【プロ野球】日本初の「ウグイス嬢」、青木福子さんとは?(巨人、42年ぶりにウグイス嬢を募集)
読売ジャイアンツが、42年ぶりにウグイス嬢を若干名、募集するという。
読売ジャイアンツの現在のウグイス嬢は、山中美和子さんと渡辺三保さんだが、山中さんは2016年に球団職員としての定年を迎え、新たに専属のウグイス嬢として最長5年契約(1年更新)を結んだ。それが来シーズン終了後に切れる。渡辺三保さんは1979年に入社、場内アナウンスを担当、2018年に同じく定年を迎えたが、2019年シーズンからは契約社員として業務を続けている。つまり、ジャイアンツにとって、渡辺三保さん以来のウグイス嬢募集となる。
山中さんは1977年8月から、渡辺さんは1980年からジャイアンツの本拠地、主催試合で場内アナウンスを務めている。僕が、巨人戦のナイターを見た記憶は、1979年なので、そのときすでに、テレビの中継を通して、後楽園球場で聞こえる場内アナウンスの声は、山中さんと渡辺さんだったということになる。
「四番・ファースト、王、背番号1」
「ジャイアンツの選手の交代をお知らせします。ピッチャー、江川に代わりまして、角」
お二人とも声の高さは若干、異なるが、共通するのは、あの独特の「抑揚」のなさと「タメ」。東京ドームに行って、ジャイアンツのライバルチームを応援していても、あのソフトな美声に魅了された方は多いのではないだろうか。
日本初のウグイス嬢・青木福子
さて、日本初のウグイス嬢は、誰かご存じだろうか?
それは、青木福子さんという方である。1947年(昭和22年)、東京巨人軍は、読売新聞社が経営を担うことになり、4月2日、「東京読売巨人軍」に改称した。その翌日の4月3日、後楽園球場で行われた「第10回 日本野球読売旗争奪戦」が、青木さんのデビュー戦となった。阪神、阪急、東急、巨人、金星、中部日本、太陽、近畿が参加した4日間のトーナメント戦で、優勝は阪神だった。(4月10日という説もある)。
青木さんはもともと、NHK職員で事務をしていたが、戦中、中国・大連支局に異動となった。終戦後、大連から日本に引き揚げると、NHKに復職を願い出たが断られたという。
一方、その頃、野球場内で初めてスポンサーの広告放送を行う試験を始めることになった。当時、野球の試合の場内アナウンスといえば、男性が担当する時代であったが、男性と女性どちらが良いのか迷った結果、女性の声のほうが優しい響きで良いよいだろうということから、日本野球連盟職員が当時、NHKの名物実況アナウンサーの志村正順に相談に行った。志村はNHKのスポーツ実況の草分け的存在であり、後に、あの天覧試合の中継を実況したアナウンサーでもある。志村は、無職の青木さんのことを思い出して推薦したことから、アナウンサー職の経験がなかった青木さんの採用が決まり、日本野球連盟に所属する形となった。
これが、日本初のウグイス嬢誕生の瞬間である。
しかし、青木さんは、当初、アナウンサーの経験ばかりか、野球の知識もまったくなかったという。だが、自ら「負けず嫌いだった」という青木さんに、日本野球連盟の職員や、審判の島秀之助が後楽園球場で野球についての講義を行った甲斐もあり、半年もすると青木さんは立派に野球に詳しくなっていたという。
また、当初は、女性が場内アナウンスをやることに批判も多く寄せられた。しかし、マスコミが、女性アナウンサーが美声で仲間を呼び寄せる鳥の鶯(ウグイス)のようだったことから、「ウグイス嬢」と名付け、次第に定着していったという。
それから、青木さんは一リーグ時代が終わる1949年(昭和24年)1月22日のオープン戦まで丸1年9ヵ月、ウグイス嬢を務めてきたが、南海ホークスの笠原和夫と1月24日に結婚した。
