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「正欲」を読んで思ったこと

そもそも朝井リョウさんがそこの少数派に目をつけるところからすごいと思った。私にはそこまでの考えが及びませんでした。

この本を読み終わって思ったことは、この本に感動したりすごくいいって思ってる人が多いこと。そもそもなんで「受け入れる側」と「受け入れられる側」が存在するのかってこと。そもそもこの内容のようなことを考えたことがあった私からすると目新しさはなく、むしろ高評価をするほどのことなのかわからないくらいだったのが正直な感想だった。十人十色とはまさにこのことでいろんな性的指向はあるし、他人に理解されない考え方とか思いとか癖とかあると思う。それをなんで自分は一般的だと思っている人たちが「受け入れてあげる」立場に立つんだろう。その基準やガイドラインは誰が作成したんだろう、なにを持って自分は一般的な標準人間だって思うんだろう。私はものすごく不思議だった。
「受け入れられる」立場の人たちもなんで「受け入れてもらう」立場に立とうとするんだろう。もっと普通にそこの存在しとけばいいのに。確かに、「受けれ入れてもらえない」苦しさ、辛さはあると思う。私はこんな考え方だから、受け入れてほしい人にとっては、なんやこいつって思われるだろう。でも、受け入れない人は受け入れないだろうからそこに労力を使う必要があるのか疑問ではある。受け入れらない人に受け入れられたいのであれば頑張ればいいけど、精神を削ってまでする必要はない気がする。それより前にきっともう十分傷ついて苦しんできただろうから。それよりも、自分はとりあえず存在してる、他人に存在を否定されようが存在してしまうんだ、しょうがない。と、言っても当事者の方はきっとそうではないだろうから、これはあくまで私の考えであって、それを実践すればいいとは思ってない。これが私の考えってだけ。

私は割と作中に出てくる大学生の子の最後のほうの考え方好きだったな。受け入れてもらおうと思ってない感じ。さすがに、不幸感満載で、どうせあんたにはわからないだろうっていう決めつけもどうかとは思うけど、そもそもその考えに至った経緯は今までの彼の人生の経験によるものであって。自分に理解できないことを排除したり攻撃したりするのは本当に人間らしい本能的な行動だとは思う。

私たちは人間でなんか他の動物より少し賢く生きてるけど、野生動物の世界で、他と違う思考回路、習慣、性質を持った一匹が現れそれを排除する動きが起きたら、その共存グループから切り離され、本当に一匹で生きていかないといけない状況になって生きていけなくなる可能性はあると思う。動物の方が「同じ」であることを重要視するのかなって思った。
その点人間は村、町、その地域から排除されたときなんとか生きていく術はあるし、「受け入れる」ということができるから、人間のほうが優しいのかもしれない。

それでも優しいであろう人間の世界は必ず、上と下が存在してる。「受け入れてあげる側」が上で、「受け入れられる側」が下。人間は本当に上下関係を構築するのが好きで上手。
私は、マイノリティが世間に受け入れてもらおうとする動きも大事だと思う。いろんな法的なことだったり手続きが受理されるためにも。でも、「マイノリティの存在である」という観点で言えば、もう声を上げた時点でマイノリティじゃない気がする。彼らの存在を知った私にとってその新しい価値観や性的指向はもうそこに在るだけの存在。
彼の存在が見えれば視界に入ってるし、自分の視界の範囲にいなければいない。でも、それは別のその人たちだけってわけではなくて、私にとっては人間自体の存在にそれが言える。外に出て人間が視界に入れば人間が居るって思うし、自分の家にいて人間の存在がなければ人間がいないって思う。本当に私にとっては、世界中のあらゆる人たちがただの人間。同じ臓器を持ち、同じ血の色があって、染色体、細胞があり、人間から生まれた人間。
生まれた親が違うし、育った環境も違う、通った学校も違う、食べ物、宗教、ファッション、持ち物、生きた時間が違えば違う人間。そもそも同じ親から生まれたはずの兄弟でさえ違うんだから、他人なんか一生他人。別の人間だ。
受け入れる立場でもなけいれば、受け入れられる必要もないと思う。

「多様性」だとか「ダイバーシティ」とか「繋がり」とか「受け入れる」とか「受け入れられる」とか。「マジョリティ」とか「マイノリティ」とか。色々ラベルを張るための言葉はあるけどさ、もう、「みんな地球に存在してる」ってだけじゃダメなのかな?

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