「ぼっち・ざ・ろっく!」と「感動ポルノ」〜不全者は逆襲できるか〜
まずはじめに断っておきたい。
僕は「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品が好きだ。好きでたまらない。人生観を変えられたと言っても過言ではないくらいの多大な影響を受けている。それくらい好きだ。
登場人物のひとり「山田リョウ」に関しては、好きなんて言葉には収まらない、まるで自分の分身、いや、自分自身であるかのように錯覚している。僕はそんなやべーやつだ。
さて、表題の件であるが、ことの発端は2024年9月3日の僕のYouTubeチャンネル生配信だ。
この中で、ある視聴者の方が、「『ぼっち・ざ・ろっく!』は"泣けない"し、『24時間テレビ』と同じ『感動ポルノ』にしか見えない」という趣旨のことを仰られた。
配信はその発言の後も続き、何とか穏やかなトーンで終えることができたが、僕の中には当然もやもやしたものが残ったのは言うまでもない。
さて、ここで「感動ポルノ」という語についておさらいしておきたい。というのも、正直、僕自身この言葉にはぼんやりとしたイメージしかなく、正確な意味で捉えたことはなかったからだ。
Wikipediaによるとこうある。
「ぼっち・ざ・ろっく!」は周知の通り、身体障害者を取り上げた作品ではないため、直接的には先の視聴者の批判は当たらないのだが、「コミュ障」や「コミュニケーション不全」を抱えた人物が多く登場するという点で、比喩的にそういう表現を用いたと思われる。
24時間テレビって何?
ここで大きな問題がある。
言われた当の本人(=僕)が、「24時間テレビ」がどういった内容なのかを分かっていないのだ。そもそも一回も見たことがないのである。ああ、あのマラソンとかやるやつね、くらいしか印象がない。
結論から言って、あの番組から放たれるイメージそのものが好きではないから、そもそも見る気がないのだと言える。
その番組に対する断片的なイメージはこうだ。
「お涙頂戴」「偽善的」「有名タレント並べすぎ」「大バジェットで物量作戦」「最後は一致団結」…。
およそこういうものが僕は嫌いだ。力を持ちすぎたテレビ局の勝手な力技でこちらの思考を制御してやろうという意図を感じる。その危うさを察知してか、僕はこの番組を見たことがないのだろう。
ぶっちゃけ「障害者」云々よりも、その力技っぷりが気に食わないのだ(僕は「障害者」が出てくる番組であることを知らなかった)。だから例えば、仮に全く「障害者」を扱わなかったとしても、「泣け泣け」と仕向けてくるやり方が好きではないということだ。
はっきり言えば、「泣ける」こと自体を売りにする作品(そういう『商売』と言ってもいいだろう)は、僕は長らく「箸にも棒にも掛からぬもの」として避けてきた。
宇野常寛さんは言う。「泣くなんてのはすごく次元の低い生理現象」と。
つまり本来の感動と、「泣く」という生理現象は別の層で起こっているのではないかと僕は思う。たまたま感動と「泣く」ことがどこかの回路でつながっているから、「感動したら泣く」という結果として出てくるに過ぎない。さらに言えば、感動をすっ飛ばして、「泣く」という神経だけを刺激してやれば、人間は泣いてしまうことだってありうる。そういうものだろう。
だから、雑な「泣く」ことへの刺激だけでできているような商売は、僕からすれば、低級で、空虚で、つまらないものである。
じゃあ、「ぼざろ」はどうなのか?
「ぼざろ」とはどういう物語か?
