広島カープ、20歳の林晃汰を四番抜擢、U-24・四番打者の系譜
広島カープの林晃汰が、チームが最下位に沈む苦しい中、躍動している。
6月22日、地元マツダスタジアムでの対ヤクルト戦、主砲の鈴木誠也に代わって、高卒プロ3年目の林晃汰が、「四番・サード」で出場した。
林は2000年11月16日生まれ、智弁和歌山高校出身のプロ3年目、20歳。今季は開幕二軍スタートで、なかなか調子も上がらなかった。しかし、5月中旬に持ち直したところに、チームにコロナウイルスショックが襲った。
5月18日、緊急昇格すると、巨人戦(東京ドーム)で「7番・サード」で今季初スタメン。巨人先発で、同級生の戸郷翔征との対戦となったが、5回の打席、無死一、三塁のチャンスで廻り、レフト前にヒットを放った。これが待望のプロ初打点となった。
そこから一旦、出番が途絶えたが、交流戦が始まった5月29日、ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では久々の先発出場した第1打席で、ロッテ先発の美馬学からライトスタンドにプロ初本塁打となるソロホームランを放った。プロ13打席目にして嬉しい一発となった。
そこから6月に入ってからも好調は続き、6月4日からの楽天との3連戦(楽天生命パーク)では、初戦の先発・涌井秀章から2安打、2戦目の先発・田中将大から今季2号となるソロ本塁打、3戦目の先発・ドラフト1位ルーキーの早川隆久を攻略して、プロ初の1試合3安打、猛打賞と気を吐いた。
一旦、調子を落としたものの、6月15日の西武戦からは6試合連続でマルチ安打を放ち、特に6月19日のDeNA戦では3号ソロホームランを含む、1試合4安打4打点と大暴れで、打率を再び4割に載せた。
こうした活躍が買われ、6月22日のヤクルト戦(マツダスタジアム)では、コロナウイルスワクチンの副反応が出た鈴木誠也に代わって、「4番・サード」でプロ初の4番を務めた。4試合連続で座った4番ではわずか2安打だったが、6月はリーグ3位となる32安打、打率.360、2本塁打、17打点をマークしている。
では、広島カープで、林のように、若くして4番打者を務めた選手はどれくらいいるのか、最も若い10人の選手を見てみよう。
10位 興津 立雄(達雄) 1960年4月6日 23歳10か月
静岡商業では四番打者として甲子園準優勝、専修大学では東都大学リーグ屈指の強打者として活躍し、1959年に広島カープに入団。
1960年の開幕戦では新人ながら「6番・サード」で初出場し、96試合に出場する。翌1960年にはプロ2年目にして開幕直後に、「四番・ファースト」に抜擢。「投高打低」のシーズンで、リーグ2位タイとなる21本塁打を放ち、森徹(中日)に1本差で届かずホームラン王を逃したが、ブレイクを果たす(同時に、リーグ最多の108三振)。
その後、腰痛に悩まされながらも、1963年には全試合出場(140試合)をほぼ四番で出場し、打率.303(リーグ5位)、93打点(同3位)、19本塁打をマーク、藤井弘、古葉竹識らと主軸の活躍を見せた。
1965年には、5月11日の巨人戦(石川県立兼六園球場)では、4番に座り、球団初の1試合3本塁打を、NPB史上3人目となる「3イニング連続本塁打(ソロ、2ラン、3ラン)」で達成するという快挙を達成している。
プロ13年で、オールスターに3度出場、8度の二桁本塁打を達成し、145本塁打を放ったが、通算1000安打には届かず(998安打)、1971年オフに現役引退した。腰痛がなければ、もっと本塁打を量産できたと思われ、悔やまれる。
9位 前田 智徳 1994年4月9日 22歳9か月
熊本工業から三拍子揃った外野手として評価が高く、広島カープが1989年のドラフトで4位指名して入団。
1990年、6月6日のヤクルト戦で「6番・センター」でプロ初出場・初先発し、いきなり初打席でタイムリー二塁打を放った。その年はホームラン0で終わったが、翌1991年のヤクルトとの開幕戦(広島市民球場)、「1番・センター」で先発出場し、NPB史上唯一の「シーズン開幕戦の初回に先頭打者本塁打でプロ初ホームラン」を記録した。
