういうことなら。私も、呼び名を改めなきゃね。なんて呼ぼうか」
「『鈴ちゃん』」
「ちゃ、ちゃん?」

 それはちょっとハードルが高い。そんな気やすい呼び方、友人にだってしたことがない。ましてや生徒に対してなんて。

「さんとかで、なんとか」
「『鈴ちゃん』」
「…………じゃあ、それで」

 交渉も空しく。今まで彼女の望まない呼び方をしてきた引け目もあって、受けいれることにする。年下にこうも押されやすいのは養護教諭としてどうなのか。
 彼女、鈴ちゃんはご機嫌そうに足を揺らしている。

「ふふーん」
「…………」

 良く考えれば、そもそも呼び名についての話題を出したのは彼女だった。
 自分の呼び名を変えさせるために。それも下の名前で、もっと言えばちゃん付けさせるために、この話を始めたんだとしたら。
 それは確かに悪魔らしいというか。……小悪魔?

4

 その日の放課後。私は一人保健室で仕事をしていた。否、仕事をするつもりではあったが、全く仕事が進んでいなかった。やらなきゃいけないことが大量にあるのに、何のやる気も起きない。稀によくある、そんな状態。
 いつもと違うことがあるとするなら、今日は鈴ちゃんが来ていないということ。保健室に、ではなく学校にも来ていない。毎朝、各クラスの出席状態が送られてくるので、それでわかった。
 日報を進める気が起きず、ペンを置く。いつの間にか、鈴ちゃんがいる環境に慣れ過ぎていたのかもしれない。
 今日は残業かなと考えていると、保健室の中に軽やかな木琴の音が響く。直後、雑音交じりのアナウンスがスピーカーから流れ出てきた。

『能見先生、能見先生。校舎内にいらっしゃいましたら、至急職員室河本のところまでお越しください。繰り返します……』

 びくりと、体が震える。
 能見、と聞こえた。繰り返しのアナウンスが、決して聞き間違いではないことを教えてくる。
 河本とは我が校の教頭先生の名字だ。声も間違いなく本人のもの。教諭のトップ、責任者である人物からの呼び出し。心当たりはないが、何かしただろうかと不安になる。
 何はともあれ、至急ということで直ぐに向かうことにした。
 急いでデスクから離れ、扉の前に立ち、スライドさせる。すると、そこに制服姿の生徒が一人立っていた。

「あ、ごめんなさ……」

 衝突しかけて、反射的に謝りそうになってから。驚きで言葉が詰まる。
 学校指定の制服、いつもの通り、悪魔の羽が付いたリュック。今日休んでいるはずの、鈴ちゃんがそこにいた。

「こんにちは、先生」
「鈴ちゃん。今日は休みのはずじゃ」
「来ちゃった」

 元気なら授業に出なきゃ、と私は言おうとした。彼女の顔を見て、直ぐにその言葉は引っ込んだ。
 鈴ちゃんの左頬は、赤紫色に膨れ上がっていた。見るからに内出血を起こしていて、口の中も恐らく出血しているだろうと推測できるぐらいには、腫れは大きい。何かにぶつけたか、それとも。いや、考えるのは後だ。

「すぐ手当てしよう。入って」
「今教頭に呼ばれてたじゃん。待ってるから」
「そういう訳には行かないよ。ほら座って」

 何故遠慮するのか分からないが、当然放置する訳もなく鈴ちゃんの手を引いて、強引に椅子に座らせた。
 鈴ちゃんの体面に椅子を持ってきて座り、改めて患部を見る。左頬の上半分辺りから、目元辺りまで大きく腫れ上がっていた。変色が見られないからまだ新しいものだろう。
 そっと触れると鈴ちゃんが痛がる素振りを見せた。痛みはあるが、ひびが入っていたりはしない。

「口開けて」

 指示して、口内を見る。歯が折れたりはないが、歯の間に血が付着している。想像通り、口の中が切れるぐらい、強い衝撃は受けている。
 腫れの大きさ、彼女の事情を鑑みると、真っ先に思いつく原因は……。
 口を濯がせて、冷却シートを張ってから、私は訊ねた。

「これ。どうしたの」
「…………」
「鈴ちゃん」

 二度問いかけても返事がない。答える気はなさそうだった。
 しかし私はその様子を見て、ほぼ間違いないと確信した。この傷は、誰かに殴られた跡。
 相手は誰だ。今日彼女が休んでいたことを考えると、学校の関係者であるとは考えにくい。単なる不注意や、不幸な事故なら彼女は正直に話す気がする。鈴ちゃんはあまり見栄を張るタイプではないように思う。
 考えられるとしたら、『神々の落とし子』の教祖である父親か、もしくは教団の関係者。
 それを口にするか悩んでいると、鈴ちゃんはすっと立ち上がった。備え付けられているベッドのところまで向かい、リュックを放り投げてからそのまま腰かけた。

