ロッテ、最後の優勝マジック点灯は1970年何月何日?

井口資仁監督が率いる千葉ロッテマリーンズが、久々となるリーグ優勝に突き進んでいる。
しかも、1991年に千葉県・幕張に移転後、マリーンズとしては初めてとなる「勝率1位によるリーグ優勝」だ。

9月16日、ロッテが福岡ソフトバンクホークスに勝利するか、引き分けても、オリックス・バファローズが東北楽天ゴールデンイーグルスに敗れれば、ロッテの優勝へのマジックナンバー「26」が点灯する予定だったが、ロッテとソフトバンクは1-1の引き分け、オリックスは3-1で楽天に勝利したため、この日の点灯はお預けとなった。
ロッテに優勝マジックが点灯すれば、実に1970年以来、51年ぶりだと話題になっている。
ロッテは幕張に移転後、2005年、2010年と日本シリーズを制覇しているが、いずれも、「勝率1位でのリーグ優勝」による日本シリーズ進出ではない。

ロッテが最後にパ・リーグで勝率1位、かつリーグ優勝したのは1974年。
金田正一監督の下、「ロッテオリオンズ」というチーム名だった頃だ。
ロッテは1972年オフに、本拠地にしていた東京スタジアムの閉鎖により、本拠地を失い、準本拠地を東北・宮城県仙台市にあるの県営宮城球場(現在の楽天生命パーク)とし、各地を転々としたため、「ジプシー・ロッテ」と揶揄されていた。
だが、このときはパ・リーグが前期・後期制を導入しており、ロッテは前期2位、後期優勝を、プレーオフで前期優勝の阪急に3連勝を決め、1950年の球団創設初年度にパ・リーグ優勝(日本シリーズ制覇)して以来、4度目のリーグ優勝を果たした。

従って、1974年のシーズンではロッテに優勝へのマジックは点灯していない。

遡ると、ロッテの優勝マジック点灯は、1970年、濃人渉監督の下で3度目のリーグ優勝を果たしたとき以来ということになる。
当時のオリオンズは、映画会社「大映」の社長である永田雅一がオーナーを務めていたが、経営難のため、1969年からスポンサーにロッテ製菓を迎え、チーム名も「東京オリオンズ」から「ロッテオリオンズ」に替えていた。

1970年10月7日、ロッテの本拠地・東京球場にて行われた対西鉄ライオンズ25回戦を前に、プレーボール数時間前から、ロッテのリーグ優勝の瞬間を一目見ようと、沢山のファンたちが列をなしていた。
1962年、大毎オリオンズの永田オーナーが、当時32億円という巨額の私財を投じて、東京・南千住に建設、開業された東京スタジアムは、米国のメジャーリーグの球場を範にし、選手の快適さと観客の利便性を追求、当時としては画期的で、そして、グラウンドを照らす照明はまばゆいばかりの明るさで、「光のスタジアム」と呼ばれる球場であった。
同時に東京スタジアムは、中堅120メートル、両翼90メートル、左中間・右中間のフェンスは膨らみがなく、ホームランが量産される球場だったが、この年のロッテはこの狭い本拠地をようやく味方につけた。ロッテはこの日まで、シーズン20本塁打超えを5人(ジョージ・アルトマン、アート・ロペス、山崎裕之、池辺巌、有藤通世)も生んだが、これは当時のNPB新記録で、チーム全体では117試合で148本の本塁打をたたき出していた(最終的には130試合で、166本塁打)。
投手陣も、成田文男(24歳)、木樽正明(23歳)、小山正明(36歳)の先発3本柱で60試合近く完投し、チームの勝利数の2/3をこの3人で稼いでいた。

この日、ロッテの先発は、このシーズン、すでに15勝を挙げている36歳のベテラン、小山正明。リーグ優勝すれば1964年に阪神で味わって以来となる。
相手は、この年、「黒い霧事件」によりチームが弱体化した最下位・西鉄ライオンズ。この試合に敗れると、球団初の最下位が決定してしまう。

ロッテファンのお祭りムードの中、午後6時に始まった試合は、通算289勝を挙げている百戦錬磨の小山が初回、2番・基満男にソロホームランを浴び、先制を許すと、ロッテ打線は西鉄先発の三輪悟に抑え込まれ、5回まで0-3とリードを許す苦しい展開となった。
本拠地が東京スタジアムになってから初めての優勝を心待ちにする観客はすっかり肩透かしを食らっていた。