プロ5年目、1994年の巨人との開幕戦では、「4番・センター」で出場、球団史上最年少の22歳9か月で「開幕4番」に座った。
1995年5月23日のヤクルト戦で、不安を抱えていたアキレス腱を断裂する大けがを負い、そこからは毎年のように故障と付き合いながらのプレーとなったが、1998年には打率リーグ2位の.335、24本塁打を記録するなど、それでもコンスタントに結果を残し続けた。
特に2000年には、FAで流出した江藤智に代わって、開幕から4番を打ったが、現役を通して、4番での出場は63試合のみで、62安打、12本塁打しか記録していない。
2007年にNPB36人目となる通算2000安打を達成、以降は代打出場が中心となったが、2013年に引退を決意。23年の現役生活で打撃タイトルとは無縁で終わったが、シーズン打率3割以上を11回、通算2119安打、295本塁打、1112打点の記録を残してバットを置いた。
現在は野球解説者などの傍ら、アマチュアゴルファーとしても頭角を現している。
8位 鈴木 誠也 2017年4月11日 22歳7か月
東京・二松学舎高校ではエースで四番、高校通算43本塁打を記録するも、甲子園には届かず。2012年ドラフト2位で広島カープに入団した。
ルーキーイヤーの2013年9月14日の巨人戦では代打でプロ初打席を記録、カープの高卒新人として1999年の東出輝裕以来となる一軍出場を果たした。
2014年の9月25日、ヤクルト戦(神宮)では「1番・ライト」で先発出場、先頭打者として打席に入ると、ヤクルト先発・石川雅規の投じたプレイボール初球をレフトスタンドに叩きこみ、プロ初本塁打を記録。翌2015年の開幕戦では「1番・ライト」でスタメン出場を果たし、97試合で5本塁打を記録した。
大ブレイクしたのは、プロ4年目の2016年の交流戦で、オリックス・バファローズとの3連戦では、第1戦(6月17日)と第2戦(6月18日)で2試合連続となるサヨナラ本塁打、第3戦(6月19日)では決勝本塁打を放った。NPBで「同一打者の2試合連続サヨナラ本塁打」は史上10人目で、21歳での達成は史上最年少、球団では長嶋清幸(1984年9月14日、9月15日)以来、2人目の快挙となり、カープの選手による「3試合連続決勝本塁打」は、江藤智が1996年6月30日~7月3日に達成して以来であった。
カープのリーグ3連覇には主に3番・4番打者として大きく貢献、2020年には、「打率3割超えと25本塁打以上」を5年連続でマーク、NPBでは王貞治、落合博満、小笠原道大に次ぐ史上4人目の快挙を達成した。
2021年に入って、4月24日の巨人戦(東京ドーム)では、カープの選手として歴代16人目となる通算150号本塁打を放った。鈴木の795試合目での達成は、1996年の江藤智の648試合、1982年のジム・ライトルの718試合、1999年の金本知憲の734試合に次いで、球団では4番目となる速さであり、また、26歳8カ月での達成は、江藤の26歳2カ月に次ぎ、1974年の衣笠祥雄の27歳4カ月を抜いて、球団2番目の若さでの到達となった。
鈴木誠也はカープの野手の「顔」となったばかりか、2019年オフの「プレミア12」では全試合4番で先発出場すると、3試合連続本塁打を放ち、大会MVPとベストナインを獲得、東京五輪2020でも侍ジャパンの一員に選出され、金メダル獲得の原動力となることが期待されている。
7位 町田 公二郎(康嗣郎)1992年7月28日 22歳7か月
地元・高知の明徳義塾で甲子園に出場、専修大学を経て、広島カープに1991年のドラフト1位で入団。新人の1992年、6月3日の阪神戦(広島)で代打出場。7月25日の大洋戦(横浜)で先発の岡本透からプロ初ホームランを記録すると、翌日7月26日の試合では2本塁打、5打点と固め打ちしたことで好調さを買われ、7月28日のヤクルト戦(神宮)ではマーティ・ブラウンに代わって、「4番・レフト」に入った。そこから15試合連続で4番を打った。調子を落とすと、9月以降、江藤智が4番に定着したため、それ以降、町田が4番を打つことはなかった。