「先生、借りていい?」
「……いいよ。でも、後で話を聞かせてね」
「ありがと」

 短く言って、腰かけた体勢のまま倒れこむ鈴ちゃん。足はベッドの外へ放り出されていて、靴は履いたまま。ベッドを使うのは構わないが、流石にこれでは休めないと思う。

「ちゃんと寝なさい」
「…………」

 注意すると、鈴ちゃんは黙って寝返りを打つ。私に背を向ける形になるが、当然脚は外に出たまま。このガキ。

「しょうがないな」

 まったく、とは思うが今の彼女は甘えたい気分なのかもしれない。内出血は二週間やそこらで治るはずだが、心の傷は必ず跡が残る。今日ぐらいは、思うがままにさせてあげよう。
 そう考え、ベットに近づく。

「ほら、一回起き上がっ……て?」

 それは、一瞬の出来事だった。
 貸そうとした手を掴まれて、そのままベットに引き倒された。
 起き上がろうとするが、鈴ちゃんが腕を私の首に回して抱き着かれる形となる。これでは、思いっきり引きはがさない限り体を起こせない。

「す、鈴ちゃん? おーい」

 呼びかけるが、返事はない。なんだろう。撫でればいいのだろうか。
 そっと鈴ちゃんの頭に手を当てて撫でてみる。反応はないが、抵抗もない。しばらく続けていると、ぼそりと鈴ちゃんが口を開いた。

「先生ってさ」
「……うん」
「何を、目的に生きてるの?」

 言っていることの意味が分からなった。生きていることの、意味。突然突きつけられた哲学的な問いに、まともな答えを返すことができない。

「どうして、そんなことを」
「死にたいから。今」

 その言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走った。私の認識をはるかに超えて、彼女は追い詰められていると思い知る。
 甘えられてるなんて、それこそ甘い。今、私は縋られているのだ。 
 今、彼女はいつもとの同じく制服姿だ。今日、学校を休んだはずの彼女が。その理由をまず考えるべきだった。
 ……この保健室に、彼女は逃げてきたのだ。
 彼女に、何と言えばいい。大人として正しい言葉が何も出てこない。頭が真っ白に染まる感覚がある。何か、何か言わなければ。
 黙る私を見て、鈴ちゃんは笑った。乾いた、空虚な笑い声だった。

「ないんだ」
「そんな、ことは……そうだ、私は立派は養護教諭になりたくて」
「たった、それだけ?」

 強い口調で、鈴ちゃんに言葉を遮られる。遮られて、返す言葉はない。それだけと言われれば、私の目標が軽んじられているようにも聞こえるけれど、この話は鈴ちゃんには関係ない。他人の夢なんて参考にならない。
 首に回された腕に力が入って、少し息苦しく感じる。呼応するように、鈴ちゃんの言葉は勢いを増していく。

「私は今まで、生きていたいなんて思ったことはない。ただ、積極的に死ぬ理由がなかったから、何となく生きてきた。でも……」

 声が震えている。それでも、止まらない。

「今は死にたい。生きる理由、なんかないのかな。私には、わかんない」

 叫ぶような独白を終えて、腕の力も弱まる。呼吸が楽になって、私も少し落ち着きを取り戻した。
 今、私がやるべきことはしっかり自分の言葉を伝えること。生半可な言葉を彼女は望んでいない。切実に、救いを待っている。 

「……ちょっと、昔話するね」

 彼女の頭を撫でながら、私は言葉を絞り出す。

「前に、話してくれたよね。自分の名字を呼ばれたくないって。私もその気持ち、ちょっとわかるんだ」
「…………」
「この名前は父親、日本人の方がつけてくれたの。私の誕生日は十二月二十五日。クリスマスだから、ノエル」
「悪くないね」
「響きは良いよね。でもこれ……フランス語圏だと男性名なんだよね」

 小さく鈴ちゃんが噴き出すのが分かった。体が触れ合っているので、誤魔化しようもない。
 私の腕に顔をうずめながら、鈴ちゃんが訊ねる。

「先生それ、いつもの冗談?」
「なんちゃって、って言えたらよかったんだけど。本当なんだよ、これが。私は下の名前で呼ばれるのがそんなに好きじゃない。先生って呼んでくれるのが一番嬉しいよ」
「……へー」
「それでね、鈴ちゃん」