笠原は、早稲田大学野球部では主将を務め、1943年10月16日に東京・戸塚球場にて開催された出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる「最後の早慶戦」)に早稲田の4番打者として出場しており、南海に入団後、1948年に当時の新人記録となるシーズン160安打(現在もNPB歴代2位)を放ち、その後、高橋ユニオンズで選手兼監督を務めた。二人の馴れ初めは明らかでないが、ウグイス嬢とプロ野球選手、野球が取り持った縁であることは間違いない。
務台鶴/「よばん打者」の発祥、「8時半の男」の名づけ親、長嶋茂雄のデビュー戦、引退試合を担当
青木さんが日本初のウグイス嬢になった翌年の1948年(昭和23年)には、ウグイス嬢の後輩として、務台鶴さんという女性がジャイアンツに入社する。「務台」という苗字でピンと来るだろうが、読売新聞社の元社長、務台光雄の姪にあたる。
「四番」を「よんばん」ではなく、「よばん」と読み上げたのは、鶴さんの功績だろう。いまでも「四番打者」は「よばんだしゃ」と読み、「よんばんだしゃ」とは読まない。
いま聞くと、鶴さんのアナウンスには、抑揚があまりないが、それは「女性らしい声を控えてくれ」という要望があったからだという。
当時、後楽園球場の放送室は、グラウンドレベルにあった。鶴さんは、
「目の前を通る選手の足ばかり見ることになる。おかげで歩き方で誰だということが分かるようになった」という。
鶴さんにまつわる有名なエピソードといえば、「8時半の男」である。1965年(昭和40年)、ジャイアンツのリリーフエース、宮田征典が8月半ばまでに、リリーフだけで17勝2敗という驚異的な成績を挙げており、その年のオールスターゲームのファン投票では、阪神タイガースの村山実や、チームメートの金田正一を抑えてセ・リーグ投手部門1位で選出されるほどだった。ウグイス嬢の鶴さんは、宮田が登板する時間帯が午後8時30分(8時半)前後であることに気づき(当時のナイトゲームの試合開始は19時が多かった)、
と発言した。当時、TBSテレビで放送していた「月曜日の男」というドラマがあり(1961年7月17日から1964年7月27日まで放映)、それを捩ったものだった。鶴さんの一言を聴いた報知新聞記者の中山伯夫氏が、宮田を「8時半の男」と命名し、それが宮田の終生の渾名となった。宮田は結局、リリーフだけで20勝を挙げ(当時、セーブ記録はなく、いまのルールなら22セーブも加わる)、セ・リーグのシーズンMVP投票でも、打撃二冠王の王貞治に次いで2位になるなど、大車輪の活躍だった。
鶴さんは、1958年(昭和33年)の開幕戦、立教大学のゴールデンルーキーだった長嶋茂雄のデビュー戦にも立ち会った。ジャイアンツのV9も一緒に駆け抜け、1974年(昭和49年)、長嶋茂雄の引退試合でも、現役最後となる「四番、サード、長嶋」をアナウンスした。
鶴さんは、アニメ「巨人の星」にも本人役で「カメオ出演」している。アニメの中で、本人が自身の役を演じて「ジャイアンツはピッチャー星、背番号16」とアナウンスしている(日本のアニメ史上、実在の人物が本人役で声をあてたのは、鶴さんが初と言われている)。実は、この回は「鬼のグラウンドキーパー(第78話)」という回で、鶴さんの実の兄でもあり、ジャイアンツ多摩川グラウンドのグラウンドキーパーで、「多摩川の主」と言われた務台三郎が重要な役割を果たしている。務台三郎は、若い頃の王貞治に父親のように慕われた人物である。三郎はアニメの中で、星飛雄馬にもプロとはなんたるかを教えることになる。
山中美和子/王貞治の通算756号本塁打に立ち合い、球団1万試合目を担当
ジャイアンツの2代目ウグイス嬢の山中美和子さんは、1956年(昭和31年)11月4日、神奈川県に生まれた。神奈川県立の追浜(おっぱま)高校では野球部のマネジャーを務めた。高校卒業後、神奈川県高野連に就職した。当時、県下強豪の東海大相模高校の試合の場内アナウンスを受け持ち、「四番、サード、原辰徳くん」とアナウンスしたこともある。その後、ジャイアンツの場内放送係募集に応募して採用された。