その後、熾烈な争いで、外野・内野でもレギュラーに定着できなかったが、1996年には代打で打率4割超えと実力を発揮し、1997年に自身初の二桁本塁打(10本塁打)を記録した。江藤が欠場した際、代わりに4番を打つこともあった。
町田は2001年10月11日のヤクルト戦で自身4本目となる代打満塁本塁打を放ち、藤井康雄(阪急、オリックス)のNPB記録に並ぶと、2002年6月7日の阪神戦ではNPB史上3人目となる「代打で初回先頭打者本塁打」をマークし、川又米利(中日)が持つ代打本塁打17本のセ・リーグ記録に並んだ。
2003年には、NPB記録の9年連続となる代打本塁打を放ったが、2004年に出場機会が激減し、2005年から阪神タイガースに移籍。
移籍2年目の2006年7月4日、中日戦で代打出場し、自身20本目の代打本塁打を放って、NPB歴代2位の大島康徳(中日、日本ハム)と並んだが、これが現役最後の本塁打(85本目)となった。
現役引退後は、阪神の二軍・広島の一軍の打撃コーチを務めた後、社会人野球の三菱重工広島のヘッドコーチ、監督を歴任、今年から福井工業大学の総合コーチに就任し、6月の全日本大学野球選手権大会では同校を北陸勢初の決勝進出に導いている。
6位 水谷 実雄 1969年8月26日 21歳9か月
宮崎商業では1年夏から控え投手として甲子園に出場、2年夏にエースで4番としてベスト4。第1回ドラフト会議で、広島カープから4位指名を受けて投手として入団するもすぐに野手転向。プロ4年目の8月にようやくプロ入り初ホームランを記録すると、8月26日の阪神戦(甲子園)では、山本一義に代わり、「4番・ライト」で出場した。
1971年からはレフトのレギュラーを掴み、主に1番・3番に定着すると、初のオールスター、ベストナインにも選出された。1976年からは打率3割超えをマークし、1978年には打率.348で自身初のタイトルとなる首位打者を獲得、当時、チーム初の3年連続打率3割超えを記録し、1979年・1980年の連続日本一にも貢献した。ただし、山本浩二が不動の4番として君臨したため、5番を打つことが多く、広島在籍時、4番での先発出場はわずか6試合のみだった。
1982年オフに阪急に移籍、1983年には自身初の開幕4番、全試合出場を果たして、自己最多の36本塁打、自身初の打点王(114打点)を獲得したが、翌1984年のロッテとの開幕戦で頭部に死球を受けた影響で打棒は戻らず、1985年オフに現役引退した。
通算19年で1729試合に出場、1522安打、244本塁打、809打点、打率.285。
5位 衣笠 祥雄 1968年10月5日 21歳8か月
京都・平安高校では捕手として甲子園に出場、1964年に広島カープに入団。
ルーキーイヤーの1965年には7月に捕手で初スタメン、8月に阪神戦で村山実からプロ初ホームランを放ち、打撃を活かすために捕手から一塁手に転向。
若い頃は、当時の関根潤三コーチから鬼の指導を受け、根本陸夫監督就任1年目となるプロ4年目の1968年には開幕から5番で起用され、21本塁打でブレイクした。
1970年10月19日の巨人戦から連続試合出場が始まり、いつしか「鉄人」が代名詞となった。1987年に現役引退するまで、2215試合連続出場を続けた(その後、MLB/ボルティモア・オリオールズのカル・リプケンが記録を更新)。
1976年には自身初タイトルとなる盗塁王、1984年には初の打率3割到達と打点王を獲得した。1987年には当時、NPB史上4人目となる通算2500安打、史上5人目となる通算500本塁打を手土産にオフに引退した。
23年の現役生活で、2677試合出場(NPB歴代5位)、2543安打(同5位)、504本塁打(同7位)、1448打点(同11位)、266盗塁。
4番打者としては、球団歴代5位となる560試合に出場、打率.275、570安打(同5位)、119本塁打(同3位)、365打点(同4位)を挙げている。