 ここまでが前振り。ここからが、本題。

「今の話で、鈴ちゃんの苦しみがわかるなんて言わない。みんなそれぞれ悩みがあるとか、そんなつまらないことも言うつもりはない。ただ、ほんの少しでも、ほんの一つでも。鈴ちゃんの苦しみに共感できる人はたくさんいる。間違いなく。そういう出会いを積み重ねれば、生きる理由になるんじゃないかな」

 今度は遮られることもなく。鈴ちゃんは大人しく私の話を聞いていた。話を噛み砕くように黙り込んでから、

「……仮に、そういう人達に会えてさ。それでも死ぬ理由が、生きる理由に足りなかったら。死んでいいの?」

 そう訊ねてくる。窮屈な腕の中で、私は小さく首を横に振る。

「上回る必要なんてないよ。死ぬ理由と、生きる理由を突き合わせて、何となく決断を保留する。落としどころを探す。そういう道も、ありなんじゃないかな。だからさ……」

 一息ついて、私は続ける。

「頼むから、死にたいなんて言わないで。私、何でもするから」

 また、鈴ちゃんが口を閉ざす。私はじっと彼女の言葉を待つ。苦しい体勢だけど、急かすことはない。
 一分ほど時間を使ってから、鈴ちゃんが口を開く。

「……先生」
「ん?」
「流石に、もう行った方がいいんじゃない? 教頭キレるよ」

 そういえば。
 壁時計を見る。放送があってから、十分程経っただろうか。至急という割には遅すぎるぐらいだ。別に理由を訊かれても胸を張って答えられるが、そもそもの要件が私への叱責だったら余計な怒りを買うことになりえるかもしれない。
 鈴ちゃんの言う通り、早く行った方がいいのだろう。
 ただ、今の彼女を長い時間、一人にはしたくない。用事は、さっさと済まそう。教頭先生が何と言ってもだ。

「……すぐ戻るね」

 私がそう告げて、体を離す。鈴ちゃんは仰向けの体勢のまま手を振って応えてくれる。
 いってらっしゃい。小さく、そう聞こえた。

5

「……失礼します」

 そう告げて、職員室の一番目立つ場所にある教頭先生の席を離れる。
 教頭先生の話は直ぐに済んだ。時間を見れば多分五分もかかっていない。
 ただ、些細なことではなかった。今の状況に、無関係な話ではなく。
 二年D組、出門鈴についての話だった。
 話がすぐに終わったのは、教頭先生の話が手短なこともあるが、私が何も言い返すことができなかったからでもある。
 ……何と言えばよかったのだろうか。

「あ、能見先生」

 気を取り直し、早速保健室に戻ろうとした私に、声が掛かる。女性の声。振り返ると、昼休みなどに偶に世間話をするぐらいの仲である先輩教諭がいた。

「……お疲れ様です」
「教頭先生に、何か言われました?」

 小声で訊かれる。探られているのか、心配されているのかはわからないが、内容を馬鹿正直に話す気にはなれない。適当にはぐらかしてしまおう。 

「怒られたというか。遅れてきたことに小言は言われましたけど、どちらかといえば注意というか、指示というか。そんな感じでした」
「大変ですねー」

 あまり興味のなさそうな声色。詳細を訊かれることもない。どうやら、ただ雑談位の気分で声をかけただけのようだった。

「今日はもう上がりですか? まっすぐ帰る感じ?」
「ええ。今日は早く帰ってゆっくりしようかなって。……お疲れ様です」

 本当はまだ帰るつもりはないのだが、予定があるなんて言えば話が続いてしまうかもしれない。適当に嘘をついて、職員室を後にする。
 職員室と保健室はそれぞれ校舎一階の両端にあって少し遠い。速足で辿り着いて、ドアを開ける。そのままベッドに駆け寄って。
 私は、肩を落とした。
 鈴ちゃんは、いなかった。乱れたシーツだけ残して、忽然といなくなっていた。いつも持っているリュックも無くなってるから、トイレという線も薄い。
 多分、帰ったのだろう。

「……すぐに戻るって言ったのに」

 年甲斐もなく、拗ねたみたいな独り言が出た。
 急に予定が無くなってしまった。今から職員室に戻って、彼女の担任と今日のことについて連携すべきだろうかと考えながら、とりあえずシーツを直そうと少し身を屈めた。
 その時。私は、ベッド脇の床に何かが落ちていることに気が付いた。何となしに、それを拾い上げる。然程重くはない。一㎏か、そのぐらいだろうか。二十cmから三十cm程度の大きさの、黒い鉄の塊。持ち手が合って、そこはゴムと木製のカバーでできていた。加えて引き金と、筒のようなものがついていて。
 
 それは、どう見ても。拳銃にしか見えなかった。


・後編


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