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職業をもたないことは、退屈なのか?

けいこです。

前回書いた本からの抜粋。

サモアには、職業という概念はない。すべての人がタロ芋を掘り、木の実をもいだり、カヌーを漕いで釣りをしたりする。家だって自分たちで造る。つまり、生きていくために必要なあらゆる知識と力を持ち、日常も変化に満ちている。彼らから見たら、職業はとても妙なものにしか見えない。
<中略>
「職業を持つとは、同じことをくり返すという意味である」
「小川へ水を汲みに行くのは楽しいことだ。しかし日の出から夜まで、毎日毎時組み続けなければならないとしたら、力のあるかぎり、くり返しくり返し水汲みばかりしなければならないとしたら <中略> 同じ繰り返しの仕事ほど、人間にとって辛いことはないのだから

向原祥隆 「砦の上に:南方新社本づくり30年」

なんか、これ、すごくわかるんだよね。

ラッキーなことに、私は職業生活がすごく楽しかった。もちろん週末や長い休暇は待ち遠しかったけど、「仕事に行くのがイヤだ」と思った日がほぼなかった。そういう意味では、本当に職業・職場に恵まれたと言っていいと思う。

やりがいもあったし、何より楽しかった。そりゃあやってることについて矛盾を感じたり無力感を感じることもあったけど、教えることや論文書いたりすることは絶えず探究心をくすぐられ、飽きることがなかった。感謝だ。


職業・仕事というのは、それを繰り返すことによって、自分の技能や専門性が高められ自分にしかできない能力がつくこと。その能力と時間を職場や社会に提供して、その代償として貨幣を得るということ。

だからその技能や専門性が、ニーズに合っていたり希少価値があれば、代償として得られる貨幣価値も大きくなる。狭い領域での優れた能力。そして、私たちはその獲得した貨幣をより便利で優れた「ものやサービス」と交換して生活するって仕組みだ。

貨幣価値が大きければ大きいほど、その人は「成功」しているという価値観。


でも、60歳を過ぎた今、日々従事する仕事に就かなくてもいい(時間を埋めるために仕事が必要ではない)と思う気持ちは、上記に引用したことに由来するのかもしれない。

ある日(50歳を超えた頃かな?)私は日常生活のことについて、それを作り出すことについての能力がないことに気がついた。家を建てるどころか直すこともできない、食料を生産することもできない、衣類を作ることもできない。これでいいのか?「買う」ことしかできない自分

だから、自分のことは自分で(ちょっとくらい)できる生活がしてみたい+ちょっとくらいできないといけないんじゃないか、っていう気がしてた。

そして実践してわかったこと…

仕事をしないと日々の生活が変化に富んでいる。ここでいう「変化に富んでいる」というのは、おしゃれなレストランで食事したり、コンサートに行ったり、旅行したり、パーティーに行ったり、というような目に見える「変化」じゃなくて、もっと地味なもの。いわゆるSNS映えしない類のことだ。

庭仕事、お掃除、ピアノの練習、お料理、簡単なDIY、近所をお散歩、人との何気ない会話、など地味でごくごく日常的なこと。職業によって貨幣を獲得してないから、究極の目的もサービスや商品を購入することではない。こういう日常的な行動自体が目的になる。

私には、先述のサモアの人たちのように「生きていくために必要な知恵や力」はまだまだない。これを、よちよち歩きで始めた、という感じだ。

庭仕事も「超」初心者なら、DIYも釘打つことくらいしかできない。

そういう生活に必要な知恵や力は、すごく多岐に渡り自分を退屈させない魅力がある、そして、日々の生活、営みを自分の手でやる、ってことがいかに変化に富んでいて、わたしたちを豊かにしてくれるか、がわかってきた。

だから、仕事をしている時とは、全く異なる「楽しさ」なのだ。


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