だが、ロッテ2番手、プロ4年目の八木沢壮六がマウンドに上がると、試合の流れは一変した。栃木・作新学院のエースとして甲子園を沸かせたセンバツ優勝投手、東京六大学野球でも早稲田大学のエースとして3度のリーグ優勝に導く活躍した八木沢は大舞台に強い自負があった。
八木沢は、西鉄打線のクリーンアップ、3番・ポインター、4番・ボレス、5番・竹之内雅史を3者連続三振に斬ってとると、ここからロッテの強力打線が目覚めた。
ロッテは6回、先頭の1番・榎本喜八に代打、江藤慎一が送られた。この年、シーズン途中の6月に、社会人時代(日鉄二瀬)の恩師である濃人渉に請われてやってきた江藤は自ら代打を志願した。江藤はセ・リーグを代表するスラッガーだったが、中日ではリーグ優勝を経験したことがなかった。
その江藤は三輪のカーブを捉え、8号ソロホームランで反撃ののろしを上げると、東京スタジアムにはこの日、最初の「東京音頭」がこだました。
2番の池辺巌が倒れて1死後、3番・ロペスがセンター前ヒットで再びチャンスをつくると、続く、4番・アルトマンが三輪からライトスタンドに28号2ランホームランを叩き込んで、3-3の同点に追いついた。ここで三輪はノックアウト。
西鉄・稲尾和久監督はたまらず、2番手に河原明を送ったが、観客スタンドと一心同体となったロッテを止めることができない。いきなり、5番・有藤通世に四球を与えると、6番・山崎裕之のタイムリー三塁打が飛び出して、4-3と勝ち越し、7番・醍醐猛夫の犠牲フライで5-3と引き離した。
東京スタジアムに集まった2万6000の観衆は、ロッテの40分もの攻撃中に「東京音頭」を4度も熱唱した。
戦況を見つめていた永田オーナーは自らの商売である映画になぞらえ、
「映画でもこんなストーリーは作れない」
と早くも感極まった。

ロッテは2点リードとなったところで、濃人渉監督は、3番手にシーズン20勝を挙げている木樽正明をマウンドに送った。木樽は7回、8回を無安打・無失点に抑え、9回もマウンドへ。

実は、この間、2位の南海ホークスが本拠地・大阪球場での対近鉄24回戦に1-3と敗れたため、ロッテのリーグ優勝は決まっていた。
だが、本拠地に集まったファンのためにも、ここは勝って決めたい。
木樽は9回、代打・広野功にソロホームラン一発を浴び、4-5と1点差と迫られたが、最後の打者、宮寺勝利を内野ゴロに抑え、ロッテは10年ぶりのリーグ優勝を本拠地での勝利で飾った。

https://www.youtube.com/watch?v=d1hVCMYHZwc


午後9時35分、東京球場のグラウンドには、無数の紙テープが舞う中、狂喜乱舞するロッテファンたちが2メートルのフェンスを乗り越えて、雪崩れ込んできた。その数、5000人に及んだという。永田雅一オーナーを始め、ロッテのユニフォームを着た者たちは誰彼構わずもみくちゃにされ、「わっしょい、わっしょい」の掛け声と共に、宙に舞っていた。
ファンたちは「永田さん、おめでとう」と異口同音に叫びながら、号泣する永田を胴上げし続けた。

試合終了から15分後、ようやく表彰式が始まったが、グラウンドからベースが消え、ピッチャーズマウンドからはプレートが持ち去られていたという。
濃人渉も監督として初めての優勝なら、濃人渉の愛弟子である「闘将」こと江藤慎一もプロ初の美酒に酔った。NPB史上最年少で2000安打に到達した天才打者・榎本喜八も10年ぶりに味わう優勝だった。

胴上げ投手となった23歳の木樽はこの日、21勝目を挙げた。同僚で25勝の成田文男に最多勝のタイトルこそ譲ったが、シーズンMVP・ベストナインに輝いた(翌年、24勝を挙げ、最多勝)。試合の流れを変える好リリーフをした八木沢も、その3年後の1973年に完全試合を達成し、エース格に成長した。

1970年のパ・リーグのレギュラーシーズンの結果は以下の通りとなった。

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だが、お祭り騒ぎも束の間、ロッテは日本シリーズで読売ジャイアンツに敗れた。4勝1敗と完敗だった。巨人は前人未到の日本シリーズV6を達成した。
ロッテは、3万1000人の超満員で膨れ上がった本拠地・東京スタジアムでの第4戦、伏兵・井石礼司の3ラン本塁打を含む4打点の活躍と、木樽のリリーフにより6-5と辛勝し、一矢を報いたのがせめてもの救いであった。
そして、東京スタジアムでの歓喜から3か月後の1971年1月、永田雅一オーナーは、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテ製菓へ譲渡、同時にオーナー職を中村長芳(後の太平洋クラブライオンズのオーナー)に譲った。
永田が巨額の私財を投じて建設した東京スタジアムも、1972年シーズンオフ、閉鎖が決まった。
眩い光に包まれていた東京スタジアムは「兵どもが夢の跡」となった。

では、この年、ロッテにリーグ優勝へのマジックナンバーが点灯したのはいつだったのか?
ロッテはこの年、6月に首位に立つと、そこから2位以下を大きく離し、独走態勢に入った。6月終了時点で2位の東映フライヤーズに3.0ゲーム差、7月終了時点には2位の南海ホークスに9.5ゲーム差をつけていた。

8月終了時点でも、野村克也選手兼監督が率いる南海との差は9.5ゲーム。

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それでも、南海はロッテとの直接対決の残り6試合を全勝、かつ残り36試合を全勝すれば、87勝40敗、勝率.685、一方のロッテは南海の6試合以外に全勝しても、29勝6敗となり、88勝41敗となるため、勝率.682で上回ることができない。
南海に自力優勝のチャンスがまだ残っている。


では、ロッテに優勝マジックが点灯したのはいつか?
(これはネットで検索してもでてこない情報のため、答えを知りたい方、続きは有料版で)

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