入社当時、ベテランの鶴さんがまだ現役を張っていた。山中さんは見習いとして、鶴さんの指導を仰いだが、その鶴さんを病気が襲った。山中さんは、鶴さんに代わり、入社2年目の1977年(昭和52年)8月からウグイス嬢を務めることになった。場内アナウンスを担当し始めた当初は失敗の連続だったという。
王貞治が、後楽園球場でハンク・アーロンを超える通算756号本塁打を打ったのは、1977年(昭和52年)9月3日。すなわち、王の歴史的快挙に立ち会ったのは、ウグイス嬢になりたての山中さんだった。
鶴さんは、山中さんに「ジャイアンツファンになりなさい」と教えたという。曰く、「自分がどのタイミングで(アナウンスを)聞きたいか。一番聞きやすいタイミングで言えばいい」、そうすれば、どのタイミングでアナウンスをするのが、ファンが喜ぶのかがわかる、ということだ。曰く、「場内放送係は、審判の代わりに告げる人。変な抑揚を付けずに、普通にハッキリと言うこと」。山中さんのあの独特の「抑揚」の無さと「タメ」は、鶴さんのアドバイスから生まれたものだろう。
その後も、鶴さんは病床でラジオから流れるジャイアンツの試合中継に耳を澄まし、山中さんの場内アナウンスを聴き、それを基に、山中さんにアドバイスを送っていた。また、鶴さんは病気から回復すると病み上がりの身体を圧して、多摩川のグラウンドまで赴き、小雨の降る中、山中さんの場内アナウンスを聴いて、指導することもあったという。しかし、1978年(昭和53年)5月、鶴さんは亡くなった。ジャイアンツに入社して節目の30年目の訃報であった。
それ以来、山中さんは鶴さんの教えを胸に、アナウンスの仕事を続けている。2007年(平成19年)には鶴さんの実働年数を超えた。ジャイアンツは2015年(平成27年)8月5日のヤクルト戦で、チーム通算1万試合目を迎えたが、その試合を担当したのは山中さんだった。
渡辺三保/吉村禎章の復活打席をコール、槙原寛己の完全試合、坂本勇人の通算2000安打の達成試合を担当
ジャイアンツのもう一人のウグイス嬢、渡辺三保さんは1979年(昭和54年)に入社し、庶務部に配属された。新聞の求人広告を見て応募したという。入社から2004年(平成16年)までは1、2軍のアナウンスを務め、2005年(平成17年)からは1軍専属となった。2018年(平成30年)に定年退職後、2019年から契約社員となった。
1980年(昭和55年)、「四番、ファースト、王、背番号1」-王貞治の引退イヤーが、渡辺三保さんのデビューイヤーとなった。東京ドームに変わって、1989年(平成元年)9月2日、大けがが復帰した吉村禎章が代打で423日ぶりに打席に立つとき、渡辺さんの「バッター、斎藤(雅樹)に代わりまして吉村」というアナウンスは、かき消されそうになったが、思い出に残っているという。
1994年(平成6年)5月18日、福岡ドームで槙原寛己が完全試合を達成した試合も、そして、2020年(令和2年)11月7日、今季東京ドームでの最終戦、坂本勇人の通算2000安打を達成した際、どちらの偉業に立ち会って場内アナウンスを担当したのも、渡辺さんだった。
「ウグイス嬢」は日本プロ野球の「語り部」
山中さんも渡辺さんも、ジャイアンツの本拠地が後楽園球場から東京ドームに移っても、スターが王・長嶋、江川卓、原辰徳、松井秀喜、高橋由伸、阿部慎之助、坂本勇人、・・・と移り変わっても、元号が昭和から平成、平成から令和に変わっても、アナウンスの仕事を続けている。ジャイアンツだけでなく、日本のプロ野球の歴史の語り部なのである。
ジャイアンツの次のウグイス嬢は、どんな歴史を紡いでいくのだろうか。