ざっくり言えば、「コミュニケーション不全を抱えた人たちがバンドを組み、その"他者"との関わりの中で成功体験を積み上げていく」話だと言って差し支えないだろう。
不全者が不全でないものからの同情あるいは感動を買うことで成立する「商売」(=アニメというコンテンツ)という意味では、視聴者の方が仰られた「感動ポルノ」という指摘も、あながち間違いではないのかな、とも思う。
しかしどうにもそれが釈然としないから今、こうやって文をしたためているのである。首を縦に振れない自分がいるのである。「ぼざろ」は単に受け手の「泣く」神経を刺激するだけのような、低級な作品でないことは力説しておきたいのである。
アニメ化にあたり、カットや画面の構成、演技のつけ方、楽曲による作品世界の掘り下げ、等々が四コマ漫画から大いに補強されていることはアニメを見てきたファンなら頷いていただけることだろうと思われる(むろんこれは原作の四コマ漫画版を貶す意図で言っているのではない。原作は原作で、唸るような箇所はいくらでもある。特に四コマ漫画雑誌の枠を大いに逸脱したコマ割りの仕方は、驚嘆すべきものがあると僕は勝手に思っている。)。
そうした膨大で丁寧な工夫の結果、品質の高い作風となり、そこから本質的な感動につながっているのではないか…僕はそう思える。
「泣ける」パーツだけを雑に並べただけの作品とも呼べないようなものとは、一線を画していると僕はそう感じる。
ツラすぎる現実を見た人は苛烈なフィクションに耐えられない
たぶんこれは僕だけだと思うのだが、幼少期、「ファイナルファンタジー」初期の頃の作品(ファミコン~スーパーファミコン)の敵の遭遇SEが怖くて、友人がプレイしているのでさえまともに見ることができなかった。耳をふさいで物陰に隠れているほど臆病な少年だった。
これはおそらく幼少期に父親にほとんど暴力と言って差し支えないほどの苛烈な子育てをされたことが原因だと思われる。父はいつも突発的にキレてはものを投げたり破壊したりする人だった。だから、「突発的に鳴る激しい音」は、幼少期の僕には耐えがたい苦痛だったのだろう。
今回意見をくださった視聴者さんは、「面白かった作品」として、「炎628」や「ジョーカー」を挙げていた。そこからすれば、「ぼざろ」は確かに「ヌルい」。
僕自身もこのヌルさには気づいていて、同時期にやっていた「推しの子」の第一話を見て「ああ、『ぼざろ』は殺人事件とか間違っても起きないもんな…」と思って、一時期、視聴はおろか、作品自体を追いかけるのをやめていた時期がある。その期間は一年半くらいに及んだ。それだけ、「ヌルい」作風に浸ることを自分でよしとしなかったことがあるのだ。
しかし、「推しの子」は結局第一話だけを見て、当時そのあとどうしても第二話以降に進めなかった。「怖かった」のである。第一話以上の残酷さや愛情がその後に待ち受けているかと思うと、精神的なキャパがオーバーして現実に帰ってこられなくなるのではないかと。
前述の通り僕は苛烈な幼少期を送った。親の愛情というものはないに等しく、あってもひどく不器用な形でしかそれを受けて来られなかった。そんな僕に「推しの子」(第一話)はキツすぎたのである。
ヌルい優しい世界で現実の厳しさを知る~不全者は逆襲できるか~
そうして僕は「ぼざろ」の、ある意味ではヌルさの中に帰ってきた。
ヌルいといっても物語の中には主人公たちの成長を促すための基本的な葛藤があり、ダラダラと現状を肯定するようなことはそもそも、主人公の後藤ひとり自体が拒否していることでもある。
「ぼざろ」は先ほども申し上げたが「不全者」の物語だ。大まかに言って、主人公格四人は「コミュニケーション能力がない者」「そもそも捨てている者」「あるけど空気を読むことしかできない者」「それらをまとめる者」の集合体である。彼女らの、ヌルいかもしれないが、現実に対する確実な葛藤が物語を進める車輪であり、受け手の感動(あるいは、笑い)を呼ぶ根源である。彼女らの逆襲はどこまで通じるのか?これは僕の人生の逆襲がどこまで通じるのかに通ずる。
それは、「泣く」スイッチを押すだけの空虚な作業だろうか?
いや…、そうではあるまい、と信じたい。
ただひとつ断っておきたいのは、「ぼざろ」の主人公たちがただの放課後にやっている課外活動的な「なあなあ」から飛躍し、本格的にプロの厳しい世界でもまれ始めるのは、コミックス2巻後半からそれ以降であり、すなわちアニメ一期(および劇場総集編前後編)では全く描かれていない部分でもある。だから、「ぼざろ」をアニメ一期だけで切ってしまうのは大変もったいないし、ぜひとも(もし二期以降が作られるのであれば)今後にも着目してほしいところである。
最後に
今回、視聴者の方から、そのような視点を持ってクリティカルな意見をいただいたのは本当に貴重なことだと感じた。他人は自分の磨き石である。と同時に、視聴者の方には、自分の「好き」とするものに正直に生きてほしい、と願うばかりである。