4位 緋本 祥好 1956年7月18日 21歳4か月
兵庫・西宮高校から1954年に広島カープに入団。プロ3年目の1956年の開幕戦で「7番・ライト」で初の一軍出場を果たすと、7月以降は主砲の小鶴誠に代わって、「4番・センター」で出場するなど、12試合で4番を務め、シーズン15本塁打を放った。だが、その後、死球による後遺症もあり、打者として伸び悩んだ。1961年に東映フライヤーズに移籍、翌62年にリーグ優勝と日本一を経験した。
3位 藤井 弘 1956年9月23日 20歳11か月
地元・福山の盈進商業から倉敷レーヨンを経て、広島カープに入団。1955年の開幕戦に「7番・ファースト」で先発出場するも、本塁打0に終わった。
翌1956年の8月にはプロ初本塁打を記録、終盤の9月23日には、プロ初の4番に座った。3年目の1957年には開幕から3番に座り、長打力が開花、一塁手のレギュラーとして定着して、オールスターにも出場した。3番・4番でほぼ全試合で先発出場を果たし、17本塁打をマークした。
1960年5月27日、国鉄の金田正一の連続イニング無失点記録を「64回1/3」で止めたのは、藤井の一発だった。
衣笠祥雄の台頭もあり、1969年オフに現役引退したが、通算177本塁打は、球団歴代9位。
2位 林 晃汰 2021年6月22日 20歳7か月
地元の強豪、智弁和歌山で1年生から左投右打ちのサードとしてレギュラーを掴み、2年生夏に甲子園に初出場、初戦で本塁打を放つ。3年生春のセンバツで準優勝、3年生夏は3季連続で甲子園に出場した。高校通算49本塁打。
広島カープが2018年ドラフト3位で指名。二軍で実戦を積み、特に2020年は二軍で出場全試合で4番を務めるとリーグ2位の9本塁打・40打点で一軍に昇格し、10月9日にヤクルト戦(マツダスタジアム)でプロ初安打を記録した。
プロ3年目の今年、5月29日のロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)でプロ13打席目にして初ホームランを放つと、6月19日には4安打4打点、6月22日のヤクルト戦(マツダスタジアム)では、コロナウイルスワクチンの副反応が出た鈴木誠也に代わって、「4番・サード」でプロ初の4番を務め、その後、4試合連続で4番に座った。
1位 江藤 智 1990年10月2日 20歳5か月
東京の関東高校では捕手として高校通算61本塁打を放った。1988年のドラフト会議で広島カープから5位指名を受け、入団。
プロ2年目の1990年に一軍初出場し、6月16日の大洋戦でプロ初ホームランを放つと、シーズン終盤に「4番・ライト」で2試合、出場した。
これがいまだに破られていない、「カープ最年少4番打者」の誕生となった。
その後、捕手から三塁手に転向、プロ3年目の1991年には開幕スタメンを勝ち取り、自身初の二桁本塁打をマークした。1992年の終盤に4番に定着、1993年には自身初の全試合出場で、34本塁打を放ち、自身初の本塁打王とベストナインを獲得した。
1995年には、2度目の本塁打王と初の打点王の二冠を獲得した。
1999年オフにFAで読売ジャイアンツに移籍した。
カープで打った248本塁打は球団歴代4位、670打点は同9位であり、4番打者としての成績は、795試合で打率.280、207本塁打、553打点、打率と盗塁を除き全部門で、山本浩二に次いで2位である。
巨人移籍後も2000年から2年連続30本塁打以上を含み、2003年まで13年連続で二桁本塁打をマークしたが、巨人の相次ぐ大型補強により出場機会が減り、西武ライオンズに移籍した。2006年4月15日にはNPB史上19人目となる350本塁打に到達、2007年9月29日にはNPB史上33人目となる1000打点に到達し、2009年のオフに現役を引退した。
3球団でのプロ生活20年で、オールスター6回選出(うちカープで5回)、ベストナイン三塁手部門で7回受賞(うちカープで5回)、打率.268、通算1559安打、364本塁打(NPB歴代27位)、1020打点をマークしている。